渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

広島県の古刀 ~大山宗重~

2017年10月27日 | open







登録  福岡*****  昭和44年8月29日交付
 

 寸法   長さ 二尺二寸七分(66,8cm)   反り 2,0cm  目釘穴 2個 
        元幅 30mm 先幅 21mm 元重 8mm
Size       Blade length  73,6cm     Curvature 1,57cm   Mekugi 2Hole
 
国   安芸国   
Country    Aki no kuni
 
時代   永正頃
Period    AD1500~1530
 
形状   鎬造り、庵棟、身幅重ね頃合い、先反りやや深くつく。
 
鍛え   板目肌、流れ心に良く詰む。
 
刃文   互の目乱れて、尖り刃交え、葉入り、砂流しかかって、
匂い勝ちに小沸つき、刃中良く働き、映り立つ。
 
帽子   先掃きかけ、一枚風となる。
 
中心   摺り上げ、先切、鑢目勝手下がり。
 
拵    黒変塗鞘打刀拵
 
白鞘  有
 
解説
 宗重は安芸郡瀬野川町上瀬野大山の刀匠で室町中期から後期に
かけて活躍する。代別も何代かあったと考えられている。本作の
宗重は永正頃の宗重で、先反やや深く付き、地鉄よく、刃中に働
きが多く映りも立ち、出来が良い。備前物に比べるとやや沸が強
く、覇気のある出来となっている。

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游雲会の友人が大山宗重を購入した。
最初、游雲会会員の日刀保登録審査員が購入予定だったが、
別な会員が購入することになった。
素晴らしい出来の大山宗重だとのことだ。
いずれ広島県産の貴重な古刀として押形を採らせてもらう
ことを約した。
私はこれまで大山宗重を3口しか経眼したことがない。
広島県重要文化財の宗重はこの永正宗重と同人作ではなかろ
うか。
一番記憶に鮮烈な大山宗重は、バブル弾けた直後に販売品と
して埼玉県の展示販売場で展示されていた作で、牡丹の花の
ような映りが出ていた。
あれは地斑(じふ)映りとでも呼ぶの
だろうか。

販売価格は760万円ほどだったが、無名の大山鍛冶にそれ程の
値をつけるのだろうかとも思った。もっとも、備前長船則光
の健全上作も同様の金額が銀座の店舗で付けられていたが、
こちらは備前なので市場価格もマーケットの構造上は納得でき
るものがある。

それでも高位高額の作はあまり値が上下せず、虎徹などは
当時1500万円ほどで虎ノ門に出ていた。
だが、現在、日本刀の価格は、平成初頭の5分の1~8分の1程度
に下落して
いる。今現在、ここ数年来続いている日本刀の最安
値の時期
はまだ継続している。

私の居合で使っている差料の大山宗重は、四代目宗重の延道
(えん
どう/のぶみち)彦三郎の作で、天正八年(1580年)の
年紀
が銘されている。永正年間は1504年~1520年であり、代は
三代ほど上る初代もしくは二代目宗重作あたりだろうか。宗重
は四代いるとされている。私の四代目宗重の作は天正8年の1580年
製作だ。永正年間から60年後である。
ただし、今回紹介する刀を日刀保が永正頃と比定した根拠は、
まったく以って不明だ。日刀保の鑑定もかなり当て鑑定ならぬ
当てずっぽう鑑定をすることが多いので、鑑定書の記載を鵜呑み
にはできない。無銘物などは鑑定に出すたびに作者が変る(苦笑)。
ただ、本作の作域を見る限りでは、戦国最末期の四代目宗重と
別人の前代宗重のようにも見えるが、銘のタガネの手癖は四代目
宗重と同一である。四代目天正宗重は虎徹のような細タガネで軽妙に切り、
タッチは異なるが、タガネの手癖というものはある程度見抜ける
ので、偽銘や同人作の別年代物などを看破できるのである。
本作は、実は四代天正宗重同人作である可能性もある。
逆説的には、それほど大山鍛冶の研究は世の中で進んでいない
のに、日刀保が永正頃と定めて鑑定書にまで書く根拠は一体何
なのだろうかと思う。どれほど日刀保がこれまで安芸国大山鍛冶
について研究を積んだというのだろうか。中央権威に属する者
たちが記した著書や銘鑑には、古刀期の安芸国大山鍛冶そのもの
が記載削除されていたりする程なのにだ。

大山鍛冶の初代守安は筑州左の出と伝えられ、南北朝時代(歴史
区分上は南北朝があった約60年間の時代は室町幕府時代なので
厳密には室町時代にあたる)に備前に刀工修行に赴いたが、無下
にこっぴどく断られて悲嘆に暮れて筑州に戻る際に安芸国の大山
で行き倒れになったとされている(岡山人は大昔から意地悪だっ
たのだろうか)。その際に、近隣の者が見つけて手厚く介護した
ために初代は息を吹き返し、この地の厚情に感激し、ここを終の
棲家と決めて住したとの言い伝えがある。
二代目以降は同じ旧山陽道中国道沿いでも峠の山中ではなく、
峠を西に下りた瀬野川地区に住した。まだ「広島」という町は
存在しておらず、後の広島は幾つもの川の中州があたり一面に
集中する一大デルタ地帯だった。安芸国と備後国の国堺がある
後に三原と名される地区とまったく同じような地形が後の広島
の場所であり、戦国末期に「何らかの理由」で河川土砂が河口
に一気に堆積して陸地ができつつあった。その理由は広島のほう
は「鉄穴流し(かんなながし/かんながし)」であるという事
は判明しているが、三原については学術的研究の手が入ってお
らず「不明」となっている。おそらく三原も広島と同じように
「三原鉄」を製鉄する為の砂鉄掘りの大量掘削による土砂堆積
だろう。

一方、安芸国大山鍛冶の鍛冶場付近=大山では多くの製鉄跡が
発見されており、ここら一帯が大製鉄地帯であったことは明白
であるのだが、広島県内においても学術的な研究がほとんど進め
られていないというのが現状だ。
まして、刀剣界などでは歴史の闇に埋もれたままになっている。
刀剣界には「五箇伝中心主義」が長年はびこっており、刀剣の
「中央」である五ヵ所の作刀地方以外の日本刀は「下作」とする
風潮がかなり頑健に残存しているのである。
そうした斯界の風潮は、刀剣の販売価格に直に影響を及ぼして
いる。
刀剣の販売価格などは商人たちが自在に操作する「偶像」であり
「虚飾」であるのでどうでもよい。
問題は、五ヵ所の場所以外で製作された日本刀(地区数は圧倒的
に五ヵ所よりも多い)を格下の「脇物」と見下すことによって、
地方刀(郷土刀とも呼ばれる)の学術的研究の着手の阻害要因が
発生していることが大きな問題なのである。
これは、外科のみを重要視するが、眼科や耳鼻咽喉科はないが
しろで良いとするそんな医学があるかのような状態なのである。
日本刀界という世界は、実は、客観的には、考えられない程の
不整合なアプローチ方法で「権威」が保たれているという世界
なのだ。
そうした悪しき因習は室町時代に刀剣専門家の総本家のような
勢力によって「人為的」に作られたことであり、それが現在の21
世紀の今に至るまで続いているのである。
非科学的であり、偏頗な事であり、歴史事象の総合解明として
不整合であるので、そうした悪しき旧弊は早く捨象して行く必要
がある。温故知新で、旧来の伝統や文化を温存させることはとても
人類生活の上で重要なことであるが、悪弊は除去するのが良策だ。
例えば日本では日本人の中に作られていた階級制度が昭和23年から
法制上は消滅されたように、旧弊の悪しき面は除去改善していか
ないと人間の生活環境に進歩がない。
日本刀界にあっては、五箇伝中心の中央主義は公正妥当性を有する
べき学術的研究にとって悪弊以外の何ものでもない。

安芸国大山鍛冶の鍛刀場所近隣は、大製鉄地帯だった。
だが、広島県の製鉄というと、県北東部のエリアのみが注目されて
研究が進められている。現代刀工たちもそちらにばかり注目している。
安芸国と備後南部の古代~中世製鉄はほとんど空白地帯・空白時代
のようにぽっかりと専門学術研究の手がつけられていないエリア
なのである。つまり、お宝は今でも眠っている。
鉄や金に鉱脈があるように、実は地図を俯瞰すると、備前から備中、
備後、そして備後と安芸の国境の三原、さらに大山を抜けて周防の
二王に至るラインは、産鉄刀剣製作ベルト地帯であることが地図上
の配置から看取できるのだ。
しかし、そのお宝ベルトラインは、東端の備前と西端の二王の研究
以外、まったく刀剣界でも手つかずの状態なのである。備中鍛冶の
青江の場所がどこかさえまともに比定されていない。青江は現在の
倉敷市の水江だろうとは思われるが、学術的な定見を我々は今もって
得てはいないのである。

(安芸国大山鍛冶の鍛刀地と周辺製鉄地)

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大山宗重には二系統の作柄がある。
一つは私の宗重のように、大肌物、来物のように見える直刃調
小乱れで匂い口が締まる物で、二王によく似ている。だが二王
のヘラ影のような物は映らない。主として戦国最末期の作者。
もう一つは、備前則光が直刃調ではなく寛正則光のように派手
な乱れ刃があるように、前代において直刃ではなく大乱れ刃を
焼く覇気ある作風の物だ。大山宗重も備前長船則光と同じく、
初期作は大乱れ物の作風を示す。

大山鍛冶の作品の多くは磨りあげられて「二王」と鑑定された
作がとても多かったのではなかろうかと私は読んでいる。これは、
安芸国大山鍛冶について刀剣談話で意見交換をした時に、美術刀剣
刀心の店主である町井勲氏もまったく同意見だった。
大山鍛冶は、旧山陽道の大山山中(現東広島市)にて最初は鍛刀
したとされているが、二代目以降は下山し、現在の旧国道沿いの
瀬野川地区(現広島市)に移住した。
鍛冶場跡からは鉄滓が大量に発掘されており、もしかすると自家
製鉄で鍛刀していたのかもしれないが、近隣にはたたら製鉄もし
くはたたら吹き製鉄の遺跡が集中しており、中世においてはここ
大山付近が一大製鉄地帯だったことを示している。
しかし、大山鍛冶については、学術的なメスがほとんど入れられて
いない。
近隣には、特定古式製鉄跡の地区もあり、そこは「別所」という
地名で、東北地方から強制的に俘囚の製鉄専門技術職集団を大和
王権が集住させて製鉄にあたらせた地区であるという伝承が残って
いる。いい加減な伝承ではなく、残存する古地名からもそれはほぼ
現実だったと推認できる。これは古墳周辺の「守戸」と非常にある種
似通った現代に至る民俗的な残滓を残している。
古代製鉄および国内統制史の解明の一端として、中世末期の安芸国
大山鍛冶が鍛刀したエリアは、研究すれば鉄滓ならぬお宝がわんさか
と発掘される地区だろうと私は感じている。とりわけ古代製鉄に
関しては、学術的な歴史解明に光明をもたらす素材が多数埋蔵され
ていると思われる。

旧山陽道沿いの安芸国大山鍛冶の鍛刀場所跡には、歴史案内の大きな
看板が建っており、私が史料として提供した私の大山宗重の全身
画像も綺麗に印刷されて表示されている(撮影:町井勲 氏)。
日本刀好きの方がお近くにお寄りの際は、是非ともお立ち寄りくだ
さい。




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私の大山宗重(広島県で現存確認の宗重18口目。昭和34年神奈川県登録)
銘「安藝國大山住仁宗重作 天正八年二月吉日」

(撮影者:町井勲 氏)

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刀工同士の意外な接点

2017年10月22日 | open


三上貞直刀匠

広島県の三上刀匠と刀工小林二代目康宏(直紀)は接点があった!

今年、康宏の弟子根来氏が刀工試験に一発合格した。
根来氏は団塊の世代の早稲田大学法学部の出身で、刀工試験受験者・
合格者では最高齢受験&合格者ではないかと思われる。

合格後、お世話になった三上刀匠とも話をしている時、「いやあ。懐かしく
なっちゃた」と三上刀匠がおっしゃるという。
なんでも、直紀康宏に車に乗せてもらって、山梨の小林康宏日本刀鍛練所
まで三上氏は行ったことがあるのだという。
直紀先生はよく覚えていない(直紀さんらしい)。
で、帰りもどこかまで送ったのだろう。
昔とても(小林先生には)お世話になって、との話を三上先生は満身の笑顔
で合格者根来氏に話していたという。

1990年代末期から今世紀初頭にかけて、私は広島県の県北をフライフィッ
シングで歩きまくった。年間釣行日数は60日を超えた。尋常ではなかった。
県北(芸北と呼ぶ)の人たちとも非常に仲良くなった。
近所の三上刀匠の話をよく耳にした。
地元の名士であるのだが、それよりも、なにより温厚な人格者であると地元
では評判の方が三上刀匠その人だった。
「実る程、こうべを垂れる稲穂かな」
昔の人はよくいったものだ。
刀鍛冶という職業にいる者は、自分こそが日本一である、世界一である、など
と自ら公言して(非常に恥ずかしい痴れ者である)、「これができるのは自分
の他には誰もいない」などとふんぞり返る信じがたい人間が非常に多い。
嘘みたいに多い。
そのくせ、作る物は、そういう人格の者が作る物に限って、刀の形をした「~の
ような物」でしかなく、刃こぼれしまくりで実用的性能を具備することが大前提
である「刀剣」の体を成さないものばかりだったりするという現実がある。
偉そう大将にしているのは、実は本当の実力を備えていない不備不完全な
物体であることを作者自身が知っているから、それをごまかし、偽装するために
虚勢を張って嘘を塗布して偉そう大将でふんぞり返っているのではなかろうか。
偉そう大将は人格としてろくでもないのはいうまでもないが、実は詳細に見ると
作自体もろくでもない事が多い。
玉鋼を使った現代刀での映りなどは昭和40年代にすでに先人が何人も再現に
成功しているのに「史上初だ」などと大嘘を言ったり、弟子の嫁に手を出したり、
カルト宗教に弟子を強制的に入信させようとしたり、弟子の悪口をネットで書き
まくったり、偉そう大将に限って、実は人格的にも救いようがない人物であること
が多いのが日本刀の世界であり、それを扱う武術の世界であったりする。

そうしたなかで、三上刀匠や小林康宏刀工のような刀鍛冶は、非常に希少な
存在のように思える。
三上さん、地元広島県県北の人口に膾炙されるところでは、非常に評判の良い、
人柄が良い方としての評判である。
これは地元情報として。
土地柄もあるのでしょうけどね。あの芸北のあたりは、非常に人柄が良い人が
多いというのもあります。私は地元に溶け込むように仲良くなりましたが、とても
よい感じの人たちでした。

三上氏の家のすぐ近所では、幕末の広島藩の刀工だった石橋正光(作柄は
大和伝の実用刀。二王にも似ている作柄)の子孫が住んでいる。モデルみたい
なイケメン(笑)。
彼は私のフライフィッシング仲間だった。
ベレーがほしいと言うので、私のグリーンベレーをあげたことがある。
それをかぶって彼はフライフィッシングをやっていた(笑

三上刀工の作は、「居合試合用に特化された居合刀」ではない本鍛錬刀を
尾道の先生が差し料としている。
拝見すると、とても真面目な作柄で、人となりが作品から偲ばれる。
ぞんざいさが一切無いだけでなく、技巧に走っていないのに深い技量が
作に出ている。
実用性を離れたペラペラの吊るしの試合刀ではないので、非常に重い。
先生が流れるように軽やかにゆったりとしながら鋭くしなやかに使って
いたので、軽い刀かと思って持たせてもらうと、「え?」と思うほどに重い。

刀を見ていて、「晴れ晴れした気持ちになる」ということは、刀剣が持つ
質性としてとても重要なファクターであるように私は思える。
三上刀匠の作品は、手に取って見ていると心が晴れる。スーッと心が
澄む。
あくまで推測だが、作者三上刀匠は、太陽をいつも意識してはいない
だろうか。


旧交

2017年10月21日 | open


(濃州堂五十嵐社長と)


多くの旧交を温めた。
佐賀の監督、埼玉の監督、茨城の八段、神奈川の同期七段、先輩の八段、
すべて昔居合関係で懇意にしてくださった気の置けない人たちだ。
茨城の人とは、刀談義に花が咲く。
「おまえさんのブログで書かれてるの見て、買ったよ、水戸の〇〇作」
すげ~(笑
超切れ物作者の系譜、天下の水戸物。
まるで強烈過酷な軍用銃のような耐久試験を経て淘汰され、潜り抜けた実力
を持つ刀工作のみが実用刀として推挙されたという幕末水戸刀。
松代藩の有名な荒試しをも凌駕する熾烈な強度試験が課されるのが水戸刀
の特徴だ。当時国内最強作が列していたのが水戸の刀ではなかろうか。

「地元の人たち持っている人多いけど、地元で入手しようとすると高くてね」
とのことだった。
神奈川時代に大変お世話になった人だが、かなりの刀好き。ええど~。
最近は金具も水戸物を揃え始めていると言ってた。
いいすね~。そういうのって、すごく素敵なことかと思います。
脇物だとか何だと言われても、私はやはり末古刀三原刀や近隣の二王などの
作がとても好きだもの。
まして、代が上る法華一乗や国分寺などはしびれちゃうもの(笑
自分が住する場所は武の風がかつて吹いていたというのがあるというのは、
なんだかちびっと心が晴れる。

神奈川の同期の現七段とは三島由紀夫先生について久しぶりに話をした。
佐賀の先輩は康宏のハードユーザーだ。私が鍛人に連れて行ったら、即行
でその場で即康宏刀工に注文をしていた(^^;
埼玉の人は、昔よく共に二人で飲み歩いた間柄だ。明るく良い酒で、一緒に
いる時間が心地よい。スカッと爽やかで、綺麗な酒なので、一緒にいると非常
に心がクリーンになる。伊豆での合宿時代にもいろいろお世話になった。

全剣連の居合でいいなぁと思えるのは、今は全国にいるかつての昔からの
付き合いの人たちと、何年かぶりに「今年もこんにちは」と会えること
が挙げ
られるかも知れない。

京都は行ったことがないが、京都もそういう空気があるのかなぁ。
今回わが師の範士は来広していなかった。何でも法事なのだそうだ。
同門同道場の六段が選手で出場していて、久しぶりに会って近況を聞いた。
彼も斬鉄剣康宏作のユーザーだ。先ごろ完成して納品した。
この作刀の経緯は、師匠から突然連絡があり、「一口、私からのお願いとして、
彼に康宏作を世話してあげてくれないか」との申し入れが私にあり、小林康宏刀
製作の中心スタッフである私あてに師匠の推薦があった人物のため、保証人
付みたいな形である旨を刀剣しのぎと康宏本人に伝え、そして作刀可否審査
にあたってもらった。一応他の方と差別はせず、審査のための意識性表明の
作文をしていただいた。その文章による応答により文意文脈行間を読んで
作刀の可否を審査する。
実は師匠も鍛人時代に康宏作を注文製作した康宏刀のハードユーザーである。
師匠の康宏は古雅な作風だ。
斬鉄剣康宏作は誰にでも作る。まともまっとうな人であるならば。

体調崩して長期入院中にスタッフ確定があったので、今回の全国大会の裏方
でお手伝いできなかったのが悔やまれるし、広島の人たちに申し訳なく思うが、
休み時間に旧友と会えたことは、せめても公的でなく私的側面では心が和んだ。

旧友刀屋ケイとも硬く再会の握手をした。
もう30年近い付き合いになる。
年もいっこ違いで、昔からすごく仲がよかった。
きょうは、下げ緒を一本分けてもらったよ(^0^)
結構渋めのいい色!
破格にしてくれた。ありがとう、五十嵐ケイちゃん。


あら?おいらの家のバーカウンターだと光線の関係で青系に見えちゃう。
違うんだよなぁ、本当の色は。


こちらのほうが原色に近い。この薄緑は和色名だと若竹色ともいうのだけど、
個人的には萌え萌えだぜい!
理由は傭兵のベレー色!セージだよ、セージ!

今までは会津藩剣術指南番の水色の縹(はなだ)色がトレードマークだった
けど、
今後はこの傭兵カラーをあたくしの持ち色にしようかしらん(笑)。
「ヘイ!マークス!ステァンバァイ!」て。



楽しまないとね。色ひとつにしても。人生は短いのだから。

普段愛用している縹色(はなだいろ)の下げ緒。
会津藩の剣術指南番指定の色だ。
しなやかでプリティーグッド!


「秋の夜長はワイルド・ギース」

2017年10月17日 | open



表題通りのメールが刀工康宏友の会「游雲会」メンバーから送られてきた。

ひゃっは~!変態さん、いらっしゃい(≧▽≦)

ガッツリ、しっかりと入手してますね(笑)
映画『ワイルド・ギース』は、ボーナストラックでポテチー食いながら大与太
の大馬鹿発言連発の馬鹿女がくっちゃべってる東北新社のDVDではなく、
ブルーレイ版がおすすめです。
製作秘話やロジャー・ムーアの音声解説、映画作品の軍事アドバイザーの
マイク・ホアー本人のインタビューまであります。超貴重な日本語吹替え
まで入っている(これがまた最高にいい!)。

あと、プチトリビアとしては、カジノに隠れるショーン中尉(ロジャー・ムーア)を
かばって悪党に殴られて怪我するカジノのブラックジャックテーブルのディー
ラーの若い美人は、映画プロデューサーの実娘が演じています。
その実母はサンディ曹長(ジャック・ワトソン)の奥さん役で、フォークナー
大佐(リチャード・バートン)がサンディの自宅を訪ねた時に出てきます。
この作品はカメオ出演も多い遊び心のある作りとなっています。
リチャード・ハリスとリチャード・バートンという二人のリチャードがいたので、
R1、R2と撮影中はスタッフたちは呼んでいたそうです。
奥さんや恋人たちを職場である撮影現場に呼ぶのは西欧人の俳優たちの
習慣のようですが、この作品でもR1、R2や他の人たちも奥様や恋人を
現場に呼んで一緒に寛いでいます。
なんというか、あの雰囲気は、1970年代の世界グランプリロードレース
での「コンチネンタル・サーカス」の雰囲気にとてもよく似ていると感じた。

秋の夜長、なんだか私の周辺では、ワイルド・ギースと傭兵ドキュメンタリー
作品がちょっとしたブームのようです。
(映画作品は良作です。役者が十二分に演技しており、見所多数)


ハットをキャップに ~傭兵スタイル~

2017年10月13日 | open



これはブーニーハットです。

これをこうして・・・


こうやって餃子みたいな形
を作って・・・



被ると、たちまちハットがキャップ
に変身!



形を整えれば、パトロールキャップ
のような形にもできます。



こんなこと自衛隊でやるとぶっ
飛ばされそうですが、まあなん
というか、
愚連隊のようなマー
セナリーは関係ないっす(笑

この被り方は、40年近く前に
ある人からある場所で教えて
もらいました。


迷彩いろいろ ~本論~

2017年10月12日 | open



まあ、なんというか、柄物迷彩服を20数着持っているおいらは
充分に変態さんいらっしゃ~いなのだろうなぁ・・・。

それに加えてOD色戦闘服も無数にあるという。


最新版はこれ。米軍最新式のA-tacs FGカラーである。


これはかなりそそる柄ではあるのだが、実は今世紀初頭に私が自作した
迷彩柄はほぼこれである、という(笑

その時に作った自作迷彩柄のブーニーハットはこれ。

これは実は気合いを相当入れて作った。
「作った」というのは自分で色柄物に染めたというだけではない。
この帽子は、実はただの白い布から自分でミシンを使って製作
したのである。ありえねぇ~~~(笑

だが、為せば成る。為さねば成らぬ何事も。白い布から自分で
最初から帽子を作った。帽子作りは初めてだったが、かなり難しい。
さて、迷彩。
このA-tacs FGという柄物は刀剣仲間の忍者トットリ君も愛用している。
彼もゲーマーだ。
それがこれ。


私のよりも緑が強いように思えるが、本人曰く肉眼では私の画像のような色
なのだという。
ぼんやり系ね(笑

この A-tacs FG を見た自衛隊本職さんの二尉は今夜私に「これは迷彩効果
が高そうだ」と言っていた。
実戦では知らないが、エアソフト・フィールドにおいては、私が実際に肉眼で確認
した限りでは、真冬の枯れ木植生時以外では、この A-tacs FG は世界中のどの
迷彩柄よりも2017年現在では、一番迷彩効果が高いという感想を持っている。
これがベスト・オブ・ベストだ。今のところ。
適合季節も真冬以外はかなりの季節をカバーするのではなかろうか。
A-tacs は数種類が現在作られている。
A-tacs とはAdvanced TActical Concealment System の頭文字を繋げた
呼称であり、私の FG とは Foliage Green の略であり、さらに現在ではFGXと
いうXシリーズも加えられ、大別して5種類の戦地仕様の種類がある。
特筆すべきは日本がお家芸だった雪山迷彩も加えられていることである。


迷彩いろいろ。
本当によく考えられている。

だが、米軍の場合、以前の日記記事でも書いたが、ほんの数年ごとに
新パターンを採用している。
これは軍事的にはあきらかに不自然でおかしい行動であるのだが、
純粋に軍事的な用兵思想として見るから不自然に見えるだけのことだ。
新パターン採用には莫大な金が動く。
つまり、毎度の巨大軍需産業の行動パターンとして見れば、米軍の
次から次への落ち着きのない矢継ぎ早の迷彩柄の新採用(ほんの2年
ほどで新パターンを採用することが湾岸戦争以来ずっと続けられている)
は、ごく当たり前のことなのだ。
米軍は兵士の安全確保のために動いているのではない。
これだけは確かな事として断言できる。

そして、意外なことに、米軍と同盟軍側の旧西側各国は、米軍ほどコロコロ
と迷彩服の柄を変更したりはしない。
ただ、今後は米国同盟国も、どう転ぶか分からない。
ポチ日本あたりが迷彩柄をコロコロと変えるようになってきたら、軍需産業
の在り方も官民癒着度合が米国式に転換したという反証になる。
一番の問題は、軍需産業による利潤を愛することであり、兵士の安全に
腐心してのことではない、という事実が存在することだ。
日本は米国のコピーになっては絶対にいけない。

私が迷彩柄物と素材の質性でかなり気に入っているのは、この韓国軍の
コリアン・リーフと呼ばれた柄である。
ただ、確かこの迷彩柄はすでに廃止されたのではなかったか。
茶色部分が小倉色系の赤みがかった茶で、なかなか良いのだ。
 
ウッドランドではないの?とか思ったりするのだが、業界では
一応「韓国リーフ」という呼称で呼ばれてきていた。

コリアン・リーフ・パターンの日本国内での迷彩効果は高い。
 ↓


足元注目。

ただし、ほとんどコリアン・リーフは市販されていない。それが難点だ。
私は二着所有していたので、一着は所望した三原のゲーマー友人に
かなり前に進呈した。


ウッドランドといえば、米軍が1980年に採用したウッドランド迷彩柄は、
世界中に非常に大きな影響を与え、現在でも各国でウッドランド迷彩
が採用されている。
日本国内でも、1980年代は新迷彩とのことで、猫も杓子も誰もが
米軍ウッドランド迷彩柄に飛びついた。
私はそうした長い物に巻かれろ傾向が大嫌いだったので、1980年代
には一切ウッドランドは着なかった。80年代は主として英軍実物DPM
であり、米軍物ならば実物ERDLリーフ(ベトナム戦争時代の物)を着用
していた。
ウッドランドを入手したのは、米軍でウッドランドが一般的ではなくなった
時期からである。
好きではないのでゲームでは3回しか着用していない。
普段着で家着では作業着のように着たりしていたが。

だが。
実物本物ウッドランドは、ある程度色落ちがすると、非常に色合いがよく、
背景に隠れる柄物になることを最近再発見したのだ。


ウッドランドを着用するSEAL隊員役のブルック・ウィルス。
(映画『ティアーズ・オブ・ザ・サン』より)


(映画『ローン・サバイバー』より)


だが、私が一番長く日本のゲームで着ているのは英軍のDPM(ディスラプティブ・
パターン・
マテリアル=分裂迷彩柄)の迷彩柄だ。

映画『ワイルドギース』(1978)から。彼らは全員すでに死亡した。
軍事アドバイザーを担当した元傭兵ワイルド・ギースの隊長のマイク・
ホアー氏の死亡は確認されていない。存命ならば今年97才である。
中央の名優リチャード・バートンの役どころのアレン・フォークナー大佐
のモデルは、マイク・ホアー大佐本人である。

マイク・ホアー氏