奈良の大仏さん
パリから孫が帰国した。姉も弟もパリの日本人幼稚園に通っていた。
空港に出迎えに行ったら、姉はいきなり 奈ー良の奈ー良の大仏さん とうたいだした。
母親が口ずさんでいたものを姉が覚えてしまったのだ。それが空港で自然に口から出たのだろう。
この奈良の大仏さんは東大寺の長老清水公照先生が作詞されたもので、それに私がメロディーをつけた。
清水先生は これは子供の歌でね 、と言われたが私は即座に反対した。
子供にとってとっては言葉が難しすぎるというのが僕の言い分である。
(2)寂の影踏み 肉もりかえす なんていうフレーズは大人の私も理解しかねた。この意味がわかる人は少ないのではないかと思う。たぶん子供では理解できないだろう。
しかしこの理解は先生の真意を汲んでは居なかった。
歌詞の意味がわかるとか、わからないとか、そんなことは大した問題じゃないんだ。大仏さんというものをイメージして、その雰囲気を知るだけで十分なんだ。いや大仏さんは全日本人の心のふるさと。 それだけを覚えてもらいたい、それが先生の真意だったんだろう。
強行に反対したわけではないが、先生はいや、とも、そうか、ともいわれなかった。
私もそれ以上のことを口にはしなかったが、先生と別れてから、これは童謡であると言われた言葉が耳に残り、心の中で渦巻いていた。
考えてみると若者がよく口にする歌は英語の歌詞になっている場合が多い。アメリカンポップスをうたっている歌手の何人がその歌詞の意味を理解して歌っているのであろうか。
英語の原詩に忠実でなければならんということは必要ないのである。英語だろうが、中国語だろうが、歌詞を味読してどうのこうのというのは特別な人にのみ要求されることであって、大衆は英語だろうが、中国語だろうが調子よく歌えたらそれでよいのである。
歌詞の内容がどうだこうだという前に、その歌詞がふさわしいメロディーとリズムにさえのっていればそれでよいのである。雑な言い方をすれば調子がよければそれでよいのである。
そう考えたときに、奈良の大仏さんに含まれる難しい漢語の意味は全然問題がないということになった。現に4歳の子供があの難しい漢語が含まれている奈良の大仏さんの歌詞を、問題なくちゃんと言葉通りに歌っている。
歌というものは歌詞の意味が完全に理解されなければいけないというものでもないのだ。
だが作曲家にとってはできる限り、原詩の言葉の意味に忠実で、それをふまえた上でいかにそれ以上の表現をするか、つまりメロデイやリズムに乗せるか、それが問題なのである。
作曲家はそういうことを意図するが、その意図通りに歌われるかというと、おおかたの場合無関係に人は歌う。まさかその歌が大人の歌だから子供は歌ってはいけない、あるいはその逆ということを強制できるものでもない。
歌はいったん作曲家の手をはなれると作者のコントロールのきくものではない。歌は完全に独立して人の口に上る。人は自分の好みに応じて好き勝手に歌うものである。それが歌の本質だからである。子供が生みの親の意のままにならないのと同じである。
さてこの奈良の大仏さんは言葉こそ難しいが、歌詞の全体像は子供の雰囲気を持っている。なーらのなーらの大仏さんと大人が真顔で歌うはずがない。これはどう見ても童謡である。
奈ー良の奈ー良の大仏さん ピカっと光るしび二つ
修学旅行の思い出に 子供ごころのほのぼのと
奈ー良の奈ー良の大仏さん
シルクロードの果ての地に 今も笛吹き鼓うつ
楽音天女舞い降りて 常夜の明かり ゆらぐなり
おどけ心に口をあけ ラホツのおつむ見仰げば
おめめをすぼめ おはようさん
おててをあげてこんにちは
奈良の奈良の大仏っさん
追記 歌詞は五番まで作られているが二番、四番は省略した。
二番
たぎる血汐もうつせみの 浪に漂い浪に消ゆ
月夜の甍仰ぎつつ 寂の影踏み肉もり返す
四番
三千世界くまなく照らす
ビルシャナ仏とのたまひて
無量無遍億千万 ここまほろばを鎮めなん
パリから孫が帰国した。姉も弟もパリの日本人幼稚園に通っていた。
空港に出迎えに行ったら、姉はいきなり 奈ー良の奈ー良の大仏さん とうたいだした。
母親が口ずさんでいたものを姉が覚えてしまったのだ。それが空港で自然に口から出たのだろう。
この奈良の大仏さんは東大寺の長老清水公照先生が作詞されたもので、それに私がメロディーをつけた。
清水先生は これは子供の歌でね 、と言われたが私は即座に反対した。
子供にとってとっては言葉が難しすぎるというのが僕の言い分である。
(2)寂の影踏み 肉もりかえす なんていうフレーズは大人の私も理解しかねた。この意味がわかる人は少ないのではないかと思う。たぶん子供では理解できないだろう。
しかしこの理解は先生の真意を汲んでは居なかった。
歌詞の意味がわかるとか、わからないとか、そんなことは大した問題じゃないんだ。大仏さんというものをイメージして、その雰囲気を知るだけで十分なんだ。いや大仏さんは全日本人の心のふるさと。 それだけを覚えてもらいたい、それが先生の真意だったんだろう。
強行に反対したわけではないが、先生はいや、とも、そうか、ともいわれなかった。
私もそれ以上のことを口にはしなかったが、先生と別れてから、これは童謡であると言われた言葉が耳に残り、心の中で渦巻いていた。
考えてみると若者がよく口にする歌は英語の歌詞になっている場合が多い。アメリカンポップスをうたっている歌手の何人がその歌詞の意味を理解して歌っているのであろうか。
英語の原詩に忠実でなければならんということは必要ないのである。英語だろうが、中国語だろうが、歌詞を味読してどうのこうのというのは特別な人にのみ要求されることであって、大衆は英語だろうが、中国語だろうが調子よく歌えたらそれでよいのである。
歌詞の内容がどうだこうだという前に、その歌詞がふさわしいメロディーとリズムにさえのっていればそれでよいのである。雑な言い方をすれば調子がよければそれでよいのである。
そう考えたときに、奈良の大仏さんに含まれる難しい漢語の意味は全然問題がないということになった。現に4歳の子供があの難しい漢語が含まれている奈良の大仏さんの歌詞を、問題なくちゃんと言葉通りに歌っている。
歌というものは歌詞の意味が完全に理解されなければいけないというものでもないのだ。
だが作曲家にとってはできる限り、原詩の言葉の意味に忠実で、それをふまえた上でいかにそれ以上の表現をするか、つまりメロデイやリズムに乗せるか、それが問題なのである。
作曲家はそういうことを意図するが、その意図通りに歌われるかというと、おおかたの場合無関係に人は歌う。まさかその歌が大人の歌だから子供は歌ってはいけない、あるいはその逆ということを強制できるものでもない。
歌はいったん作曲家の手をはなれると作者のコントロールのきくものではない。歌は完全に独立して人の口に上る。人は自分の好みに応じて好き勝手に歌うものである。それが歌の本質だからである。子供が生みの親の意のままにならないのと同じである。
さてこの奈良の大仏さんは言葉こそ難しいが、歌詞の全体像は子供の雰囲気を持っている。なーらのなーらの大仏さんと大人が真顔で歌うはずがない。これはどう見ても童謡である。
奈ー良の奈ー良の大仏さん ピカっと光るしび二つ
修学旅行の思い出に 子供ごころのほのぼのと
奈ー良の奈ー良の大仏さん
シルクロードの果ての地に 今も笛吹き鼓うつ
楽音天女舞い降りて 常夜の明かり ゆらぐなり
おどけ心に口をあけ ラホツのおつむ見仰げば
おめめをすぼめ おはようさん
おててをあげてこんにちは
奈良の奈良の大仏っさん
追記 歌詞は五番まで作られているが二番、四番は省略した。
二番
たぎる血汐もうつせみの 浪に漂い浪に消ゆ
月夜の甍仰ぎつつ 寂の影踏み肉もり返す
四番
三千世界くまなく照らす
ビルシャナ仏とのたまひて
無量無遍億千万 ここまほろばを鎮めなん