日々雑感

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傾向と対策

2009年06月17日 | Weblog

傾向と対策

 昔から、地獄・極楽の話をするのは、老人か、坊さんと相場は決まっている。地獄へ行きたいか。それとも、極楽へ行きたいかと、問われると、答えは言うまでもないことだ。

 ところが地獄の方がなんとなく関心があるのは、恐いもの見たさの心理に根ざすと同時に、日頃の行いからして、どうも地獄へ行きそうな気配がしているのが、我々の日常の生活実感ではなかろうか。

「良い行いをする人は極楽へ行き、悪い行いをした人は地獄へ行く」
というのは、日常生活の常識がら生まれたもので、われわれが、生まれてこのかた、染みついてしまい、こういうことになるのかもしれない。

 ところが、それでは何が地獄で、何が極楽が、と大上段に構えて、問われると、確信をもって正確に答えられる人々は、少ないに違いない。それでも普通我々が日常生活の中で使っている、地獄極楽の概念で、なんとなくわかるものがある。

しかるに、過去はいざ知らず、現世・この世と、未来・あの世は間違いなく存在する。
しかも、現世における地獄極楽は日常生活の中で、我々は実感できる。何を地獄と呼び、何を極楽と呼ぶかは、人さまざまであるが、苦しみの絶頂を地獄、心地よさの最高の状態を極楽と表現している点では、地獄・極楽の意味は、個人差はあるとはいうものの、おのずから普遍性を思っている。

 テレビでは、送信機から発射される電波は目に見えないだけでなく、五感では感知できないが、受像機に達すると、そのうえでは画像を結び、我々の肉眼で、はっきり見えることができる。
 空中に向って発射された電波は、確実にこの世に存在するが、電波の存在をこの体で実感することはできない。
それゆえに、体で実感できない電波の存在が信じ難いのと同様に、あの世の地獄・極楽は実感できないがゆえに、信じがたいものである。

 しかし、霊魂不滅を信じるならば、この世で肉体が滅んだ後に残る霊魂が、この世に地獄・極楽があったがごとく、やはりあの世(次の世)で、地獄・極楽に巡り会うことはあり得ることだと考えられる。

 そしてあの世で、自分がそのどちらへ行かはエンマ様の側で決めることで、我々は、その指図に従うほかは無い。すなわち、エンマ様がもっておられるものさしでもって、図られて、その結果によって地獄行き、極楽行きが決定するのである。とすれば、この世に存在する間に、極楽行きを目指して、「傾向と対策」を立てることが必要なのかもしれない。

昔の人は極楽行きの「傾向と対策」について、現世での生き方を説いた。善因善果、悪因悪果だと言うのである。
これに従うと、現世の生き方が、そのまま来世にも通用しそうなことになる。つまり現世は、現世における地獄・極楽と、来世における地獄・極楽の双方を決める場になっているのである。こんなことを考えると空恐ろしくなってきた。

 地獄へ行こうが、極楽へ行こうが、自分の好きなように生きるほかは無い。開き直ると同時に,たとえその結果がどうなろうとも、、今日巷に出回っているハウツーものでも読んで,極楽行きに向けて、「傾向と対策」を立てておかなきゃとも思う。