(4)
「ところで、小町さん。あなたは後世の人々によっていろいろな形に仕立て上げられていますね。絶世の美人に始まって、女流歌人、美女の代名詞として使われる00小町。小町から待つと言うことにひっかけて遊女、それに巫女や比丘尼。さらには薬師如来様や観音菩薩様の化身のように思われて、薬師信仰や観音信仰と結びついていますね。」
「いやはや、美人である、歌才がある、ということは恐ろしいことですね。世間でどんな物語が作られ、それがどんな風に流布伝承されていくか。そして時代や地域によってどのように変化していくのか。こういう流れは誰にも、とめられません。
小野小町というイメージが、時代や地域をふわふわと、さまよい歩くのですよ。こういうイメージによって、ずいぶんありがたい想いをして、得をしたようにも思いますが、同時に実際と、あまりにもかけ離れた誤解によって、口には出せないほど、傷ついたこともありました。今静かに、それらを思い返して、総合計してみると、冒頭に申したとおり、ゼロサムになります。人生はゼロサムになるように、作られているのですね。それは私一人だけではなくて、この世に生まれてくる全ての人に、公平に与えられている宿命なのです。
私は魂の世界にやってきて、ここから現世を見つめ直すと、特にそのように思います。」
「そうでしたか。よく恋の花を味わっておかれたことだ。
明日のことが知れない、人の身には、今日現在、只今のことが、いちばん大切かと存じます。
お互いに燃えあがって、恋の花を咲かせる瞬間ほど美しいものは、この世には存在しません。そして、あなたは恋の美味酒に酔いしれたわけだから、お二人とも、この恋には悔いはないでしょう。この世に人として生まれ、あなたのように、美貌や才能に恵まれて素晴らしい恋に陥るなんて。この世に生まれてきたすべて人々があなたのように恵まれた境遇に生きるということは、おそらく少ないと思います。」
「そこなんです。人生というのは。
美人だから、高貴の生まれだから、金持ちや名門の令嬢だから、素晴らしい恋や人生の幸せが、約束されている、あるいは保証されている、と言うわけでは決してありません。青春時代にどのような素晴らしい人生を送ろうとも、花の時代が過ぎ去って中年になれば、人生の悲哀の身がうっとうしくなります。ましてや老残をさらす身には、世間の冷たい風が、直接吹いて来ます。そして、人生は恋の賛歌を歌っている花の時代は短くて、そのあとには、長い冬の荒涼とした時代と寂寥感が続きます。
私の人生を振り返ってみて、喜びの時代と、悲しみの時代を合計してみると、ゼロになります。世間では、人生はゼロサム、と言うらしいが、まさしく人の一生は、ゼロサムですよ。
可もなく、不可もなく生きた人の人生も、私のように、脚光を浴びて、華々しく、舞い上がった人生も、総合計すれば、みんな同じです。つまり、人生はゼロサムなのです。」
「そうですか。何もかもよくご存じの経験者である、あなたが言われるのだから、たぶん間違いはないでしょうね。しかしながら、人と言うのは、あなたのように、脚光を浴びて、華々しく、活躍することを夢見るのですよ。」
「それは気持ちとしてわかります。しかし、姿かたちを失って、この世界にやってきて、現実の世界を見てみると、私は、自分が下した結論は間違っていないと思います。
近頃つらつら考えるのですが、神様は、人が思うように人間に差をつけて、世に送り出されたとは、思えないのです。」
(5)
僕はっとして、我に返った。
底の見える「化粧の井戸」にたまった水面には、所帯やつれした中年女性が姿を映したまま、しゃがみ込んでいる。
最初は彼女の口から言葉が出ていたように思っていた。また事実、彼女の声に間違いなかった。ところが途中から彼女の姿はフエードアウトして、いつのまにやら、僕の視界からは消えていた。
しかし奇妙なことに、話し声だけは聞こえている。うまく表現できないが、彼女の体内に収まっていた小町が、彼女の身体から抜け出して、フエードインして透明人間になり、彼女をおってけぼりにして僕と夢中になって会話をかわしていたのだろう。僕は目よりも耳の方に集中していたから、小町の姿は例えそれが現身であろうが、魂だけの透明体であろうが、問題ではなかった。
要するに、僕は彼女の語る真相のみが知りたくて、追い求めていたのだった。
井戸にしゃがみ込んでいた女は急に立ち上がったが、足下ががたがたとふらついた。彼女はちょっとめまいがしただけといって再びしゃがみ込んだ。
僕は彼女をそのままそこに座らせておいて、今まで交わした会話を頭の中でもう一度繰り返してみた。
なるほどそう言う話だったのか。
一人合点したが、世間には老いさらばえた絶世の美人の老残の姿を小野小町老衰像(補陀洛寺)卒塔婆小町座像(随心院)として残っている。
最盛期の美女の姿をたくさん残してくれればいいのに。
この老婆の小町を見ると若き日の水もしたたる美女の姿を思い起こすことは出来ないだろう。むしろこれらの像はなかった方が良かったのではないか。いやそうではない。冒頭に書いた彼女の最も有名な歌
<花の色は移りにけりな、、、、>の中にすでに盛りを過ぎて
老境へ向かう彼女の心境が読み込まれている。いやこの歌だけではない。絶世の美女と老醜。この対比が人の生涯を物語るようで、何ともいえない気持ちになった。
女の生涯を考えてみると、つぼみや花の命は短くて、時の経過と共に衰えていく容姿を引き戻す、すべはない。
人生の約束事を非情だと思わずにはいられない気持ちになった。
彼女は続けて歌う。
<面影の変わらで 年のつもれかし よしや命に限りありとも>
<哀れなり我が身の果てや浅みどり つひには野辺の霞とおもへば>
<九重の花の都に住みはせで はかなや我は三重にかくるる>
<我死なば 焼くな埋めるな 野にさらせ 痩せた犬の腹こやせ>
蝶よ花よともてはやされて、そのときの瑞々しい気持ちを詠んだ美女歌人も、年老いて老人になると、若い日との落差が大きいだけに、夢も希望もなくなって抜け殻人生になってしまうのだとしみじみと哀れを感じた。
そして同時に生涯逃れられない「生老病死」の四苦の教えが目の前に、大きくクローズアップされた。
随心院は今日も大勢の人で、にぎわっている。
「ところで、小町さん。あなたは後世の人々によっていろいろな形に仕立て上げられていますね。絶世の美人に始まって、女流歌人、美女の代名詞として使われる00小町。小町から待つと言うことにひっかけて遊女、それに巫女や比丘尼。さらには薬師如来様や観音菩薩様の化身のように思われて、薬師信仰や観音信仰と結びついていますね。」
「いやはや、美人である、歌才がある、ということは恐ろしいことですね。世間でどんな物語が作られ、それがどんな風に流布伝承されていくか。そして時代や地域によってどのように変化していくのか。こういう流れは誰にも、とめられません。
小野小町というイメージが、時代や地域をふわふわと、さまよい歩くのですよ。こういうイメージによって、ずいぶんありがたい想いをして、得をしたようにも思いますが、同時に実際と、あまりにもかけ離れた誤解によって、口には出せないほど、傷ついたこともありました。今静かに、それらを思い返して、総合計してみると、冒頭に申したとおり、ゼロサムになります。人生はゼロサムになるように、作られているのですね。それは私一人だけではなくて、この世に生まれてくる全ての人に、公平に与えられている宿命なのです。
私は魂の世界にやってきて、ここから現世を見つめ直すと、特にそのように思います。」
「そうでしたか。よく恋の花を味わっておかれたことだ。
明日のことが知れない、人の身には、今日現在、只今のことが、いちばん大切かと存じます。
お互いに燃えあがって、恋の花を咲かせる瞬間ほど美しいものは、この世には存在しません。そして、あなたは恋の美味酒に酔いしれたわけだから、お二人とも、この恋には悔いはないでしょう。この世に人として生まれ、あなたのように、美貌や才能に恵まれて素晴らしい恋に陥るなんて。この世に生まれてきたすべて人々があなたのように恵まれた境遇に生きるということは、おそらく少ないと思います。」
「そこなんです。人生というのは。
美人だから、高貴の生まれだから、金持ちや名門の令嬢だから、素晴らしい恋や人生の幸せが、約束されている、あるいは保証されている、と言うわけでは決してありません。青春時代にどのような素晴らしい人生を送ろうとも、花の時代が過ぎ去って中年になれば、人生の悲哀の身がうっとうしくなります。ましてや老残をさらす身には、世間の冷たい風が、直接吹いて来ます。そして、人生は恋の賛歌を歌っている花の時代は短くて、そのあとには、長い冬の荒涼とした時代と寂寥感が続きます。
私の人生を振り返ってみて、喜びの時代と、悲しみの時代を合計してみると、ゼロになります。世間では、人生はゼロサム、と言うらしいが、まさしく人の一生は、ゼロサムですよ。
可もなく、不可もなく生きた人の人生も、私のように、脚光を浴びて、華々しく、舞い上がった人生も、総合計すれば、みんな同じです。つまり、人生はゼロサムなのです。」
「そうですか。何もかもよくご存じの経験者である、あなたが言われるのだから、たぶん間違いはないでしょうね。しかしながら、人と言うのは、あなたのように、脚光を浴びて、華々しく、活躍することを夢見るのですよ。」
「それは気持ちとしてわかります。しかし、姿かたちを失って、この世界にやってきて、現実の世界を見てみると、私は、自分が下した結論は間違っていないと思います。
近頃つらつら考えるのですが、神様は、人が思うように人間に差をつけて、世に送り出されたとは、思えないのです。」
(5)
僕はっとして、我に返った。
底の見える「化粧の井戸」にたまった水面には、所帯やつれした中年女性が姿を映したまま、しゃがみ込んでいる。
最初は彼女の口から言葉が出ていたように思っていた。また事実、彼女の声に間違いなかった。ところが途中から彼女の姿はフエードアウトして、いつのまにやら、僕の視界からは消えていた。
しかし奇妙なことに、話し声だけは聞こえている。うまく表現できないが、彼女の体内に収まっていた小町が、彼女の身体から抜け出して、フエードインして透明人間になり、彼女をおってけぼりにして僕と夢中になって会話をかわしていたのだろう。僕は目よりも耳の方に集中していたから、小町の姿は例えそれが現身であろうが、魂だけの透明体であろうが、問題ではなかった。
要するに、僕は彼女の語る真相のみが知りたくて、追い求めていたのだった。
井戸にしゃがみ込んでいた女は急に立ち上がったが、足下ががたがたとふらついた。彼女はちょっとめまいがしただけといって再びしゃがみ込んだ。
僕は彼女をそのままそこに座らせておいて、今まで交わした会話を頭の中でもう一度繰り返してみた。
なるほどそう言う話だったのか。
一人合点したが、世間には老いさらばえた絶世の美人の老残の姿を小野小町老衰像(補陀洛寺)卒塔婆小町座像(随心院)として残っている。
最盛期の美女の姿をたくさん残してくれればいいのに。
この老婆の小町を見ると若き日の水もしたたる美女の姿を思い起こすことは出来ないだろう。むしろこれらの像はなかった方が良かったのではないか。いやそうではない。冒頭に書いた彼女の最も有名な歌
<花の色は移りにけりな、、、、>の中にすでに盛りを過ぎて
老境へ向かう彼女の心境が読み込まれている。いやこの歌だけではない。絶世の美女と老醜。この対比が人の生涯を物語るようで、何ともいえない気持ちになった。
女の生涯を考えてみると、つぼみや花の命は短くて、時の経過と共に衰えていく容姿を引き戻す、すべはない。
人生の約束事を非情だと思わずにはいられない気持ちになった。
彼女は続けて歌う。
<面影の変わらで 年のつもれかし よしや命に限りありとも>
<哀れなり我が身の果てや浅みどり つひには野辺の霞とおもへば>
<九重の花の都に住みはせで はかなや我は三重にかくるる>
<我死なば 焼くな埋めるな 野にさらせ 痩せた犬の腹こやせ>
蝶よ花よともてはやされて、そのときの瑞々しい気持ちを詠んだ美女歌人も、年老いて老人になると、若い日との落差が大きいだけに、夢も希望もなくなって抜け殻人生になってしまうのだとしみじみと哀れを感じた。
そして同時に生涯逃れられない「生老病死」の四苦の教えが目の前に、大きくクローズアップされた。
随心院は今日も大勢の人で、にぎわっている。