登録 福岡***** 昭和44年8月29日交付
匂い勝ちに小沸つき、刃中良く働き、映り立つ。
かけて活躍する。代別も何代かあったと考えられている。本作の
宗重は永正頃の宗重で、先反やや深く付き、地鉄よく、刃中に働
きが多く映りも立ち、出来が良い。備前物に比べるとやや沸が強
く、覇気のある出来となっている。
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游雲会の友人が大山宗重を購入した。
最初、游雲会会員の日刀保登録審査員が購入予定だったが、
別な会員が購入することになった。
素晴らしい出来の大山宗重だとのことだ。
いずれ広島県産の貴重な古刀として押形を採らせてもらう
ことを約した。
私はこれまで大山宗重を3口しか経眼したことがない。
広島県重要文化財の宗重はこの永正宗重と同人作ではなかろ
うか。
一番記憶に鮮烈な大山宗重は、バブル弾けた直後に販売品と
して埼玉県の展示販売場で展示されていた作で、牡丹の花の
ような映りが出ていた。あれは地斑(じふ)映りとでも呼ぶの
だろうか。
販売価格は760万円ほどだったが、無名の大山鍛冶にそれ程の
値をつけるのだろうかとも思った。もっとも、備前長船則光
の健全上作も同様の金額が銀座の店舗で付けられていたが、
こちらは備前なので市場価格もマーケットの構造上は納得でき
るものがある。
それでも高位高額の作はあまり値が上下せず、虎徹などは
当時1500万円ほどで虎ノ門に出ていた。
だが、現在、日本刀の価格は、平成初頭の5分の1~8分の1程度
に下落している。今現在、ここ数年来続いている日本刀の最安
値の時期はまだ継続している。
私の居合で使っている差料の大山宗重は、四代目宗重の延道
(えんどう/のぶみち)彦三郎の作で、天正八年(1580年)の
年紀が銘されている。永正年間は1504年~1520年であり、代は
三代ほど上る初代もしくは二代目宗重作あたりだろうか。宗重
は四代いるとされている。私の四代目宗重の作は天正8年の1580年
製作だ。永正年間から60年後である。
ただし、今回紹介する刀を日刀保が永正頃と比定した根拠は、
まったく以って不明だ。日刀保の鑑定もかなり当て鑑定ならぬ
当てずっぽう鑑定をすることが多いので、鑑定書の記載を鵜呑み
にはできない。無銘物などは鑑定に出すたびに作者が変る(苦笑)。
ただ、本作の作域を見る限りでは、戦国最末期の四代目宗重と
別人の前代宗重のようにも見えるが、銘のタガネの手癖は四代目
宗重と同一である。四代目天正宗重は虎徹のような細タガネで軽妙に切り、
タッチは異なるが、タガネの手癖というものはある程度見抜ける
ので、偽銘や同人作の別年代物などを看破できるのである。
本作は、実は四代天正宗重同人作である可能性もある。
逆説的には、それほど大山鍛冶の研究は世の中で進んでいない
のに、日刀保が永正頃と定めて鑑定書にまで書く根拠は一体何
なのだろうかと思う。どれほど日刀保がこれまで安芸国大山鍛冶
について研究を積んだというのだろうか。中央権威に属する者
たちが記した著書や銘鑑には、古刀期の安芸国大山鍛冶そのもの
が記載削除されていたりする程なのにだ。
大山鍛冶の初代守安は筑州左の出と伝えられ、南北朝時代(歴史
区分上は南北朝があった約60年間の時代は室町幕府時代なので
厳密には室町時代にあたる)に備前に刀工修行に赴いたが、無下
にこっぴどく断られて悲嘆に暮れて筑州に戻る際に安芸国の大山
で行き倒れになったとされている(岡山人は大昔から意地悪だっ
たのだろうか)。その際に、近隣の者が見つけて手厚く介護した
ために初代は息を吹き返し、この地の厚情に感激し、ここを終の
棲家と決めて住したとの言い伝えがある。
二代目以降は同じ旧山陽道中国道沿いでも峠の山中ではなく、
峠を西に下りた瀬野川地区に住した。まだ「広島」という町は
存在しておらず、後の広島は幾つもの川の中州があたり一面に
集中する一大デルタ地帯だった。安芸国と備後国の国堺がある
後に三原と名される地区とまったく同じような地形が後の広島
の場所であり、戦国末期に「何らかの理由」で河川土砂が河口
に一気に堆積して陸地ができつつあった。その理由は広島のほう
は「鉄穴流し(かんなながし/かんながし)」であるという事
は判明しているが、三原については学術的研究の手が入ってお
らず「不明」となっている。おそらく三原も広島と同じように
「三原鉄」を製鉄する為の砂鉄掘りの大量掘削による土砂堆積
だろう。
一方、安芸国大山鍛冶の鍛冶場付近=大山では多くの製鉄跡が
発見されており、ここら一帯が大製鉄地帯であったことは明白
であるのだが、広島県内においても学術的な研究がほとんど進め
られていないというのが現状だ。
まして、刀剣界などでは歴史の闇に埋もれたままになっている。
刀剣界には「五箇伝中心主義」が長年はびこっており、刀剣の
「中央」である五ヵ所の作刀地方以外の日本刀は「下作」とする
風潮がかなり頑健に残存しているのである。
そうした斯界の風潮は、刀剣の販売価格に直に影響を及ぼして
いる。
刀剣の販売価格などは商人たちが自在に操作する「偶像」であり
「虚飾」であるのでどうでもよい。
問題は、五ヵ所の場所以外で製作された日本刀(地区数は圧倒的
に五ヵ所よりも多い)を格下の「脇物」と見下すことによって、
地方刀(郷土刀とも呼ばれる)の学術的研究の着手の阻害要因が
発生していることが大きな問題なのである。
これは、外科のみを重要視するが、眼科や耳鼻咽喉科はないが
しろで良いとするそんな医学があるかのような状態なのである。
日本刀界という世界は、実は、客観的には、考えられない程の
不整合なアプローチ方法で「権威」が保たれているという世界
なのだ。
そうした悪しき因習は室町時代に刀剣専門家の総本家のような
勢力によって「人為的」に作られたことであり、それが現在の21
世紀の今に至るまで続いているのである。
非科学的であり、偏頗な事であり、歴史事象の総合解明として
不整合であるので、そうした悪しき旧弊は早く捨象して行く必要
がある。温故知新で、旧来の伝統や文化を温存させることはとても
人類生活の上で重要なことであるが、悪弊は除去するのが良策だ。
例えば日本では日本人の中に作られていた階級制度が昭和23年から
法制上は消滅されたように、旧弊の悪しき面は除去改善していか
ないと人間の生活環境に進歩がない。
日本刀界にあっては、五箇伝中心の中央主義は公正妥当性を有する
べき学術的研究にとって悪弊以外の何ものでもない。
安芸国大山鍛冶の鍛刀場所近隣は、大製鉄地帯だった。
だが、広島県の製鉄というと、県北東部のエリアのみが注目されて
研究が進められている。現代刀工たちもそちらにばかり注目している。
安芸国と備後南部の古代~中世製鉄はほとんど空白地帯・空白時代
のようにぽっかりと専門学術研究の手がつけられていないエリア
なのである。つまり、お宝は今でも眠っている。
鉄や金に鉱脈があるように、実は地図を俯瞰すると、備前から備中、
備後、そして備後と安芸の国境の三原、さらに大山を抜けて周防の
二王に至るラインは、産鉄刀剣製作ベルト地帯であることが地図上
の配置から看取できるのだ。
しかし、そのお宝ベルトラインは、東端の備前と西端の二王の研究
以外、まったく刀剣界でも手つかずの状態なのである。備中鍛冶の
青江の場所がどこかさえまともに比定されていない。青江は現在の
倉敷市の水江だろうとは思われるが、学術的な定見を我々は今もって
得てはいないのである。
(安芸国大山鍛冶の鍛刀地と周辺製鉄地)
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大山宗重には二系統の作柄がある。
一つは私の宗重のように、大肌物、来物のように見える直刃調
小乱れで匂い口が締まる物で、二王によく似ている。だが二王
のヘラ影のような物は映らない。主として戦国最末期の作者。
もう一つは、備前則光が直刃調ではなく寛正則光のように派手
な乱れ刃があるように、前代において直刃ではなく大乱れ刃を
焼く覇気ある作風の物だ。大山宗重も備前長船則光と同じく、
初期作は大乱れ物の作風を示す。
大山鍛冶の作品の多くは磨りあげられて「二王」と鑑定された
作がとても多かったのではなかろうかと私は読んでいる。これは、
安芸国大山鍛冶について刀剣談話で意見交換をした時に、美術刀剣
刀心の店主である町井勲氏もまったく同意見だった。
大山鍛冶は、旧山陽道の大山山中(現東広島市)にて最初は鍛刀
したとされているが、二代目以降は下山し、現在の旧国道沿いの
瀬野川地区(現広島市)に移住した。
鍛冶場跡からは鉄滓が大量に発掘されており、もしかすると自家
製鉄で鍛刀していたのかもしれないが、近隣にはたたら製鉄もし
くはたたら吹き製鉄の遺跡が集中しており、中世においてはここ
大山付近が一大製鉄地帯だったことを示している。
しかし、大山鍛冶については、学術的なメスがほとんど入れられて
いない。
近隣には、特定古式製鉄跡の地区もあり、そこは「別所」という
地名で、東北地方から強制的に俘囚の製鉄専門技術職集団を大和
王権が集住させて製鉄にあたらせた地区であるという伝承が残って
いる。いい加減な伝承ではなく、残存する古地名からもそれはほぼ
現実だったと推認できる。これは古墳周辺の「守戸」と非常にある種
似通った現代に至る民俗的な残滓を残している。
古代製鉄および国内統制史の解明の一端として、中世末期の安芸国
大山鍛冶が鍛刀したエリアは、研究すれば鉄滓ならぬお宝がわんさか
と発掘される地区だろうと私は感じている。とりわけ古代製鉄に
関しては、学術的な歴史解明に光明をもたらす素材が多数埋蔵され
ていると思われる。
旧山陽道沿いの安芸国大山鍛冶の鍛刀場所跡には、歴史案内の大きな
看板が建っており、私が史料として提供した私の大山宗重の全身
画像も綺麗に印刷されて表示されている(撮影:町井勲 氏)。
日本刀好きの方がお近くにお寄りの際は、是非ともお立ち寄りくだ
さい。
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私の大山宗重(広島県で現存確認の宗重18口目。昭和34年神奈川県登録)
銘「安藝國大山住仁宗重作 天正八年二月吉日」
(撮影者:町井勲 氏)
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