渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

清麿

2015年12月12日 | open



先日、友人と山浦環についていろいろ話をしていた。
清麿の作域の変化についての考察だ。
清麿研究は花岡先生の金字塔があるのだが、清麿の作域が
長州に赴いたことによって変化したことは、私のような刀剣に暗い
者でも実際
に刀を観てその違いに気付く。
数年前、私は清麿の長州打ちの銘が入った珍しい正真物を
手に取ってじっくりと鑑賞したが、「え?そうか・・・そうなのか」と
思うところがあった。
また、清麿が焼き入れの最後の段階で、現代工法と同じく刃を
上にしてトトントトトンと吹子を操作しただろうことも、その作を見て
推察できた。
特筆すべきは鋼の状態だった。
環は、長州からの帰途、江戸には直行せずに故郷小諸に向かって
いる。まるで飛んで帰って兄山浦昇真雄と共に何かを試すかのように。

友人との話で、「たぶんそうなのではないのかなぁ」という推測は、
中央(江戸と上方)を離れれば離れるほど、「旧来の物」が残って
いたのではなかろうか、ということだった。
環清麿の兄も若い時分に水心子に作刀注文したが、気に入らず
独自の刀剣武用論という観点から作を突っ返したりして大家水心子
を激怒させている。兄真雄は剣術と試刀に明け暮れていた頃で、
江戸ではコロリが流行り、勝麟太郎や大村益次郎や西郷吉之助が
生まれた文政年間の頃の話だ。まだ風雲急を告げる最幕末の
動乱の時代の前夜の頃のことである。

江戸にて中西忠兵衛に就いて中西派一刀流を学んで遣い手となった
山浦真雄はやがて自著『老の寝覚』において「古伝の鍛法をさぐり、
自ら造りて佩刀をなさんと思い立て」とあるように、満足な刀が世間
にないので自らが刀鍛冶になってしまった。ないのならば自分が古伝
の鍛造法を探し当てて再現して差料としてやろう、という訳だ。
この「古伝の鍛法をさぐり」ということからも、古伝の正規日本刀の
製作方法はすでに文政年間には完全消滅していたことが判明する。
また、復古刀論を掲げて世を席巻した出羽国米沢出身の鈴木三治郎
=刀工銘水心子正秀の作、一門の作についても、山浦昇は不満足
だった。折れるからだろう。
後年、信州真田藩で山浦昇の刀と水心子の高弟である出羽山形
出身の庄司蓑兵衛(別称荘司美濃兵衛)刀工銘大慶直胤との壮絶な
刀試しが行なわれることになるが、清麿の兄である山浦昇の目指す
刀は折れず曲がらずの真の武用刀であった。
今風にいうならば、墜落する戦闘機、沈没する戦艦、ジャミングして
発射不能になる小銃、それらは願っても要らない、ということだろう。
それは当たり前のことだった。士が帯びる刀槍においてはさような
ことが簡単に惹起されては武士が武士とも呼べなくなる。
釘を打てない玄能、まったく削れないカンナを求める大工はいない。
また、回らない独楽、音が出ない楽器、書けない筆に至っても同じ
である。
世の中のありとあらゆる万物は、その本分がまっとうできないことを
もって「美しい」などとされることは、それは倒錯した観念なのである。

弟の環に作刀を仕込んだのは兄昇であるが、環もやはり江戸に
出て剣術修行をして、後に独立した刀鍛冶となる。
その環は江戸を出奔して長州に長期滞在しているが、これは世間で
よく言われる「江戸からの逃亡」などではないだろう。
形の上では雲隠れだったかもしれないが、通行手形なく江戸から長州
まで向かえる筈もない。
最幕末動乱の時代では、京に各地から「浮浪」が蝟集したが、これとて
道中手形なくば京まではたどり着けなかったことだろう。
山浦環が江戸から長州に向かうには、誰か強力な後ろ盾があって、
手形も用意したのだろう。パスポートなくば国外に出られないのは今も
昔も同じなのだ。
私は、その支援者こそ幕臣の窪田清音(すがね)だと思う。手形も
彼が取り寄せたのだろう。
また山浦環の刀工銘は当初正行だったが、後年源清麿と改めている。
これは窪田清音の清をもらったのであろうが、読み方は「すがまろ」で
あったことだろう。現行では便宜上「きよまろ」と刀剣界では読んでいる。
これは兄昇にも同様のことがいえ、本来兄の刀工銘真雄は「まさお」と
読むところ、刀剣界では一部では「さねお」と読ませている。
このことは、同門に源正雄(まさお)という刀工がいたからそれと混同
しないようにとの配慮と私はみている。正雄の本名は鈴木次郎。一門
の最古参鍛冶で、たぶん向こう鎚の名手だったのではなかろうか。

清麿銘については、私自身は個人的にもう一つの推察がある。
それは山浦環正行は長州に赴いて帰参以降、清麿銘で多く打ち始める
という事実に着目した上でのことだ。
これは世間では前述のように庇護者であった幕臣窪田清音の一字を
授かったと説明されることが多いが、毛利藩領で「清」といえば二王鍛冶
の存在の影響を強く意識させる。二王鍛冶の刀工は殆どが銘の頭に「清」
をつけるという事実がある。
何かを開眼した場所、己が衝撃的に覚醒して何かを会得した人的関係と
しての長州での出来事。それとの関連意識が山浦環には強くあったのでは
なかろうか。
だが、これはあくまで推測であり、私的な憶測の域を出ない。
刀工銘というものは、鍛冶集団によって同系は同字を用いることが多い。
例えば備前には「光」が多く、相州伝には「廣」が多く、美濃には「兼」、
二王には「清」が多い等々。
これは名取りの通字と同じく、日本の文化でもあった。一般的な人の
名においても、先祖からの通字を用いることは、通称(~之進や~右衛門等)
や諱(いみな。家康や秀吉等の実名)を問わず中世末期~近世にかけて
成立していた日本人の「名跡残し」の文化だといえる。特に諱においては、
古代~中世中期においては先祖と別字であることが多かったが、いつからか
通字を用いるのが慣習化した。
刀工においては、同銘を襲名したり、子孫弟子たちは先祖や師から一字を
授かったりするのが慣習化した。
清麿の「清」という文字は、窪田清音から一字授かったのであるならば
清麿を「すがまろ」と読むが、毛利藩領二王鍛冶からの影響で「清」の一字を
使用したのであれば「きよまろ」という読み方であったことだろう。


清麿の作風が正行時代、長州打ち、兄との信州合作、江戸表打ちで
大きく変化しているのは有名で、とりわけ長州打ちの後に変化が著しい。
兄昇も餅鉄を使用したりして作刀を試みることをしている。
きっと長州になにかがあったのだろう。
長州藩領で思い浮かぶのは、中世から続く実用戦場刀を手掛けた刀工
集団の二王鍛冶だ。

仁王門の鎖を断ち切ったとの伝説のある斬鉄剣を周防国の二王鍛冶
製作していた。二王刀工集団は領主の拠点が長州に移封するに伴い
同じ毛利一族の拠点周防から主家の拠点長州に移住している。

二王の作域と鋼の質は備後三原や安芸大山鍛冶のそれに酷似している。
二王のヘラ影という独特の淡い映りが出るが、概ね鍛法等は後代の安芸
大山鍛冶や後代備後三原も同系であろうと思われる。

(家伝の二王/在銘/時代応仁)


もしかすると、東から備後三原・安芸大山・周防二王の鍛冶たちは、砂鉄
からの製鉄ではなく、岩鉄系からの製鋼を用いたのかもしれない。
これは清麿が長州から信州に戻って以降の山浦昇の「以餅鉄」と銘打つ
作からも類推できる。
今でも釜石あたりの餅鉄を使って吹いた鉄で作った刀ならばかなり異なる
特性を示す日本刀ができるのではなかろうか。
とにかく、山浦兄弟は、固定観念には捉われたりしなかった。
それは刀剣武用論で真実の太刀を求めていたからだろう。
奇しくも、山浦昇の到達点は、かの信州真田藩の荒試しで証明された。
弟清麿は自分の作には自信満々の証明書をつけたりもした。

だが、水戸藩では「清麿は折れやすいので注意」という御触れも出ていた。
これについては、私はある種の疑問を持っているが実相は不知だ。
なぜならば、水心子正秀が何かに憑りつかれたように水田国重の折損
事例を全国からかき集め「水田国重=折損しやすい刀の代表」という
レッテル貼りをした事実があり、それに影響されてか薩摩藩では家中に
国重の帯刀を
禁ずるという御触れまでだされているが、これらの流れは
かなり一面的な意図的な「何かを目的とした」フレーム
アップによるだろうと
私は種々の情報から類推しているからだ。水戸藩の清麿の扱いも同じ

ような面が多分にあったのではなかろうか。
実体としての水田国重に関しては、江戸期の書に「水田国重は江戸物は
折れやすく、本国備中産は折れない」というようなことが記載されている。
それをその著者は「水の違いか」とダジャレのようなことで締めくくって
いるが、「何か」が違うから異なる結果が生じるのである。
これは単に鋼そのものが違うという単純なことではなく、鋼とそれにみあった
鍛法なり製鋼炉の土壁だったり水の質だったりがあったのではなかろうかと
私は推測している。

事実、総体として水田国重が折れやすいかどうかというと、本国備中に
近い池田の水田鬼神丸国重などは頑丈であるし、また幕末志士の某も
「国重が折れやすいとは聞いてはいたが、自分の水田国重は斬り合いで
刃はササラのようになっても決して折れなかった」としている。
備中水田国重は女性鍛冶も含めて室町から幕末まで何代も存在するが、
ある者などは気性がよほど激しかったのか、自作刀で南紀重国の刀を
削ってみせて「どうだ」と言ったりしている。
これは逸話だが、ひとつの事実が見える。その水田国重が斬鉄剣であった、
ということである。
実際に鋼で鋼を裁つということは困難ではあるが、鉄を削ったり裁断したり
する器具は鋼で出来ている。ようするに高硬度であれば低硬度の金属は
裁断できる。ただし、ただ硬いだけでは駄目で、靱性という粘りがないと
刃先が欠損する。旋盤においても金属を削るのは金属であり、硬度と
靱性こそが決め手となる。
ちなみに、家伝の国重のうちの一つの山城大掾源国重(大月伝七郎作)は
無垢の丸鍛え=真鍛えで作られている。
また、同作者の無骨な脇差では、まるで逆刃刀のように棟と鎬地に玉垣
刃のような焼きをほどこした作もある。山城大掾源国重=伝七郎作である。
うちの国重のうち一口は、私の叔父が子ども時分に「おもちゃ」にして
山野でさんざん樹木の枝を裁ち切ったり、幹に斬りつけたりしたらしい。
それが無垢造りだというのは戦時中に故あって折ろうとして、鏨で穿って
折ろうとするも折れず、しかたなく回転砥石で薄くなるまで削り目を入れて
3枚に切断したのだが、その際の切断面と薄く研ぎ減らした時の状態から
完全に無垢であると判った。焼き刃は深部まであり、アンコ芯鉄などは用いて
おらず、砂流しや鋼の変化は中の中まで発生していた。鋼は両手の指を
絡めるように複雑に内部まで結合し合っていた。
また、その後、物打から先部分を合法短刀に仕上げる加工段階でも、異様
に粘る鋼であることが
判明している。

(その際、1センチ強四方ほどの切り取った破片を私が再度熱処理を
してなましてから鍛造成形し、焼き入れ焼き戻しした刀子。大月伝七郎
が使用した鋼だ。非常に感度が良く、厚み1.2ミリに仕上げた刀身に
見事に焼きが入り、割れも生じなかった。この伝七郎鋼で鍔も作ったが
非常に良い鋼だった。画像ほぼ原寸)


山城大掾水田国重(大月伝七郎作)がかなり粘る鋼であることは私自身が
身を以って体験しており、これの刀はよほどのことがないと折れないだろう
というわずかながらの知見を得ることができた。
ちなみに終戦直後、山下兵団が軒並み日本刀を並べて同田貫で打ち下し

たところ、あえなく簡単にポキポキ折れたのは水心子の刀ばかりだったと
いうことが記録に残されている。
現代刀はほぼすべて水心子の「仮想復刻」伝法を踏襲している。


刀剣書によると、備中青江伝と備後三原伝の血脈的合体物である水田国重
は最初それらの伝系の刀を作っていたが、江戸期に入り、「ある日天の啓示
を受けて」から相州伝の秘法を会得した、との旨になっている。
これは江戸初期に相州伝系の沸物が流行したことをなぞっただけで、天の
啓示などというオカルティックなことはまあネタであろうと私は思う。
ただ、江戸に出て江戸の流行を追った水田国重(江戸水田)の一部が欠損
しやすかったという事実は当時の複数情報から確認できるので、やはり
作り方と材料が国許(現在の岡山県井原市。広島県福山市、三原市にても
鍛刀)での製作とかなり違うコトガラがあったのだろうと思われる。
江戸水田国重は田舎から都会に出て悪いほうに転じた例だ。
だが、源清麿は都会から地方に出て何かを得た。

私と友人の共通認識としては、これは窪田の密命を帯びて、地方の
頑丈な鍛法を会得しに出張調査したのではなかったかと思っている。

(源清麿)