クリシュナ神
日本では、仏像は見えても、神像はめったにお目にかかることはない。というより神像は仏像のように数多くは存在しない。
僕がお目に掛かったのは、神仏習合時代の東大寺の僧形八幡神像くらいのもので、普通ご神体は鏡であったり、剣であったり、山や、岩であったり、自然の大木であったりして、像にお目にかかるチャンスはほとんどない。
ところがである。クリシュナという神様に、これからご対面できるというのである。僕は期待した。
一般にアジアにおける神像は僕が見た限り、日本のそれに比べて作りが軽い。つまりおっちょこちょいなのである。少なくとも手を合わせて拝む対象であるならば、もう少し荘重で、威厳があり、荘厳な趣が必要ではないか。
ボダガヤのマハーボーテイ寺院で見たお釈迦さんだって、軽い作りだった。
あんな偉大なお釈迦さんを軽く作ってどうする。見たり、飾ったりしておくならば別、少なくとも拝む対象であるからにはそれにふさわしい格調や貫禄が必要であると僕は思う。
これは文化の違いだと割り切って納得した。こう解釈することによって、自分が拝む対象にしたかったのだ。
いよいよご開帳がはじまった。ざわついていた場内は、水を打ったように静まり返った。 神殿即ち、舞台の袖にいた人が綱をひっぱると、カーテンがあいて神様が姿を現した。見たとたん、僕は空いた口が塞がらないだけでなく、キョトンとした。「なーんだ。これ。へえ、これが、、」
一瞬僕は我が目を疑った。「これが神様か。へえ、。」
身の丈、70から80センチくらいの大きさの、人形がたっているのである。全身はまっくろで、漆塗りか、黒光りしている。ちょっと目には、大きめの黒猫そっくりで、おまけに真っ赤な舌をベローと出している。
そのうえ、首にはよだれ掛けをしている。 これじゃ猫のお化けじゃないか。僕は失望した。いや呆れた。僕はこの猫のお化けの神像に見とれてはいたが、静まり帰った場内には突然地上から吹き上げるような、大きな歓声が沸き起こった。いっせいに祝詞を唱えるのか、むにゃむにゃいう人、手をあわす人、歓声を出す人。それが歓声の源だった。
そして次には大きな拍手が起こった。なにごとかと思ったらツアーのメンバーの一人が
かなり多額の寄付をしたようだ。拍手は寄付した本人に向けられていた。
次いで、紐が引っ張られて黒猫のお化けが、そろりそろりと前へ出て来た。じっと見つめている人。合掌して祈る人、真剣な眼差しからは、光のようなエネルギーの放射さえ感じられる。
へえ、これがインドの神様か。僕は改めて神様をまじまじと見つめた。
ものの10分も経たないうちに、クリシュナ神は紐に引かれて後ずさりを始めて、カーテンの位置から、中に入ると、カーテンも引かれて舞台は閉じてすべては終わった。
クリシュナ神は元の座に鎮座したのである。
日本流の仏像を見慣れてる僕はインドのみならず、東南アジアの荘重さを欠く釈迦像には、なにか物足りなさと違和感を感じて来た。ところが、このクリシュナ神には徹底的に驚いた。いやもう違い過ぎて嫌気が差し、更にこんな姿の神を拝み、うつつを抜かすインド人の信仰に腹が立・ 驚てきた。
本家本元よりも、それを伝えられて自分なりのものにしている日本の方が余程宗教的雰囲気を持つ像を造り、もっと静かにおがんでいるじゃないか。陽気なのは良い、賑やかなのもいよい。が、像はあくまで礼拝の対象物である。黒猫のお化けみたいなふざけた神様など拝む気がしない。
僕は今行動を共にしているインド人とクリシュナ神を共有しているのだが、心の中は全く空々しい。完全に一人だけ浮き上がっている。ついていけないのだ。
メッカの方を向いて1日に何回も頭を地面にすり付けて拝むイスラム教にも違和感を感じるが、このインドの宗教も到底受け入れることは出来ない。
先ほどからインド人の神に対する想いが色々な形を取って表現されているのをこの目で見てはいるが、我々日本人のそれとは大凡かけ離れたものである。
ただ、人々の神への想いは日本人のそれと比べて、大仰に表現されるので篤い想いだけは伝わってくる。
一体礼拝などというものは、心を静めて、出来る限り落ち着いた状態の心をもって、神様を静かに拝んでこそ、礼拝したことになる。心を騒がせて、興奮状態の心で、果たして心のこもるお祈りが出来るのか。僕は率直にそう思った。
バスに戻ってからも、人々の興奮はさめやらないのだろう、席をたって大勢の人が興奮気味に話している。
違うな、確かに違うな。深いところまでは分からないが、日本とインドは神様1つをとってみても大きな違いがあることを僕はしっかり心に刻み込みながらつぶやいた。
勿論インドにはカーリー神やクリシュナ神しかいないわけではない。インドにおわす八百万の神々総てがこうだとは思わないが、今でも鮮明な記憶として残っているのを見るとやはり余程大きな違和感だったんだろう。
インドは貧しい国だ。だが民衆の神に対する想いは熱狂的なものがある。現世が貧しく苦しいから人々は熱狂的に神を求めるのか、それとも来世の幸福を求めて熱狂的になるのか、その辺の所は分からないが、いずれにせよ、日本とは大分違うなという感じが残った。
インドは確かヒンドゥー教が多いところですよね。ヒンドゥーにはありとあらゆる多くの神がいると聞きましたが、猫のお化けのような神さまもいるなんていうのには驚きです。
インドって不可思議なところです。マハーバーラタ=インドは神秘の国と言うらしいが、理解を超えたところだと実感しました
インドといえばガンジス川。ガンジス川には入浴している人、洗濯している人、排泄している人が同時にいるようですが、あの人たちの健康に害はないのでしょうか?少々疑問です。ガンジス川を生活に利用している人々には、私たち日本人にはない抗体が存在するのでしょうか?
写真にはよくでてますね。僕はガンジス川に入ってきました。とにかく汚いです。さすがの僕もあの群れの中にははいれないでもっと上流で人の少ないところでした。夏のせいで水温は生暖かいが流れは底のほうはかなり急です。それと火葬を見たが、だから生きている今を大切にということを強く感じました。輪廻転生について真剣に考えました
やっぱりガンジス川は汚いのですね^^;それと、葬儀について、確か灰を流すそうですが、そういうのを見ると生に対して考えざるを得ないでしょうね。ところで、mp3ってなんですか???現代文明に疎くてすみませんーー;
川岸で死者の火葬をするのです。バーニングボデイです。2時間かかりますね。それでも足首などは焼け残る時があるがそれも直ぐ横の川に流します。死体も流れてきますよ。ガンジンスは解脱すると考えられているからここで骨灰を流せば最高なんです。mp3今はやりの音楽フアイルの形式です。アイポットなどのハードデイスクに入れて聞きます。曲フアイルだが あなたのパソコンに送りあなたはそれを聞くことができるのです
ガンジスは汚くて沐浴するには勇気がいります。汚物を流し排泄をする、死体も流れてくる。不潔と言えばこれ以上はない。肥壺に飛び込むような気がしますよ
うう・・。やっぱり汚いのですね。インドにはたくさん有能な方がいらっしゃる一方でこうして発展途上のような部分が残っていること、ちょっとズレを感じます。やはり宗教の影響が大きいからでしょうか。
インドにはクリシュナと名がつく瞑想指導者、真理探求者とか多いんですよね。クリシュナ神になぞって名前をつけていたんですね。知らなかったなあ、勉強になりました。あまり多いと誰がだれだかわからなくなるよね
インドの神は化身するのでまたわからなくなる。クリシュナの生誕地マツーラへいったが夜だったので、よくわからなかった。だいたい化身という言葉の中身がわかっていないから言葉だけの理解になり、応用が利きません
日本では、仏像は見えても、神像はめったにお目にかかることはない。というより神像は仏像のように数多くは存在しない。
僕がお目に掛かったのは、神仏習合時代の東大寺の僧形八幡神像くらいのもので、普通ご神体は鏡であったり、剣であったり、山や、岩であったり、自然の大木であったりして、像にお目にかかるチャンスはほとんどない。
ところがである。クリシュナという神様に、これからご対面できるというのである。僕は期待した。
一般にアジアにおける神像は僕が見た限り、日本のそれに比べて作りが軽い。つまりおっちょこちょいなのである。少なくとも手を合わせて拝む対象であるならば、もう少し荘重で、威厳があり、荘厳な趣が必要ではないか。
ボダガヤのマハーボーテイ寺院で見たお釈迦さんだって、軽い作りだった。
あんな偉大なお釈迦さんを軽く作ってどうする。見たり、飾ったりしておくならば別、少なくとも拝む対象であるからにはそれにふさわしい格調や貫禄が必要であると僕は思う。
これは文化の違いだと割り切って納得した。こう解釈することによって、自分が拝む対象にしたかったのだ。
いよいよご開帳がはじまった。ざわついていた場内は、水を打ったように静まり返った。 神殿即ち、舞台の袖にいた人が綱をひっぱると、カーテンがあいて神様が姿を現した。見たとたん、僕は空いた口が塞がらないだけでなく、キョトンとした。「なーんだ。これ。へえ、これが、、」
一瞬僕は我が目を疑った。「これが神様か。へえ、。」
身の丈、70から80センチくらいの大きさの、人形がたっているのである。全身はまっくろで、漆塗りか、黒光りしている。ちょっと目には、大きめの黒猫そっくりで、おまけに真っ赤な舌をベローと出している。
そのうえ、首にはよだれ掛けをしている。 これじゃ猫のお化けじゃないか。僕は失望した。いや呆れた。僕はこの猫のお化けの神像に見とれてはいたが、静まり帰った場内には突然地上から吹き上げるような、大きな歓声が沸き起こった。いっせいに祝詞を唱えるのか、むにゃむにゃいう人、手をあわす人、歓声を出す人。それが歓声の源だった。
そして次には大きな拍手が起こった。なにごとかと思ったらツアーのメンバーの一人が
かなり多額の寄付をしたようだ。拍手は寄付した本人に向けられていた。
次いで、紐が引っ張られて黒猫のお化けが、そろりそろりと前へ出て来た。じっと見つめている人。合掌して祈る人、真剣な眼差しからは、光のようなエネルギーの放射さえ感じられる。
へえ、これがインドの神様か。僕は改めて神様をまじまじと見つめた。
ものの10分も経たないうちに、クリシュナ神は紐に引かれて後ずさりを始めて、カーテンの位置から、中に入ると、カーテンも引かれて舞台は閉じてすべては終わった。
クリシュナ神は元の座に鎮座したのである。
日本流の仏像を見慣れてる僕はインドのみならず、東南アジアの荘重さを欠く釈迦像には、なにか物足りなさと違和感を感じて来た。ところが、このクリシュナ神には徹底的に驚いた。いやもう違い過ぎて嫌気が差し、更にこんな姿の神を拝み、うつつを抜かすインド人の信仰に腹が立・ 驚てきた。
本家本元よりも、それを伝えられて自分なりのものにしている日本の方が余程宗教的雰囲気を持つ像を造り、もっと静かにおがんでいるじゃないか。陽気なのは良い、賑やかなのもいよい。が、像はあくまで礼拝の対象物である。黒猫のお化けみたいなふざけた神様など拝む気がしない。
僕は今行動を共にしているインド人とクリシュナ神を共有しているのだが、心の中は全く空々しい。完全に一人だけ浮き上がっている。ついていけないのだ。
メッカの方を向いて1日に何回も頭を地面にすり付けて拝むイスラム教にも違和感を感じるが、このインドの宗教も到底受け入れることは出来ない。
先ほどからインド人の神に対する想いが色々な形を取って表現されているのをこの目で見てはいるが、我々日本人のそれとは大凡かけ離れたものである。
ただ、人々の神への想いは日本人のそれと比べて、大仰に表現されるので篤い想いだけは伝わってくる。
一体礼拝などというものは、心を静めて、出来る限り落ち着いた状態の心をもって、神様を静かに拝んでこそ、礼拝したことになる。心を騒がせて、興奮状態の心で、果たして心のこもるお祈りが出来るのか。僕は率直にそう思った。
バスに戻ってからも、人々の興奮はさめやらないのだろう、席をたって大勢の人が興奮気味に話している。
違うな、確かに違うな。深いところまでは分からないが、日本とインドは神様1つをとってみても大きな違いがあることを僕はしっかり心に刻み込みながらつぶやいた。
勿論インドにはカーリー神やクリシュナ神しかいないわけではない。インドにおわす八百万の神々総てがこうだとは思わないが、今でも鮮明な記憶として残っているのを見るとやはり余程大きな違和感だったんだろう。
インドは貧しい国だ。だが民衆の神に対する想いは熱狂的なものがある。現世が貧しく苦しいから人々は熱狂的に神を求めるのか、それとも来世の幸福を求めて熱狂的になるのか、その辺の所は分からないが、いずれにせよ、日本とは大分違うなという感じが残った。
インドは確かヒンドゥー教が多いところですよね。ヒンドゥーにはありとあらゆる多くの神がいると聞きましたが、猫のお化けのような神さまもいるなんていうのには驚きです。
インドって不可思議なところです。マハーバーラタ=インドは神秘の国と言うらしいが、理解を超えたところだと実感しました
インドといえばガンジス川。ガンジス川には入浴している人、洗濯している人、排泄している人が同時にいるようですが、あの人たちの健康に害はないのでしょうか?少々疑問です。ガンジス川を生活に利用している人々には、私たち日本人にはない抗体が存在するのでしょうか?
写真にはよくでてますね。僕はガンジス川に入ってきました。とにかく汚いです。さすがの僕もあの群れの中にははいれないでもっと上流で人の少ないところでした。夏のせいで水温は生暖かいが流れは底のほうはかなり急です。それと火葬を見たが、だから生きている今を大切にということを強く感じました。輪廻転生について真剣に考えました
やっぱりガンジス川は汚いのですね^^;それと、葬儀について、確か灰を流すそうですが、そういうのを見ると生に対して考えざるを得ないでしょうね。ところで、mp3ってなんですか???現代文明に疎くてすみませんーー;
川岸で死者の火葬をするのです。バーニングボデイです。2時間かかりますね。それでも足首などは焼け残る時があるがそれも直ぐ横の川に流します。死体も流れてきますよ。ガンジンスは解脱すると考えられているからここで骨灰を流せば最高なんです。mp3今はやりの音楽フアイルの形式です。アイポットなどのハードデイスクに入れて聞きます。曲フアイルだが あなたのパソコンに送りあなたはそれを聞くことができるのです
ガンジスは汚くて沐浴するには勇気がいります。汚物を流し排泄をする、死体も流れてくる。不潔と言えばこれ以上はない。肥壺に飛び込むような気がしますよ
うう・・。やっぱり汚いのですね。インドにはたくさん有能な方がいらっしゃる一方でこうして発展途上のような部分が残っていること、ちょっとズレを感じます。やはり宗教の影響が大きいからでしょうか。
インドにはクリシュナと名がつく瞑想指導者、真理探求者とか多いんですよね。クリシュナ神になぞって名前をつけていたんですね。知らなかったなあ、勉強になりました。あまり多いと誰がだれだかわからなくなるよね
インドの神は化身するのでまたわからなくなる。クリシュナの生誕地マツーラへいったが夜だったので、よくわからなかった。だいたい化身という言葉の中身がわかっていないから言葉だけの理解になり、応用が利きません