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渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

写真の撮り方

2020年11月01日 | open


うちの刀剣会の友人が撮影した。
全国大会で日本一にもなった事もある斯界
の高段者だ。日常的に会話し、術技や刀剣
の事ついて意見交換をしている。

その彼が自分は絵心がないという。
毛筆の書も苦手だ、と。
花押についての対話の中での事だ。

私は、それは勘所のポイントを知らない
だけかと思う。
歌はそうはいかないが、表現行為という
のは、ある程度のキモを知ると、プロ並み
とはいかないが、それなりに「見られる」
体裁は整う。
本式本分者からすると認容しがたい事態に
なったりもするのだろうが。
ある友人が高校の時、見事な書を書いたと
思ったら毛筆の先生が口に泡を噴きながら
こんな書体は許せない!と怒り出したと
いう。
その友人曰く、「あの手の表現者の世界に
いる人は、自分の価値観に合致しない物
を見ると、自己が崩壊する程に精神不安定
を引き起こすのだろうね」とのことだ。
「何もそこまで激昂しなくても、とは思っ
たが、なるほどそういうものなのかなあと
思った」と。
この話は1989年7月に職場で本人から聴い
た。以前、二人で早朝の箱根を毎週走って
いたバイク乗りの相方だ。

ナイフなどの撮影では、真横には置いて
写真は撮らない。カタログ写真ではない
からだ。包丁も然り。
細長い物は⬜︎の対角線を結ぶように配置
する。
表現描写としては、「シンメトリーを崩
す」という手法が、時に人の何かに訴える
のか、精神的共鳴をよぶ事がある。
それはまるでブルーノートのように、正音
を外す不安定なピッチをあえて挿し込む事
で、心を揺さぶり、人の眠った「何か」を
喚起させるのだ。JAZZなどはまさにそれ
であるし、書画もそうした手法によって
微細な安定感を欠く要素を含む事で、人
をして魂を揺さぶらせしめる。
これが、全領域それであってはダメなの
だ。ほんのごく僅かだけ崩す。
その「崩しの美学」というのは芸術表現
においては、実はかなり重要な幹を占め
る。

しかし、逆に、シンメトリーの美という
ものも存在する。
これもそれのみでは単調にすぎる事になる
が、ここでも微細な崩しを入れる事で、
さらに左右上下の相似性に安定感を与える
効果を生む。アール・デコなどはこれの
典型だろう。

刀友は絵心がないとは自分では言うが、
前掲の連続画像を見ると、実はかなりの
センスを持っていると私は思う。
センスはあるのだが、引っ張り出し方を
自分で気づいていないだけではなかろう
か。
吸収力と咀嚼力無き者は、たとえどんな
世界でも日本一などにはなれない。
日本一ということは日本でその時ただ一人
しかいないということだ。1億2500万人の
中で。
また、日本刀を使う武技は日本人が世界一
であるので、つまり、日本一というのは
世界一であることを示すのである。
どんなジャンルの世界であっても、年度
のみとはいっても頂点に立つことは並大抵
のことではできない。
特に勝負の世界は、「トップかそれ以下の
その他大勢」という図式が真実だ。
ベスト4やベスト8とかいう表現はあるが、
すべて全部「敗北者」でしかない。
トーナメントなどはそれが顕著だし、一斉
に行なう競技や競争は「勝者か敗者」しか
いない。競馬でも勝ち馬は一頭しかいな
い。
2着以下は「その他大勢」であり、ドベと
同列なのだ。

上掲の画像は、無意識で連続撮影したの
ならば、空間の広がりをよく表現してい
て、私は秀逸だと思う。
と、同時に、「こういう撮り方もいいな
あ」と感じた。
これは遠近法とシンメトリーを上手く合体
させた表現になっていると私は感じる。

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