「お~っす、南。調子はどう?…ってベビーとヒールは会話しちゃいけないんだっけ?」
緊張感のない声が、トレーニング器具を使って黙々と身体を“虐めて”いる南を除いて人ひとりいない新日本女子の道場に響き渡る。
総合格闘家・柿本裕子との試合が正式に決定してからというもの、南に対し、彼女が普段から人を近づけない雰囲気を漂わせているのに加え
「大事な一戦だから」
と、皆が気を使ってますます声をかけ辛い状況になっていたので、ヒール・ベビーフェイスの括りはあるが誰よりも気心の知れている同期選手からの呼びかけはうれしかった。
「そんなの試合会場だけでしょ?気にすることないわ。…こんな時間に新女のチャンピオン様が何の御用かしら、祐希子?」
「いや、今日はTV撮りやインタビューなんかで忙しくってさぁ。時間は遅いけど軽~く練習しようと思って来てみたワケよ。一応プロなんだし」
「いい心がけだこと。感心感心」
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祐希子と呼ばれたこの女性は、新日本女子プロレスだけでなく日本女子プロレス界のエースであり世界チャンピオンでもあるマイティ祐希子そのひとであった。
どんな相手でも常に標準以上の試合を見せ、上手さや強さだけでなく、持ち前の天性の明るさで観客たちを魅了し、裏表がない真っ直ぐな性格は新日本女子の同僚だけでなく他団体の選手にも好意を持たれていて、現在の日本女子プロレス界の牽引者といっても過言ではない。
南 利美とは16歳で新日本女子の門を叩いた頃からの付き合いで、決して馴れ合いの関係でなく、お互い付かず離れずの良好な距離関係を保っている。南はチャンピオンにこそ興味がないが、真夏の太陽のような祐希子の《輝き》を羨ましく思い、同じく祐希子はベビー・ヒールを行き来するニュートラルな立場の南を羨ましく思っている。
「ほいっ、お土産だよ~」
祐希子はそういうと南の方へ、持ってきた500ml入りのミネラルウォーターのペットボトルを放り投げる。放物線を描いて自分の方へ飛んできたミネラルウォーターを南は難なくキャッチする。
「ありがとう…それで幾らかしら?」
「150万円で~す」
「…出世払いでお願いね」
こんな馬鹿な会話をしながら二人は道場中央に鎮座するリングの縁に座り休憩した。
……こんな事って何時以来かしらね?昔はハードな練習の後に飲む一杯の水がおいしく感じられたっけ……
南はふとそんな事を思った。祐希子はそんなセンチな南の顔を見て、彼女に気づかれないように笑みを浮かべた。もし彼女に知られたら怒り出す事が目に見えていたからだ。脳天気そうな祐希子でも一応は考えている。
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「そんでさ、明日の南の試合のルールってどうなったの?」
祐希子は空気を変えようと、急に南に《仕事》の話を振ってみた。
「えっ、雑誌とかテレビとか見てないの?ちゃんと発表されてるじゃない」
「そうだったっけ?」
「基本、5分6ラウンドのキャッチ・スタイルで、ギブアップとKO、もしくは判定で勝敗を決め、脊髄・眼球への攻撃やパーデレポジション時の攻撃の禁止以外はなんでもありよ」
キャッチ・スタイルとはヨーロッパなどで行われるラウンド制の試合形式で、試合自体は通常のプロレスルールで行われるが、レフェリーが反則を発見するとカードを提示する。イエローカードは《警告》を意味し、イエローカード3枚で反則負けとなり、レッドカードが出れば即座に反則負けになるという、サッカーでおなじみのシステムを用いる。この新日本女子でも稀にではあるがヨーロッパから遠征してきた選手が希望した場合や格闘技色を出したい場合に、このスタイルで試合することもある。
「なんでもありかぁ…じゃあイス攻撃しちゃったら?」
「却下」
「テーブルへのパイルドライバーは?」
「それも却下」
「いっつもやってんのにさ。はぁ…真面目だねぇ」
祐希子の口からは本気とも冗談ともつかない発言が飛び出す。が、目はあくまでも真剣である。
「…相手がプロレスやるっていうならそれもアリでしょ、でも今回はキャッチ・スタイルとはいえ異種格闘技戦。ちょっとでも気を抜けばこちらが致命傷を負いかねないわ」
「じゃぁ尚更…」
祐希子は口を挟もうとしたが、南はそれを制し、自分の胸に秘めたる想いを語り続ける。
「いい、祐希子?この試合はプロレスの基本形であるマットレスリングでお客を魅せることが私の使命だと思うの。ウケ狙いで従来のプロレス技を使えばそれなりに盛り上がるでしょうね、でもそれじゃぁ駄目なの」
「……」
「基本技術でプロレスの奥深さの片鱗を相手やお客に魅せ、キッチリ相手の攻撃を受けきり、そして最後は誰一人怪我なく試合を終了させる…これが今回の私に与えられた仕事…」
南はそういい終わると、喉を潤すために手にしているミネラルウォーターを一口含んだ。
……軽蔑してるかしら?……
そう思い南はチラリと祐希子のほうを見た。が、そこには満面の笑みを浮かべた彼女の顔があった。
「…すごいね、南は。相手がどんな奴かも知れないのに、どんな危険なことを仕掛けてくるかも判らないのに、相手の土俵に近い舞台に立ち、なおかつ《プロレス》をしようとしてるんだもん。尊敬しちゃうよ」
その真っ直ぐな瞳で、面向かって正直な感想を言われたので、言った本人の南は思わず赤面してしまう。が、クールな態度は辛うじて保ち続けた。
「祐希子だって…あんな図体のデカい、化物みたいな相手に互角以上の試合を作り上げるんだもん。こっちこそ勉強になるわ」
「あたしは練習で培った身体能力と根性と技でプロレスの面白さや凄さを魅せ、南は格闘技術でプロレスの凄さを伝えようとしている…見せ方は違えどもやってることに変わりはないって」
改めて祐希子の、ひたむきな《プロレス愛》を聞くと、夢を抱いて新日本女子の門を叩いた16歳当時を思い出し、「プロレスラーになってよかった」という気持ちを、プロレスラーとしての誇りを蘇らせてくれる。
「…そうね。ちょっと周りが変に気を使い、悶々としていたけど、祐希子とバカ話をしたおかげでパァーッと晴れた。感謝するわ」
「そう、こんな話ならいつでもしてあげるけど?」
「何事も程々が一番いいの」
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もうちょっと話したいのに…と言いたげな顔の祐希子をよそに、南はリングの中に入り、軽く2~3回後ろ受身を取ってみる。バァンといういい音が、二人以外誰もいない道場に響き渡る。
「さぁて、水ばかり飲んでたら身体が冷えてきた。祐希子、練習するんでしょ?相手になるわ」
「えっ?、うん。明日はあたしはタイトルマッチだし少~しスパーやっておくか」
「じゃぁ、ちょっと壊しちゃおうかな…って冗談よ」
「南の冗談は、冗談に聞こえないのが怖いよね~」
ダァン!バタン!キュッ、キュッ…
マットの下に引かれた板が投げ技の度に音を立て、ピンと張られたシーツの上を駆け回る度にレスリングシューズと擦れあい何ともいえない摩擦音をたてる。
リングの上では激しくも、そして何やら両者楽しげなスパーリングが展開されていた。互いに言葉は交わさなくとも《技》というランゲージで会話している。それが時として言葉以上に相手の気持ちが通じ合ったりする。耳からでなく直接心に…
「南の試合ってあたしの前の前だよね?」
「そうよ」
「試合前でバタバタしてるかもしれないけど、通路で見てるから」
「…ありがとう。じゃあメインを喰っちゃう凄い試合にしちゃいましょうか」
「おっ、その挑戦受けて立とうじゃないの!」
互いに両サイドのロープに飛び、祐希子がクローズライン、南がジャンピングネックブリーカーを仕掛け相討ちとなり、同時に双方の身体がマットに打ち付けられたとき、道場内の時計は日付が変わったことを知らせていた……