聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/5/16 マタイ伝19章16~26節「針の穴を通るほうが」

2021-05-15 00:03:46 | マタイの福音書講解
2021/5/16 マタイ伝19章16~26節「針の穴を通るほうが」[1]

 エルサレムに向かうイエスの所に、一人の人が近づいて来ました。20節は「青年」と言い、多くの財産を持っていたとも22節に言われます。マジメに律法を守ってきたと言い切れる。それでも、まだ何か足りない。若さも真面目さも財産も、満たしてはくれない思いの中で、
「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」
と聞いたのです。永遠のいのち、「天の御国に入る」[2]「救い」[3]と言われるのは、今ここで、永遠の価値に生かされること、天にいます永遠なる神の御支配に生かされることです[4]。この青年は、そういう神からの生き生きとしたいのちを求めて、イエスに尋ねて来たのです。
17イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです。いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」
 青年の質問は「どんな良いことをすれば」でしたが、イエスは「良い方はおひとりです」と神を思い起こさせます。私が何をするかでなく、良いお方(神)に目を向けるよう言います。神が何を仰っているかが大事なのです。これにも、
18彼は「どの戒めですか」と言った。
 神のどの戒めを自分が守ればいいのでしょうか、と神は見えていません。これに答えてイエスが挙げる戒め、
「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。19父と母を敬え。…」[5]。
 十戒の、人に対する五つの戒めと、その要約である
「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」
です。これが、神が示されたいのちの道です。「これらを守れば永遠のいのちを得られる」という手段ではありません。「永遠のいのちを得るために愛する、戒めを守る」は、神の御心とは違います。でも、この青年は言うのです。
20…「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。」」
 律法を守っている、と言うのは当時のユダヤ教の理解では特に思い上がった事ではなかったようです[6]。それでも、彼はまだ満たされない。目的が手段にすり替わっているからです。
21イエスは彼に言われた。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。…
 欠けの満たし方でなく、全部手放しなさい。戒めを守っているという誇りも、多くの財産も、却って邪魔をしている。「良いことをしなければ」とか「私は守ってきました」と胸を張る、立派な信仰者を目指す、神を誤解した生き方を捨てなさい。財産は貧しい人たちのために使い切って、
「そのうえで、わたしに従って来なさい」。
 イエスは青年をそう招かれました。最も大事なのは、「私が良いことをする」以前に、「良いお方」である神とともに生きることです。イエスに従うとは、イエスに出会い、イエスの言葉に生きる事で、神とともに歩むことです。それこそが、いのちなのです。しかし、
22…このことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。
 そしてこれに続いてイエスが仰ったのが今日の説教題にもした有名な、途方もない言葉です。
24…金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」
 この出来事の前、13~15節でイエスは小さなこどもたちを迎えて、
「天の御国はこのような者たちのものなのです」
と仰いました。小さな幼児、何も持たない、何も神に対して誇るものがない、そうした人こそ、神の一方的な恵みを手放しで戴くことが出来ます[7]。でも、金持ちや真面目な人、正しさを自負できる人は、それが出来ない。神の国の門は狭くても、何も持たない人や子どもは楽々入れるのに、あれもこれも捨てられずに却って、入れない[8]。それは本当に難しいので、駱駝(らくだ)が針の穴を通るほうが易しい、と仰いました。
 これを聞いて弟子たちは
「たいへん驚き」
ます[9]。その驚く彼らをイエスは
「じっと見つめ」
ます[10]。
「それではだれが救われるだろう」
とたじろぐ弟子たちを、色々なものを握りしめて後ろめたさや不安を覚える私たちを、じっと見つめられるイエスが、こう仰るのです。
26…「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」
 幼子のようにただ主の恵みを戴けばいいのに、隣人を自分のように愛せたら本当に楽なのに、物を握りしめず減らして使ってもらえば幸せになるのに、出来ない。「捨てなさい、手放すべきだ」と言われても、難しい。でもそれで立ち去ったら終わり、ということなら絶望です[11]。人には出来ない。だからこそ、神がしてくださるのです。人には悲しみでも、そこからこそ、神が私たちの神であり、私たちをじっと見つめ、救ってくださる希望が始まります。

 神は、神の国の狭い門の奥で、良い行いをした人やすべてを捨てた人だけを迎え入れようと待っている神かと思ったら、なんと天から飛び出して、貧しい人間となり、子どもを祝福し、良いことをしたなんて言えない者のそばに来てくださいました。神が人となる。それよりは、駱駝が針の穴を通る方が易しいことです。イエスは、それをしてくださいました。いいえ、それを惜しみなくするのが、神であり、それこそが神の国の治め方なのだと言われたのです[12]。

 私たちには神の国の生き方を選ぶことは出来ません。ただ神が、私たちのうちに働いて、私たちの小さな貧しい心に入ってくださって、神の国に入れてくださるのです。主は、私たちに良い行いを望むより、ご自身が良い方であることを私たちに知って、信頼して、喜んでほしいのです。そして、その喜びが溢れて、隣人を自分のように愛し、持っているもの全て惜しまずに捧げるような生き方を、私たち自身を委ねる心を育ててくださるのです[13]。そう、大事なのは、私たちには出来ないことを神がして下さること、私たちのために駱駝が針の穴を通る以上の事をしてくださった神がおられること、その神が今も私たちの神、永遠の王であることです。

「主よ、人には出来ないことを、あなたがしてくださいます。だから私たちは希望を持てます。そのあなたを小さく考え、自分を誇り、人をも心で踏みにじる罪を、どうぞ砕いてください。良い人でなければと心を閉ざす生き方に触れてくださって、弱さも罪も認めて悲しませてください。痛みの多い私たちの歩みの中に、あなたが働いて、私たちには出来ないことをしてください。何より私たちが手も心も開いて、あなたの恵みの業のために捧げさせてください。」

脚注

[1] 参考説教として、吉田隆牧師の「針の穴を通るラクダ」をオススメします。https://www.christ-hour.com/archive/detail.php?id=516

[2] 23節。

[3] 25節。

[4] 今の人生が死で終わっても、その先がある、死を超えた場所があることも大事ですが、それ以上に今ここで既に、神の国の民、永遠に朽ちない尊さに生かされる。それが永遠のいのちです。

[5] 十戒の後半の四つの戒めと、真ん中の第五の戒めに戻り、それから十戒にはないけれど、律法の要約と言える「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」です。

[6] 使徒パウロも、「その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。」(ピリピ書3章6節)と現在形で語るほどです。

[7] 他の人とも、競争したり踏みつけたりせず、ともに生きることが出来ます。持っている財産を貧しい人に与えるというのも、イエスが願ったのは善行と言うより、貧しい人との出会いです。イエスはその最初の説教の切り出しを「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイ5章3節)と語られたのです。何も持てない人が、神の国の民とされる幸いを戴いている。それが、イエスの語る神の国です。

[8] 子どものようになる、と言われた。子どもは、自分の好きなことのためなら、全部投げ出す。針の穴を通るような狭いところにも、行きたければ入って行く。努力して、ではなく、すべてを捨てて。

[9] 当時の考えでは、金持ちは、その正しさの故に、神が財産を祝福して下さった人だと思われていました。

[10] マルコやルカではイエスが去って行く青年を見ています。マルコの福音書10章21節(イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた。「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」)、ルカの福音書18章24節(イエスは彼が非常に悲しんだのを見て、こう言われた。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。) しかしマタイは、青年よりもむしろ弟子たちを見つめ、語るイエスを描きます。「それではだれが救われるだろう」とたじろぐ弟子たちを、色々なものを握りしめて後ろめたさや不安を覚える私たちを、じっと見つめられるイエスです。

[11] この青年も悲しみながら去ったのは残念なことでしょうか。イエスの言葉は、神がこの青年に働いてくださったという希望を響かせます。そもそも、これまで「良い行いをしなければ」と胸を張らなければと思っていた彼が、イエスの言葉を聞いて、悲しめた事、自分の心の痛みに触れられた事、心を注ぐことが出来たのは、むしろ主が私たちの心をも開いて、悲しませてくださる出来事とも重ならないでしょうか。

[12] 惜しみ無さこそ、神の完全さ。何にも執着せず、誇らず、手放して、自分を相手に与えてしまう。それこそ、神の聖なる完全さ。そこに私たちも似ていく。招かれていく。神がそうしてくださる。得るよりも手放す。惜しむよりも受け取る。それが、神の国の生き方であり、将来の話ではなく、今ここで始まっていることなのだ。

[13] 今ここで、すべてを捨てること、すべてを主に委ねて、自分さえ明け渡しながら生き始めるのでなければ、神の国に向かうことさえ出来ない。

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2021/5/9 マタイの福音書19章1~9節「神が結びあわせたもの」

2021-05-08 12:44:18 | マタイの福音書講解
2021/5/9 マタイの福音書19章1~9節「神が結びあわせたもの」

 この19章は、イエスがガリラヤ伝道を終えて、エルサレムのあるユダヤ地方に向かわれた、大きな区切りです[1]。その最初に切り出されたのが「離縁が律法に叶うか」という問いです[2]。まずこれは「イエスを試みるため」とあるように、実に際どい質問でした。9節に、
「だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです。」[3]
 まさにこれをしたのがガリラヤの領主ヘロデで、その罪を非難した洗礼者ヨハネは、捕らえられ、やがては首をはねられたのです[4]。イエスを試すための政治的な質問でした。しかしイエスは臆することなく、離婚や結婚、そして独身であることについて教えられます。まず、
4…「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』ました。5そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。6ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」
 これは、聖書の一番最初、創世記一章二章の記事、聖書が立ち戻る初めの秩序です。神は男と女を創造され、産み育ててくれた父母から自立して、歩んできた人生も性(ジェンダー)も大きく異なる相手とともに生きる道、結婚を定められました。それは人が引き離せない結びつきです。しかし、聖書は一切離婚を禁じるわけではありません。その事をパリサイ人たちは持ち出します。
7…「それでは、なぜモーセは離縁状を渡して妻を離縁せよと命じたのですか。」[5]
8イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめの時からそうだったのではありません。…」
 それはどんな頑なさのことでしょう[6]。一つは彼らの男性中心、女性蔑視です。「何か理由があれば、妻を離縁することは律法に叶っているか」は、夫が妻を離縁することで、その逆ではありません。そして当時なされていた「何か理由があれば」は、妻の不貞だけか、あるいは、料理を焦がしたという理由か、いや別の女を妻としたければそれだけでも離婚の理由になるか、という議論で、夫の側の不貞や妻の離婚の希望は問題にもなっていませんでした。7節の引用だって、元々は命令文ではなく、「離縁状で離縁したら」という条件文なのです[7]。その相手とまたよりを戻すことを禁じる文章なのです。つまり安易な離婚を窘める律法です[8]。それなのに、彼らは真逆にしてしまっています。当時の律法理解の歪みが分かります。そしてこれを聞いた弟子たちも、
10…「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです。」[9]
と言うぐらい、社会が男尊女卑に傾いている。この男性たちの頑なさがあげられます。[10]
 或いは5節「男は父と母を離れ、その妻と結ばれ」と、結婚の前提が親離れなのに、親離れが出来ないままの問題もあります。親も子を手放そうとしない。形だけは結婚しても、子ども同士の二人が一つになる関係は望めません。親離れも子離れもしない。それも頑なさです[11]。
 もう一つは、この直前、18章の最後にあった「赦し」です。小さな負債さえも赦さない人間の思い上がりという頑なさです。その話の直後に、最も赦しが必要な、最も近い関係である、結婚の問題が取り上げられるのです。赦しよりも、頑固に恨み続け、相手を責める結婚ならば、神が結び合わせた、本来の「ひとつ」とは真逆の、居心地の悪い、針の筵です。頑なさは、初めに神が意図された、二人が一つになり神もともにいます家どころか、地獄になるのです[12]。

 男尊女卑、親離れ・子離れの出来なさ、赦しのなさ…。そうした結婚を台無しにする頑なさを神はご存じで、離婚の選択も認めました。それは
「はじめの時からそうだったのではありません」
が、頑なさを無視した形ばかりの「結婚」も、本来の神の意図とは全く違います[13]。当時の社会で離婚された女性が生きるのは大変でした[14]。しかし、頑なな夫とともに過ごすのは生き地獄です。離婚の選択肢は次善の解放になるかもしれません。だから、申命記やレビ記で、新しい地での聖なる歩みを示す律法でも、そこで離婚は起こりえると前提されています[15]。それは、神の情けでした[16]。
11しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれもが受け入れられるわけではありません。ただ、それが許されている人だけができるのです。」
 この「その言葉」は「結婚しないほうがまし」という言葉とも、「神が結び合わせたものを人が引き離してはならない」という言葉とも、どちらとも取れます。ただ、この「受け入れる」という言葉は「場所を空ける」「空間を作って迎え入れる」という意味なのです[17]。結婚を生きるにせよ、結婚しない方がましだと一人で生きるにせよ、どちらも神が許してくださるからこそ出来るのです。私たち人は、現実にこんなもんだと諦めたり、初めの高い理想を強引に貫いたりしそうになります。神はそんな私たちの頑なさも熟知しつつ、はじめの目的をも思い出させられます。本来の結婚の目的も、現実の頑なさの根深さも主は両方ご存じです。その狭間で生きる難しさを知りつつ、そこに新しい空間を作り出してくださいます。創造者である神が、私たちに性や伴侶や、あるいは独身といったそれぞれの生き方をお恵みくださるのです[18]。あるいは離縁を許された人もいます。頑なさを乗り越えて夫婦として結ばれる人もいます。既婚、未婚、独身、離婚経験者も、今ここに、ともに礼拝をする交わりに結び合わされています。神は結び合わせる神であり、私たちの頑なさを溶かし、はじめの目的へと導いてくださいます。



「創造者であり愛そのものなる神様。あなたが深い配慮をもって私たちを違う者として創造し、結び合わせてくださいます。その最も近い関係である結婚が、人の頑なさのゆえに壊れている現実も、あなたは受け止めておられます。私たち一人一人の生活での迷いや痛みを、あなたが深く憐れんで、知恵と慰めを、与えてください。それぞれの家庭を、あなたの恵みによって潤してください。あなたの深い摂理によって、永遠に続く価値のある結びつきをお恵みください」

[1] 「イエスはこれらの話を終えると」は、マタイの福音書で繰り返される、大きな区切りです。11:1(イエスは十二弟子に対する指示を終えると、町々で教え、宣べ伝えるために、そこを立ち去られた。)、13:53(イエスはこれらのたとえを話し終えると、そこを立ち去り、)19:1、26:1(イエスはこれらのことばをすべて語り終えると、弟子たちに言われた。)

[2] 日本の法律で言えば、「離縁」は養子縁組の解消です。夫婦関係の解消は「離婚」と呼んで区別されます。どうして邦訳聖書が「離婚」と言わず「離縁」というのかは、調べてみたいと思います。

[3] 創世記4章には、主が、弟を殺したカインに「それゆえ、わたしは言う。だれであれ、カインを殺す者は七倍の復讐を受ける。」(15節)と言われた記事があります。カインの子孫レメクはそれをもじって「24 カインに七倍の復讐があるなら、レメクには七十七倍。」と豪語しました。この「復讐の原理」に行き着いた先が「七十七倍」であることを、イエスはひっくり返して、「赦しの原理」を「七の七十倍」と描かれたという解釈も出来ます。

[4] マタイの福音書14章3~4節「実は、以前このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。4ヨハネが彼に、「あなたが彼女を自分のものにすることは律法にかなっていない」と言い続けたからであった。」

[5] これは申命記24章が根拠になっています。

[6] 頑な スクレーロカルディア マタイでここだけ、マルコも10:5(並行箇所)と16:14のみ。これを「あなたがたが離婚を頑固に願うから、妥協して離婚を許された」という意味に取る人もいるでしょうが、そのようには書かれていません。神は決して妥協はなさらない。頑固な心のまま、離縁を禁じただけでは、それは神の願う幸いな結婚ではなく、愛のない地獄になってしまう。心が頑ななままでは、結婚の目的は難しくなっているゆえに、神は離婚を許して、人間を守られるのだ。

[7] 申命記24章1~4節。「人が妻をめとり夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、2 そして彼女が家を出て行って、ほかの人の妻となり、3 さらに次の夫も彼女を嫌い、離縁状を書いて彼女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいは、彼女を妻とした、あとの夫が死んだ場合には、4 彼女を去らせた初めの夫は、彼女が汚された後に再び彼女を自分の妻とすることはできない。それは、主の前に忌み嫌うべきことだからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない。」ですから、このパリサイ人の引用は、歪められた解釈で、本来の旧約の文言通りではありません。

[8] エレミヤ書3:1「もし、人が自分の妻を去らせ、彼女が彼のもとを去って、ほかの男のものになったら、この人は再び先の妻のもとに戻れるだろうか。そのような地は大いに汚れていないだろうか。あなたは、多くの愛人と淫行を行って、しかも、わたしのところに帰るというのか。──主のことば──」 しかし、主はこの節操のないイスラエルの民を、迎え入れてくださった。杓子定規に言えば、汚れて、帰ることなどあり得ないのに。大事なのは、それほど、関係が重要だ、簡単に解消して、また戻せばいい、などと思えないほど、神聖な関係である、ということ。頑なで、準備の出来ていない両人の結婚でさえ、神が結び合わせたもの、と言い、しかし、頑なさのゆえに、神は憐れみをもって離縁をも許され、人間を憐れみ、癒やそうとなさる慈しみにこそ、私たちは立つ。決して、離婚された人を断罪し、許されないかのように考えることはない。

[9] 「するほうがましスンフェレイ」 5:29、30、18:6では他者をつまずかせるより、石を首にくくられて海に放り込まれた方がまし、と言われていたのに。また、主は「人がひとりでいるのは良くない」と言われたのに、弟子たちは「ひとりでいるほうがまし」と応える。このような事では、離婚云々の土台はない。一人でなく、結婚して良かった、本当に一人で生きなくて良かった、と言えるためには、頑なな心が砕かれることが必要だ。

[10] もちろん、男性中心社会での男性の問題は、今や「男女平等」という名前の元に、男女両者が自分の権利を主張して、相手とともに生きることを嫌う形に現れています。男女ともに、「頑なさ」が結婚を有名無実化してしまっています。

[11] 父と母から離れないまま、新たな「親」を求め、自分がいつまでも「子どものまま」でいたい、相手と新しい「一体」になるより相手に自分のようになってほしい、自分の側に引き寄せることばかり考えていることのなんと多いことか。親が子を手放すことは、創世記の族長アブラハムが、ひとり子イサクを献げたことに象徴的に現されるとともに、その子のイサクも、孫のヤコブも、子どもに共依存している姿に、批判的に指摘されています。モーセやダビデの、子どもとの関係も、示唆に富んでいます。

[12] 結婚こそ、赦しの場だ。人間関係の最も深いところで、七の七十倍以上の赦しが必要になる。それが出来ないため、頑なさが邪魔をして、結婚が結婚にならない場合も、神は見据えておられる。赦すべきか、何度からなら赦さなくていいか、そういう問い自体が意味をなさないように、何の理由があれば離婚が許されるか、ではない。私たちが、今ここで、赦し合い、頑なさから守られて、神の祝福の中に生きるよう、励まされていくことだ。

[13] ダラス・ウィラード「今日、アメリカでの離婚率はおよそ五〇パーセントで、キリスト者といえども同じようなものです。離婚は一連の問題を生み出しますが、離婚自体が問題なのではありません。問題は、人々が結婚とは何かを知らないことにあります。法的手続きを済ませ、宗教的な儀式を経るものの、本当の意味では結婚していない人たちが大勢います。…ここでいう結婚とは、婚姻関係にある二人を文字どおり一人の完全な人にする(エペソ5・22-23)、絶えざる相互の祝福です。とはいえ、それが欠落しているのは当人の落ち度ではありません。この世界では知りようがなく、教えてくれる人もいないからです。これが、現代の悲しみの中心に位置する、魂が灼けつくようなつらい現実です。」『心の刷新を求めて』340ページ

[14] マラキ書2:16(妻を憎んで離婚するなら、──イスラエルの神、主は言われる──暴虐がその者の衣をおおう。──万軍の主は言われる。」あなたがたは自分の霊に注意せよ。裏切ってはならない。)

[15] 離縁について明言しているのは、この申命記24章の規定だが、律法には離縁される女性がいる現実や、男性が離縁する場合があることを前提とした記述がある。レビ記21:7(彼らは淫行で汚れている女を妻としてはならない。また夫から離縁された女を妻としてはならない。祭司は神に対して聖だからである。)、14(やもめ、離縁された女、あるいは淫行で汚れている女、これらを妻としてはならない。彼はただ、自分の民の中から処女を妻としなければならない。)、22:13(祭司の娘が、やもめあるいは離縁された者となり、子もなく、娘のときのように再びその父の家に戻っているなら、父の食物を食べることが許される。しかし、一般の者はだれもそれを食べてはならない。)、民数記30:9(しかし、やもめや離縁された女の誓願については、すべての物断ちが当人に対して有効となる。)、申命記22:19(銀百シェケルの罰金を科し、その娘の父に与えなければならない。彼がイスラエルの一人の処女に汚名を着せたからである。彼女はその男の妻としてとどまり、その男は一生、彼女を離縁することはできない。)、29(娘と寝た男は娘の父に銀五十シェケルを渡さなければならない。彼女はこの男の妻となる。彼女を辱めたのであるから、彼は一生この女を離縁することはできない。)

[16] 「離縁するアポリュオー」がマタイで最初に登場するのは、1:19の、ヨセフのマリア離縁の悩みでした。この福音書は、離縁に悩むヨセフの姿を受け入れつつ、励まし導く記事から始まっているのです。その他は、5:31、32。

[17] 11、12節「受け入れるコーレオー」場所・空間を作る。15:17と、この二カ所のみ。ヨハネ2:6(そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった。それぞれ、二あるいは三メトレテス入りのものであった。)、Ⅱコリント7:2(私たちに対して心を開いてください。私たちはだれにも不正をしたことがなく、だれも滅ぼしたことがなく、だれからもだまし取ったことがありません。)

[18] 11節の「許された」を聖書協会共同訳では「恵まれた」としています。「イエスは言われた。「誰もがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。」

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2021/5/2 創世記9章8-17節「大洪水」こども聖書⑫

2021-05-01 12:07:51 | こども聖書



2021/5/2 創世記9章8-17節「大洪水」こども聖書⑫

 聖書の「ノアの洪水」のお話しは、よく知られたお話しです。大きな箱舟を作ったこと、その船の中に、あらゆる動物が乗せられたという動物好きにはたまらない光景、その船が大雨で全地が水浸しになった中を浮かんでいる絵。雨が止んだ後、ノアが窓から放った鳩がオリーブの葉っぱを加えて戻ってきた場面。とても、印象的です。そして、最後に、ノアたちが船を出て来た後、空に掛かる、美しい七色の虹!
 そうです、この虹こそ、ノアの大洪水から私たちが覚えるべき図です。それは、主がノアに約束された契約の「しるし」としての虹でした。それは、もう再び大洪水で地のいのちがすべて断ち切られることは、決してない、決して、という契約です。
六8神は仰せられた。…11わたしは、わたしの契約をあなたがたとの間に立てる。すべての肉なるものが、再び、大洪水の大水によって断ち切られることはない。大洪水が再び起こって地を滅ぼすようなことはない。」
 神が大洪水によって、地を洗い流されたのは、そうせざるを得ないほど、地が堕落していたからでした。人間社会が、どうしようもなく悪くなっていて、地獄と化していたからです。神は、その人間の悪、暴力に心を痛められて、地の争いを強制的に止められたのです。そして、その地に生きる小さなノアに目を留めてくださって、ノアの家族を通して、動物たちを救い、世界をもう一度始めることになさいました。神は、人間の心にある悪を十分覚悟した上で、それでも諦めずに、世界を再出発させられたのです。だから、これから先、神が大雨で人間を滅ぼすことはないと約束されています。大雨が降って、災害にはなっても、神の怒りで滅ぼされている、と思わなくて良いのです。そのことのしるしとして、神は空の虹を指さされたのです。
12 さらに神は仰せられた。「わたしとあなたがたとの間に、また、あなたがたとともにいるすべての生き物との間に、代々にわたり永遠にわたしが与えるその契約のしるしは、これである。
13 わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それが、わたしと地との間の契約のしるしである。
14 わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現れる。
15 そのとき、わたしは、わたしとあなたがたとの間、すべての肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い起こす。大水は、再び、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水となることはない。

 神が虹を見て、契約を思い出す、とは不思議な言い方ですが、私たちも虹を見た時に、神が約束してくださった、契約を思い起こすのです。神は、決してもう二度と、洪水で地を滅ぼさないと約束してくださった、と思い出せるのです。そして神も、虹を見て、思い出しておられるのです。神はご自身の契約を忘れない。大水の記事のど真ん中でも、八章一節に、神はその大水の上にポツンと浮かぶ箱舟の、ノアたち家族を覚えておられた、という印象深い言葉があります。
8章1節 神は、ノアと、彼とともに箱舟の中にいた、すべての獣およびすべての家畜を覚えておられた。
 そう、神は覚えてくださっている神。忘れない神、私たち一人一人を覚えてくださっている神です。
 虹は、英語でレインボーといいます。レインは雨、ボウは弓。雨の後に現れる、大きな弓のようなアーチが、レインボウ(虹)なのです。聖書の言葉でも、「虹」は「弓」と同じ言葉です。天においた弓。弓は矢をつがえて射る武器です。狩りや戦争で使われます。弓の反った方を、相手に向けて、しなやかな弦を構えて打つのです。その反った弓は的に向かいますが、戦わない時は、そのアーチを上にして壁にかけるのです。虹という弓は、大空にかけられた神の弓です。地上に向けられたり、私たちを狙ったりする方向にはありません。それは、神がもう地を狙わない。戦いは終わりにして、武器を置いて、平和のために手を使おう、というしるしです。
 虹は、美しいだけでなく、神の休戦宣言、不戦の誓いです。それも、無力な白旗の降参宣言ではありません。神こそは、世界をお造りになった方です。だから、大洪水にする力もお持ちですし、世界を一回滅ぼして、ゼロから作り直すことだって出来るお方です。神は、強い、最強のお方です。その神が、世界を滅ぼすよりも、なおこの世界を諦めず、ノアたちを覚えてくださいました。そのノアたち家族を通して、この世界の歩みをまだ続けよう、とされるのです。人間が何度神に背いて、互いに滅ぼし合ってしまうことも、神は百も承知しています。それでも、その世界を見捨てないと言われました。再び、洪水を起こさないと言われて、その契約を覚えているよ、と仰っているのです。
イザヤ書54章7節わたしはほんの少しの間、あなたを見捨てたが、大いなるあわれみをもって、あなたを集める。8 怒りがあふれて、少しの間、わたしは、顔をあなたから隠したが、永遠の真実の愛をもって、あなたをあわれむ。──あなたを贖う方、主は言われる。9これは、わたしにはノアの日のようだ。ノアの洪水が、再び地にやって来ることはないと、わたしは誓った。そのように、わたしはあなたを怒らず、あなたを責めないと、わたしは誓う。10たとえ山が移り、丘が動いても、わたしの真実の愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。──あなたをあわれむ方、主は言われる。
 神は、この世界を今日も保っています。その力は偉大で、大洪水はその力を現してもいます。しかし、それで私たちを脅すよりも、神は私たちに心から立ち返ってほしいのです。神の力は、永遠の愛、真実の愛です。今も大雨の後には、美しい虹を見ることが出来ます。災害や苦しみの後に、神は平和の契約のしるしを必ず見せてくださいます。

 そして、その力ある神が、やがて一人の人間の赤ん坊としてこの世に生まれ、貧しく、低く、最後は本当に無防備な裸になって、十字架にかかってくださいました。しかし、それは神の無力さではなく、神の愛の力であり、神はイエスをよみがえらせて、私たちのいのちの道を知らせてくださいました。この神こそが、私たちのうちに働いて、滅びではなく、救いをもたらしてくださるのです。この世界を保っている神が、私たちを今日も生かして、様々な美しいしるしによって、語りかけ、励ましてくださっています。

「大いなる主よ、あなたの力は豊かに溢れ、あなたの正義も強く貫かれます。悪が強く見えても、主よ、あなたを信頼して、真実の力に支えてください。あなたの怒りに不安を覚えそうな時は、空を仰ぎ、契約を忘れず、私たちを覚えておられるあなたを思い出させてください。主の不思議な、いのちの力によって、絶えず希望を与えてください」
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2021/5/2 第二テサロニケ1章10-12節「キリストの忍耐 一書説教 Ⅱテサロニケ書」

2021-05-01 11:27:12 | 一書説教
2021/5/2 第二テサロニケ1章10-12節「キリストの忍耐 一書説教 Ⅱテサロニケ書」

 先月の聖書通読表であたっていましたテサロニケ人への手紙第二です。1月にお話ししたⅠテサロニケの続きで[1]、パウロの手紙の中でも二番目に早く書かれた手紙です[2]。テサロニケはマケドニア州の州都の大都市です。使徒パウロたちが初めて訪れて宣教をした結果、信じる人々が起こされ、新しく教会が生まれました。でも反対する人も多く、厳しい迫害でパウロたちは追いだされました。パウロは残してきた教会の方々を想い、先の第一の手紙を書きました。しかし、迫害はまだ続いています。また、その手紙の、主が再び来られる事も誤解されて[3]、
二2…主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いても、すぐに落ち着きを失ったり…
と、もう主が来られたと思い込んで慌てている動きがあったようです。そこでこの第二の手紙を書いたのです。この一章では、まだ厳しい迫害が続いている事を踏まえて、やがて他者を苦しめる人は神の前から退けられることを語っています。反対が激しかっただけに、その報いを現す言葉も強いものとなっていますが、それ以上に今日の言葉は、希望をかき立てています。
Ⅱテサロニケ一10その日に主イエスは来て、ご自分の聖徒たちの間であがめられ、信じたすべての者たちの間で感嘆の的となられます。…
 この「間であがめられ」は「賛美される」以上に、素晴らしさを現してくださる、という事です[4]。聖徒たち[5]の真っ只中に神の輝かしさを現してくださる。私たちの心の底、思いの深みや人格、またお互いの交わり(関係性)の中に、神のすばらしい栄光を溢れさせてくださる。その結果
…信じたすべての者たちの間で感嘆の的となられます。
 信じた者にとっても目を見張って驚いてお目にかかることになる。誰一人として、「それ見たことか。私が予想していたとおりだ」と言える人はいないのです。私たちはみんな、主イエスがこんな栄光のお方だとは思ってもいなかった、と驚くことになる。それは、主が素晴らしいお方だ、というだけでなく、主が私たちの間に、私たちの中にその素晴らしさを注いでくださる方だからです。だから、
11こうしたことのため、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか私たちの神が、あなたがたを召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から出た働きを実現してくださいますように。
 そのゴールに向かうからこそ、出て来る祈りは、私たちのうちに内側の願いとそこから出て来る働きが作られていくこと、なのです[6]。今ここでの歩みにおいても、神が私たちをその召しにふさわしい者にして、私たちを主の栄光に与って変えられますように。それが、
12それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、私たちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。
 主の名があなたがたの間で、あなたがたも主にあって。それは、私たちの中に善を求める願いと、信仰から出る働きが育っていくこと、なのですね。ではこの「信仰から出た働き」は、何でしょうか。この後、二章で「主の日は既に来た」というデマを論破した後、3章6節から、パウロは、働く事の大切さを語ります。日常の仕事、働くこと。これがパウロの教えでした。
6…怠惰な歩みをして、私たちから受け継いだ教えに従わない兄弟は、みな避けなさい。
とあり、仕事の出来る人は働いて、自活すること。これは、人の臑(すね)を齧(かじ)って生活している人たちの事かもしれませんし、先の再臨への誤解と絡んで、「どうせもうすぐ世が終わるのだから、仕事をしていても意味がない」と怠惰な暮らしをしていたのかもしれません。いずれにせよ、この時代から今に至るまで、何度も教会の中には、「もうすぐ再臨が来る」とする熱狂的な終末待望運動が起こりました。その度に、普段の生活を投げ出して、仕事も「こんなことはやってられない」と、特別な集会や共同生活をして、主を迎える、という光景がありました。
 Ⅱテサロニケはそれとは反対に、仕事は「こんなこと」ではない、する価値のあることだ。私たちの生活には価値があるのだ、と言います。マルチン・ルターの言葉、
「明日世界が滅びるとしても、私は今日リンゴの木を植える」
を思い出します[7]。伝道や奉仕も大事ですが、「良い業」とは一人一人の仕事、生活、働き。それが1章11節の「働き」なのです[8]。
 私がⅡテサロニケで特に忘れがたい聖句は3章5節です。
「主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐に向けさせてくださいますように。」
 キリストの忍耐。神の力や華々しい業を憧れがちですが、キリストの忍耐こそ心を向けるべきもの。それと、主を待ち望みつつ、今の生活や仕事を「良い働き」とすることとは深く結びついています。

 このテサロニケ人への手紙第二そのものがその忍耐の証です。パウロの手紙だから、祈って書かれたし、何と言っても「神の言葉」なんだから、第一の手紙だけでテサロニケ教会が力づけられた、とは行きませんでした。言葉が届かず、却って誤解され、それでパウロはもう一度書いた手紙です。忍耐をもって筆を執ります。信徒の早とちりや怠惰に向き合いながら、教え諭し、模範となろうとしますし、自分のためにも祈ってくださいと願っています[9]。そのパウロ自身が心を向けていたのが、神の愛とキリストの忍耐だったはずです。
 主イエスは、直ぐに来ることも出来るのに、時間を掛けて、手間暇掛けることが決して無駄だとは思わず、私たちを耐え忍び、運んでくださっています。そのキリストの限りない忍耐に、今ここで私たちも心を向けるよう、パウロ自身が書いたこのテサロニケ人への手紙第二が語ってくれています。

「主よ、あなたの限りない愛と長い忍耐に支えられて、私たちが今あることを感謝します。再び主が来られるまで、一日々々が無駄ではなく、小さな働きが「良い働き」となり、主の道備えとなることを感謝します。どうぞ私たちに、今ここでも神の愛とキリストの忍耐に心を向けさせてください。その恵みを現し、もう一つの言葉を、もう一通の手紙を、もう一度の祈りを捧げさせてください。そうして心を恵みで養われつつ、主の来られる日を迎えさせてください」

脚注:

[1] テサロニケ人への手紙第一の一書説教は、こちらです。https://blog.goo.ne.jp/kaz_kgw/e/760ab5d9e9536a4ad88a10e4140dc9d1 

[2] Ⅰテサロニケの後数ヶ月して。紀元51年か52年頃の執筆でしょう。

[3] Ⅰテサロニケ5:2(主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。)を誤解したのかもしれません。

[4] エンドクサゾー 「栄光」(ドクサ)に強調の接頭辞エンをつけたエンドクサ(華やかさ、輝かしさ)の動詞形で、新約聖書ではⅡテサロニケ1:10、12だけに出て来る言葉。栄光(ドクサ)は、Ⅱテサロニケで1:9、2:14に、動詞形(ドクサゾー)は3:1(最後に兄弟たち、私たちのために祈ってください。主のことばが、あなたがたのところと同じように速やかに広まり、尊ばれるように。)で出て来る。

[5] これは聖書にあるキリスト者の呼び名の一つです。私たちの事です。

[6] この祈祷は、二章の結びの祈りとも通底します。「16どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、永遠の慰めとすばらしい望みを恵みによって与えてくださった方ご自身が、17あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。」

[7] とはいえ、この言葉の出典元は定かではなく、ルターの言葉ではない、という研究も出版されています。『ルターのリンゴの木』https://bookmeter.com/books/9836249 。しかし、誰の発言であれ、この言葉は、自分の仕事を主への信仰を持ってすること、今ここで地に足の付いた生き方を、主への良い業をして果たすことこそ、最善の主の迎え方だ、と気づかせてくれます。伊藤淑美「再臨(終末)を待ち望むとは、パウロの教えるところによれば「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉と」(Ⅰテサロニケ4章11節)することなのです。『聖書66巻がわかる』341頁

[8] 「わざ・働き」エルゴン(1:11、2:17(あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。))の動詞形「働くエルガゾマイ」(3:8 人からただでもらったパンを食べることもしませんでした。むしろ、あなたがたのだれにも負担をかけないように、夜昼、労し苦しみながら働きました。10 あなたがたのところにいたとき、働きたくない者は食べるな、と私たちは命じました。11 ところが、あなたがたの中には、怠惰な歩みをしている人たち、何も仕事をせずにおせっかいばかり焼いている人たちがいると聞いています。12 そのような人たちに、主イエス・キリストによって命じ、勧めます。落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。

[9] 3章1節(前述)。

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