人は孤独である。
一人で生まれてきて、一人で死んで行く。どこからやってきて、どこへ行くやらわからない。
家族や友人は、孤独を忘れさせてくれたり、紛らせたりするが、それはあくまでまやかしでで、孤独をごまかすする1手段したにすぎない。
人は、ただ一人で自分の人生や命を味わって生きて行くほかはない。
こういう理屈を知った賢者の中には、山に隠棲し、読書三昧。趣味三昧に生きた人も多い。
大師信仰には、ありがたいことに、弘法大師と一緒という信仰がある。同行二人がそれである。あの大天才の大師と同行二人で人生を渡って行くという、力強い信仰である。
遍路はその最たるもので、杖が、大師だともいわれているくらいだ。
現実には生身の姿の大師は無いが、各人は心の中に、大師を抱いて、いつも同行二人を確かめながら四国88カ所を渡って、行くわけである。
これが易しいようで難しい。全国民が賛同するというわけにはいかないのだ。ご縁のある人だけが、言い換えれば、自分が発心して大師を求めたのか。それとも大師に導かれたのか、招かれたのか、知らないが、遍路するということになっている。
その数、1年間に30万人とも聞く。老若男女を問わず、己の命や人生を、眺めたとき、人生の無常や孤独に突き当たり、そこで人は考えるのだろう。
遍路でもしてみようか。何か得られるかもしれない。でもそう考えるのは少数であり、その極く少数の中の少数が遍路に出ることになる。