……はぁ、はぁ、はぁ……
「どうなってやがる?アイツは化物かよ…」
四度目のインターバルの時、呼吸を整えながら柿本裕子はセコンド陣に向かって言った。
「いい打撃が何発か入ってる。このまま攻めれば最悪、判定で勝てる」
トレーナーらしき人物が彼女をリラックスさせるためリング下で激を飛ばすが、柿本本人はまるでうわの空だった。
…勝てるチャンスはあった。そう、何度も。
1R開始早々、南の素早い片足タックルでマットに寝かされ足関節技を仕掛けられたが、鍛え上げた拳とキックで何とか脱出に成功。素早く立ち上がり南の二度目のタックル攻撃を見切り膝を顔面に入れ最初のダウンを奪う。が、1R終了のゴングが鳴り、決定打とはならなかった。
2Rでは波に乗った柿本がパンチを繰り出し、南をコーナーに追い詰めるが、ほんの一瞬の隙を突かれ間合いを詰められてしまい、南の腕が柿本の胴に絡みついたかと思うと、即座にフロントスープレックスで投げ飛ばされ背中をマットに打ち付けられた。南はすぐさま首に腕を入れ頸動脈を締めようとするが、惜しくもここで2R終了のゴングが鳴った。
3R、4R、5Rは共に、互いに警戒してしまったのか、各ラウンドに単発でタックルや打撃技が出るのみで、なかなかコンタクトする事もできず、終始ジャブやフェイントを仕掛け相手の隙を誘い出しているような単調な試合展開となっていた。
……勝ちたい!プロレスに。いや、南利美という強敵に!!
改めて決意を強くした柿本とは反対に、南サイドでは異変が起こっていた。
●
「痛っ…ちょっと膝の古傷をやってしまったかも」
いすれかのラウンド中に膝の筋を痛めてしまったらしい。だが南の表情から読み取るには、別段大事の様には捉えてなさそうだ。
心配そうなセコンド陣を余所に、南はすぐ故障箇所へのテーピングを要請した。
……こんな事は日常茶飯事よ。それでも試合を放り投げる事は出来ないの、だってプロレスラーだから。
膝に何重もテープが巻かれていくのをじっと眺めながら彼女は、静かに、メラメラとプロレスラー魂を燃え上がらせていた。
「…こうして固めておけば多少は踏ん張りが利くわ。何としても試合終了まで保たせないと」
セコンドに付いて雑務をしている若手たちに、ネガティブな気持ちにならない様、自分は平気だと何事もないように語るが、最後の言葉は聞こえないような小さな声で呟いた。
……闘ってくれている相手に失礼でしょ?
セコンド退陣のアナウンスが告げられると、それまで両者の周りを取り囲んでいた人の壁が取り払われ、リング上にはレフェリーを除いて二人だけとなった。
互いのコーナーで睨み合う両雄。あと残り五分間で全てが終わるのだ。
「ファイナルラウンド、ファイトッ!」
カァァン!
●
ゴングが鳴らされると、真っ先に飛び出してきたのは南だった。
視線は柿本の両眼を捉えて動かそうとしない。
柿本は突破口を開こうと二、三度ローキックを放つが、南に全てブロックされ内腿に入れることが出来なかった。
南は前後に身体を揺さぶり、相手の攻撃圏内に入ったかと思うとすぐに退いたりして徐々に柿本の集中力を削いでいく。
柿本のイライラが最高潮に達しようとしたとき、急に南の姿が視界から消えた。
それまで相手の眼を見ていた南が、急に視線を外し、素早く相手の懐に潜り込み胴タックルを仕掛けたのだ。電光石火の攻撃に柿本は身動きも取れず、相手のなすがままとなってしまったのだ。
……痛ッ
故障箇所に激痛が走り、南は一瞬顔をしかめる。が、この先二度とないであろう大チャンスを逃してなるものかと再び攻撃を続行する。
パッと柿本の手首を掴んだかと思うと、すぐさま腕を背中側に捻り、自分のもう一方腕で支点を作り、肩関節・肘に激痛を与えた。
柿本はどうにか脱出しようと上体を動かすが、首に南の足が絡み付いており、思うように動けない。
プロレスリングの基本にして最強の技、ダブルリストロックが極まったのだ。マスコミが南の名前に引っ掛けて《サザンクロス・アームロック》と呼んでいるフィニッシュ技である。
「うわぁぁぁっ!!」
柿本は肘や肩に走る激痛に耐えながら、突破口を開こうと懸命にもがく。だが、上半身は急角度に反らされており、空いている腕でのパンチ攻撃は不可能だ。残る手段は下半身で身体を動かし、ロープブレイクで逃げる事だけだった。
……届け、届いてくれ!
懸命に身体をバタつかせ、痛みを必死に堪えながらサードロープへと足を伸ばす。攻める南も、勝機を逃がすまいと己の腕に、足に力を込め、柿本の腕を絞りあげる。
「…ブレイクっ!!」
あぁぁ~っ!!
会場全体に落胆の声が響きわたる。
遂に柿本は南の関節地獄から抜け出すことに成功した。レフェリーがサードロープに柿本の左足が引っ掛かっているのを確認すると、南に技を解くように命令する。
南は悔しがり、柿本の身体に絡み付いた腕や足をゆっくり解くと、バンッ!とマットを叩き天井を仰いだ。
●
……ここまでか
膝の負傷箇所の痛みが激しくなり、最早立っている事も、テイクダウンを奪う為のタックルを仕掛ける事も難しい状態だ。そして激痛は集中力すらも彼女から奪っていく。
南はチラリと側にいる柿本の姿を見た。
アームロックを極められた方の腕を押さえながらうずくまっていたが、幸い大事には至らなかった様である。
南はバッと身体を柿本の正面に、身体を預け覆い被さると、首を締めチョーク攻撃を行う。が、その力はタップを奪える程強くはなく、仕掛けられた柿本は驚きと疑問の眼差しを南に向けた。
「…何のつもりよ?」
「あなたを倒してやろうと思ってたけど…どうも膝が言うことを聞かないみたい…残念だけど」
南は柿本に密着して、彼女だけに聴こえるよう、小さな声で話した。途中、痛みによる呻き声が混じり、最初はハッタリかと警戒していた柿本だったが、どうやら事態が深刻である事を悟った。
「…それで私にどうしろと言うのさ?」
「このまま時間いっぱい組み合って、引き分けで終わらせても構わないけど、それじゃあ面白くないでしょ…?」
「……」
「…だったらあなたの得意技で私を倒してみて?そうすればあなたの凄さが引き立つから…さ」
「南…さん」
信じられない突然の申し出に、柿本は驚いた。
彼女は勝ち負けだけでこの試合を見ていたが、宿敵である南は、勝つこと以上に観客の記憶に残るような名勝負を作り上げる、という事に全力を注いでいたのだった。
「大丈夫、簡単には壊れないよう、トレーニングは積んでいたつもりだから…」
そう言うと南はパッと柿本の首筋に置かれていた両腕を離した。反則攻撃という事でレフェリーの胸元からはイエローカードが取り出され、彼女は厳重注意を受ける。
柿本は喉元を押さえ、苦しそうなフリをしながら南を見据える。
もし相手が約束を破り、致命傷を受けかねない攻撃を仕掛けてきたらどうしようか?という心配は、南にはこれっぽっちもなかった。柿本の真っ直ぐな瞳を見て、本能的にそう感じたのだった。
●
「来いっ!」
南が叫んだ。これがフィニッシュへの合図だった。
柿本の鋭角なローキックが南の内腿を捉えた。バチンという乾いた音が鳴る。
南の顔が苦痛に歪む。
そして次にミドルキックが彼女の肝臓めがけて飛んできた。攻撃を半歩ずらして避けた為クリーンヒットにはなってないが、南は身体をくの字に屈み大袈裟に痛がった。
その時、首筋に狙いすましたように柿本の得意技であるハイキックが炸裂した。
互いに目でコンタクトを取っていたので、両者の間では想定内の攻撃ではあったのだが、観客の沸き方は物凄く、歓声と悲鳴が入り交じった声が会場内を包み込む。
南はそのままうつ伏せになってマットに倒れ込み、動かなかった。レフェリーに促され自軍のコーナーで待機する柿本。
「……エイト、ナイン、テン、ノックアウトっ!」
レフェリーのカウントが終わると同時に、試合終了のゴングが無常にも打ち鳴らされた…