バブルがはじけ、不況だった1990年から2000年までは「失われた10年」と呼ばれ、政治、経済界でもふたたびこのようなことがおきないように色んな施策も考えられている。経済は成長を続けるという神話も崩れ、国民の大多数が喪失感を味わい、うつむきかげんの時代だった。
だが最近の酔っ払い運転による幼児3人の死亡、高専学園内の殺人事件等を聞くと、高学歴や社会的地位の高い人の倫理感の欠如が目立つ。知能の高いひとにはそれにふさわしい人間性も備わっていると考えたいが、どうやらそうでもなさそう。原因は一様ではなく多岐にわたるだろうが、いろんなものを与え過ぎたこともあるのではないだろうか。
日本は戦後の焼け野原から未曾有の経済成長を遂げた。我々が小さい頃は皆貧しかったが、それで不満も持つ事もなく穏やかに暮らしていた。高度成長期に入り給料も予想できないほど上がり、物も次々と手に入るようになった。子供が生まれ、子供達には貧しい思いをさせたくないという思いから、必要以上に与え過ぎた結果、子供達にはそれが当たり前になった。経済性、利便性、効率を追求するあまり「心を育てる」といったことも希薄になり、今日いろんな歪みとなって現れているような気がしてならない。
自身もあることがきっかけとなり、必要以上には与えないようにしてきた。だがそれは経済的な面に偏り、しつけまでは気が回らなかった。三つ子の魂百までの例えにあるようにいまさら軌道修正は無理なようだ。だから穏やかに、遠まわしにでも繰り返し心に語りかけるしか術はない。またいい手本や背中で導くしかないだろう。
自らも立派な生きた方や生活をしているわけでもない。いろんなしがらみの中で翻弄され、揺らぎ、心中穏やかならざる日々を送っている。近い将来経済的な基盤は失う。だが清貧に甘んじても良い。心穏やかに精神世界中心の生活が出来たら良いと思う。今は無理して生きているが、最近、とみに自身のナイーブさはとても競争社会には向かないとつくづく思うようになった。清貧の中でこそ心が磨かれる。自然と対峙し共に生きられたら良い。そろそろ発想を変える時期に差し掛かったかも?
下草に植えているフイリヤブランがようやく開花を始めた。