渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

暗殺剣  士の一族

2017年02月22日 | open


居合の剣は如何なる剣か。
一概に括ることはできない。
土佐英信流には、討ち取り対象を人混みの中に発見し、人混みを両手で
押しのけるようにかき分けて突進して斬り伏せる業が今でも残っている。
金正男氏の件もあるので、今これを書くのは生々しいが、あの暗殺と
同じような目的を達するためにその業はある。

日本には「本音と建前」という外国人には理解が及ばない精神文化が
ある。
武術の教義においても、現代武道の場において「この業は殺人目的を
完遂するためにこうやる」などという解説は一切なされない。
そのため、本当のことはオブラートなどという薄い物ではなく、深く
厚く押し包んで隠し、本質については語らずに健全な建前が述べられる。
だが、これを間に受けていたら、大間抜けも甚だしい。武術の根幹は
生きるか死ぬかの戦闘メソッドであり、いわば死闘の技術であることが
中核だからだ。
そして、武家政権時代にあってはそれが兵法の存在意義であった。

ある時、師に禅問答のように問われた。
「抜刀する時は如何なる時ぞ」と。
「己の命を守る時」と私は答えた。
答えは「否」であった。
師曰く、江戸期の武士は喧嘩両成敗であり、抜いた者は、どちらも
ただでは済まなかった。悪くすると切腹である。言いがかりをつけ
られてこちらが抜き受けても「不覚悟」とのそしりを受けることさえ
ある。
理非の問題ではない。現代感覚での現代人には到底理解が困難な、
武家には武家の独特の価値観がある。

昭和初期生まれの士族である師の言は妙に重たかった。
師は主家の家中に伝わる新陰流の目録を得ている。

而して、師の問いの答えとは、如何に。
解答は、「上意討ちなり」である。
主命を帯びた暗殺剣のみが抜刀斬殺の責を問われない。

師は言う。
敵の殺気を感じたら、避けるなり流すなり、外せばよい、と。
対峙状態において害意認知の後にこちらが行動してから殺ら
れる馬鹿な敵などいない、と。
また、「もたもたしていたらこちらが殺られてしまう」と明確に
師は言う。
居合はすべて「先(せん)先の先」であると、師筋の先達も言う。

そこで、師は更に私に問うた。
「こちらから先に仕掛けて相手を討ち取って、それで罪に問われない
士の状況とは如何なるものか」

まさに主命を帯びた上意討ちしかない。
繰り返すが、昭和初期生まれの士族の言は重い。
私は戦後生まれなので士族ではないが、師の言わんとする深いところ
は、痛いほどよく解る。
また、表向きの処世としての発表と、真の真の趣意は必ずしも同一
とはならない。
それを弁えないと、現代感覚のみに捉われた浅はかな武術解析と
なってしまう。

香具師が士族になれることは存在しない。これは、個人の力でどんなに
捏造で作り話を仕立てようとも、どうにもできない絶対事項であるから
だ。
士の流れに無い者は、本質的根幹部分になかなか理解が及ばないので、
詮無き捏造を設えて唯一の自己の拠り所としたいのだろうが、とにかく
よく嘘をつく。嘘をついて己の系脈に高貴性を後付けで付与させようと
する。この傾向性は捏造を専らとする者たちに共通している。それで
自分に箔がついたとでも勘違いしているのだろう。実は真逆であるのに。
士の流れに無きそうした者たちがその士の系脈の中に己がいると創作
したがる傾向が強いゆえに、捏造でっち上げが、士なき現代においては
あちこちでまかり通っているようだ。
江戸期には絶対に許されない(たぶん捕縛される)だろうことも、現代
社会においては武士が消滅したために、適当にでっちあげて私称すること
がまかり通っているのが実情だ。
また、事情を知らない多くの人々が、それに騙されたりする。時代劇の
創作物語が現実の我々日本人の過去であったかのような錯覚に陥って
いたりすることも多い。
だが、真実の士の歴史は、「即座に切腹できるか否か」というところに
こそある。
その心、現代においてコスプレ感覚で武士を騙る者たちにいかほど残って
いようか。残るどころか、真似っこだから、最初から微塵もない。人に対
し偉そうにしたいために過去の武士の存在を利用して集客しているだけ
なので、端から士魂などは一切存在してはいない。根っからのカタリなの
である。

漢字の原意で「吉」はなぜハピネスな文字とされるのか。
それは士が口にすること、つまり先生の教えである、と漢字の原意は
しているからである。
そして、本物の士の一族である私の師の言は、士に関する事柄について
とても重たい。
昨今流行りの、コスプレ感覚や、捏造僭称により自分が偉そうに人の
前で振る舞いたいだけの傾向とは全くの異次元に士の一族の精神性は
立脚している。

だが、こういうことは、ことさらに設えて演技しても致し方ない。
幼少からの親の躾と流れる血が士らしいか否かを大部分において
決定づけるからである。
付け焼刃や泥縄でどんなに武士を装って武士らしく見た目を取り繕おう
とも、ニセモノは贋物でしかないので本物ではなく、必ずチグハグで
頓珍漢な辻褄の合わない事が現出する。
だが、それは、真に士の流れにある者たちにとっては、無関係な縁のない
出来事なのである。


見解の相違

2017年02月14日 | open


(餅鉄 東北産)

先日の懇親会で製鉄および鉄器ならびに刀剣製作の話題となり、
私と刀工康宏師と刃物師左久作師との間で意見が分かれた。
概要を記すと以下だ。

私:超古代製鉄は赤色褐鉄鋼、リモナイト系(赤土を原料とする)
  →餅鉄→砂鉄。西暦1世紀頃の原初段階から国内では製鉄
  が行なわれていたが、炉の構造により風化が進行し、遺跡が
  発見されていない。古代製鉄は舶載鉄が主軸ではなく、当初
  から国内製鉄は行なわれていた。餅鉄から砂鉄への原材料
  採取の変化は、大陸半島情勢に起因する政治的要因(白村江
  の敗北)による準鎖国国風文化と国防急務の政治要件が一つ、
  もう一つは鉄鉱石探しよりも土砂流しによる砂鉄採取の簡易性
  が一つ。効率のよい砂鉄製鉄が主軸となった時期が教科書的
  には日本の古代製鉄の開始とする所以はそこにあり、まず砂鉄
  ありきのように設えられたが、本当は赤土→褐鉄鋼→鉄鉱石→
  砂鉄という流れが日本の製鉄の歴史だろう。
  鉄鉱石を使用した作刀例は、砂鉄時代に、失伝したかつての
  鉄鉱石原料からの製作を試みたもの。例:山浦真雄等。

康宏・左久作:餅鉄からの日本刀製作には疑問。実際には砂鉄を
  原料として作刀したのではないか。隕石から実際には作刀は
  不能で、砂鉄を主原料としてごくほんのわずか隕石内部の残
  量鉄部分を混入した物を隕鉄を原料とした刀剣であると言う
  ように、実際には餅鉄を刀剣の主原料とはしなかったのでは

まあ、本当のところは誰も分らないから研究者も現場の鍛冶職も
四苦八苦しているのではあるが、私の場合は製鉄を行なっていない
ので、あくまで民間研究者と
しての耳学問と自己思考の域を出ない。
ただ、実際に餅鉄と砂鉄からの小たたらによる自家製鉄において
鉄の生成の歩止まり具合までデータを取っている備前鍛冶も現に
存在するわけで、餅鉄が刀剣材料になることは私は疑う余地はない
と思っている。餅鉄から刀剣ができないというのであれば、存在
する餅鉄は、ではあれは一体何の為に採取された物であるのか、
ということにもなりかねない。
そして、製鉄の際の歩止まりの問題(製鉄自体は餅鉄のほうが
歩止まりがよいが、原料の量確保としては採算性が悪い)もある
が、そもそもが餅鉄も砂鉄も同じ磁鉄鉱であり、乱暴に言えば、
餅鉄状の物が風化したのが砂鉄、固まったままのが餅鉄とも
いえる。本質的には同じ物だ。

餅鉄はそのまま丸ごとおにぎりのような状態で炉に放り投げても
還元はしない。砂鉄状にサラサラになるまで粉砕してから炉に
入れないと還元して鉄とはならない。
その加工工程を一気に省けるのが砂鉄の存在であり、砂鉄の発見
とその砂鉄製鉄の技術は、効率性において中央権力はどうしても
手中にしたくてしかたなかったことだろう。ゆえに、古代における
日本国内各地での衝突が発生したし、各地で行なわれていた製鉄
技術の争奪戦が繰り広げられたと私自身はみている。
実際のところ、砂鉄製鉄が主軸となり、国内のその技術をほぼ掌中
にした時期が「日本の製鉄のはじまり」と歴史教科書では謳われて
いるのではないか。日本の製鉄の開始が6世紀だなどというのは、
各遺跡等の関連から考えにくい。
また、私自身は輸入鉄主軸で日本の古代鉄器が作られたという説
には否定的だ。刀剣においても、舶載鉄が古刀時代の主軸をなした
という説は完全
に私は否定している。そういう意味では九州の刀剣
研究者の大村氏の説には真向から
対立する。
しかし、従来にない視点で鋭く斯界にメスを入れ、可能性の問題と
して多角的に研究されている立脚点に感服するので、その研究姿勢
に敬服して説の展開に注目している。固定的観念の呪縛に絡め
取られた金太郎飴はもう沢山、という感慨があったからだ。


私自身の所見としては、赤土→褐鉄鋼→餅鉄→砂鉄というものが
日本の国内製鉄の歴史的流れであり、とりわけ磁鉄鉱を主とする
段階で国内製鉄の基礎が固まったというものだ。
また、歴史的民俗学的見識としては、日本における「赤=朱の文化」
という
ものは、南方系文化の移入であり、原初的な系統に属するの
では
と踏んでいる。丹と朱は切っても切り離せず、ベンガラが支えた
超古代文化、というものを私は見ている。日本における、赤系の
神社、白系の神社の違いは、そのまま超古代の赤文化と中央集権
を狙う派の拮抗を引きずったものではないか、と。
それは、とりもなおさず、製鉄の技術を巡る衝突の歴史であった、と。


ただ、こうした論は、きちんと学術的なところで研究資料を添えて
論証しないと、単なる個人的所見にとどまり、「床屋政談」の域を
出ないことは確かである。

話が逸れるが、たたら製鉄ではない現在の酸素を大量に送り込んで
造られた日刀保の永代たたらによるたたら吹きによってできた鋼
でも、充分に丈夫な日本刀は造れる。日刀保鋼のB2からでも、
造り方によっては斬鉄剣を造ることができる。
これは原材料がどうであるかに完成刀剣の抗堪性が起因するの
ではなく、工法が鋼の質を適正に引き出していることになるだろう。
原料を変えれば完成品が変るのは簡単なことだ。難しい鋼よりも、
古鉄の卸鉄を使えば、作品はより一層古色に近づく。そこに現行
方式ではない製法(推測的な中世工法)を投入したらさらに古刀に
近づく。
だが、古刀に肉迫することと刀身の抗堪性を同時に付与させることは
なかなか同一線上には並ばない。どうしても現代刀工が行なうのは
「再現」という領域に属するため、どれが本当の数百年前の材料と
工法なのかは確定されていないからだ。
古刀が新刀よりも抗堪性が高く、さらに見た目も鉄質が新刀と古刀
では違うことはこれは動かし難い事実であり(一部寒冷地での例を除く)、
このことは原材料と製法のダブルの違いによるものであることは明らか
だろう。
現実に慶長期を境に、ガラリと鉄質が異なるのであるから、それは、
原材料が違う、作刀製法が違う、原材料と作刀製法が違う、という
三種のいずれかの理由によるのは確定的だ。
また、製法についても、材料が違うから製法を変えたのか、製法を
時代的な軍需要求によって変化させざるを得ないために変えて、
それに材料の製造法が呼応したのか、これは卵と鶏のようで、どちら
が先かは不明である。
だが、その不明こそが、日本刀の鉄質の変化の理由の根幹を形成
している。
ただ、いえることは、日刀保の現在の鋼からでも抗堪性の高い刀剣を
作出することは可能であるし、現に藤安将平が日刀保鋼から斬鉄剣
を造っている。これは明らかに工法を変えて鋼を別な方法でまとめて
いる系統に属する。

一つの共通する鍵は「温度管理」と「鍛造過程における酸素量」の問題
であることは間違いないないのだが、まだ定式化は誰もできていない。
確定的事項として断定できるのは、「同じことをやっていては同じ物しか
できない」ということだ。
現在の刀工試験等で行なわれる「伝統技法」は、固定的な江戸期幕末
の一時期から発生した技法を「伝統技法」と規定しているので、その
方法で作刀したならば、その時代の刀の再現しかできない。これは
確定的な事柄だ。砂糖を入れれば料理は甘くなる。
だが、砂糖を入れなくとも素材の甘さを引き出すことにより、本来の
料理の甘さを出すことは現実として可能である。可能であるどころか、
それこそがそもそもの料理における甘味=旨みであったことであろう。
しかし、刀工試験は「決められた事」をこなせないとならない。
英語の入試においてフランス語で解答したならば、それは解答とは
ならず単なる回答であり、いくらフランス語が出来ても合否判定としては
不合格だ。刀工試験は試験科目で「決められた事」で合格点を取らなけ
ればならない。
「大学生になる」ということは、まず大学に合格しなければならず、自主
研究で専門分野を学術的に研究者として深めるのは、まず学籍を取得
してからなのである。
日刀保の鋼よりも自家製鉄の鋼のほうがまとめは簡単なのであるが、
扱いが難しい日刀保の鋼を刀剣にまとめることにはとても意味がある。
それは「固定的一時期の工法にしかすぎない」という相対的な所見を
凌駕するほどに意味がある。
刀工になるには、まず刀工試験に合格すること。
そのためには、現在の刀剣界の先達たちの技法をくまなく学び取ること。
その技法を受験者という稚拙さはあるにせよ、合否判定で合格ライン
まで学習して実力をつけること。これしかない。
「守・破・離」なくして創造は生まれないが、まず最初は決められた事を
こなせないとそこから羽根が生えることもできない。

現代刀鍛冶がすべて優れているのは、作刀に関して、そうした基本的な
事柄をすべてクリアした「資格を持つ者」であることだ。
ただし、これは「作刀に関して」のみであり、「作刀できる者(合法的に
許可された者)」としての一面だけにおいて「優れている」のである。
たとえば大卒者がすべてにおいて学術的見識が深いのかというとそう
ではない、というのと同じで、刀工資格を持っていても鉄や作刀について
見識の低い人もいるだろう。
また、変りようがない人柄というものもある。刀工資格は、あくまでも運転
免許と同じであるだけだ。
それを勘違いして、偉そうにふんぞり返っている現代刀工も実に多いの
だが、そういうのは備後弁では「タコのくそが頭にのぼっている」と言われ、
相手にされない。相手にされる狭い世界でしか通用しない。資格の有無
以前に、人格の問題なので、資格の有無は一切関係ない。
人間的に嫌な奴は、一生嫌な奴のままで人生を終えるものだ。
ただ、そうしたスカ人間が造る作品がスカかというと、これは必ずしも連動
しない。ファシストが演奏する曲が素晴らしいこともあるのが人の世だったり
もする。作品は作品として独立して存在している。
だが、見えることもある。
作者のえげつなさが作品に顕れてしまうこともある。
これは料理も同じで、感じ取る人は感じ取っている。


備後三原城 後藤門

2017年02月08日 | open



復元された三原城後藤門の一部。






江戸期の図によるとこれ ↓


江戸期の図というのは上面
鳥瞰と側面を一次元でベタッ
と描くので、かなり
分かり難
い。

そこで、私がサクッと描いて
みた立体図はこれ ↓

少しはイメージが掴めるかと
思う。
ただ、この造りだと、雁木
(階段)を上って門を通らず
に向こう側に飛び下りてしま
う事ができる。身体能力があ
る者であったなら。
だが、通行規制はこの後藤門
の東にある大手門で武家地へ
の通行規制ができるのでこう
いう作りなのだろうか。
城郭には私は詳しくないので、
私には意味不明。
以前、この日記で記載した城
門のところは坂であったかも
知れないというのは誤りとい
うことになる・・・のか・・・
いや、違う。坂だ。
なぜならば江戸期の図を見る
と門の東側のGLは門の西側に
較べると低くなっている。そ
れは堀の水面から露出した石
垣の高さを見ても一目瞭然だ。

となると、この識者が描いた
復元図はちぐはぐなことになる。
 ↓

私の立体復元図のほうが正し
くはないだろうか。
城郭研究者ではないので、詳
しくはないのですが。
江戸期の絵図を読み解く限り
においては。

いや、これまた早計に過ぎる。
なぜならば、「断面図」と書
かれているだけで、グランド・
レベルについては記載してい
ないからだ。
GLを描き入れたら、このよう
な図になるだろうと思われる。↓


工事中の貴重な写真がこちら。
昔の道の上にどど~んといろ
いろ住宅が立ち並んでいた。
それを退去して工事を進めて
いるところ。


退去後の復元工事中の後藤門。
現在は道路に段差を設ける訳に
はいかないので右側(東側)を
土盛りしてならしているが、江
戸期の図では明らかにこの右の
低い石垣の上が街道のGLだった
と思われる。あくまで乏しい図
からの推測ですが。
あえて段差を設けて、スッと通
りぬけできないようにしたので
はなかろうか。


(江戸期の地図の復元写し)


(三原城復元図。各部がかなり
正確に描き込まれている)


門の復元想像図は、これを参考に
したと思われる。
城内西築出の作事奉行所の門が城
下西町の順勝寺に移築されて現存
している。寺の管理は杜撰の一言。
どんどん朽ちて行き、門扉などは
外れたままで放り投げている。






重要文化財であるのに、打ち
捨てられたままの状態である。
この寺の前は通勤路だが、毎
日見るたびに「捨てるのなら
門扉の鉄ほしいなぁ」とか思う。
でも重要文化財だから私物化
は駄目っす。
きちんと保全修理するなり、
三原市はなんとかしてほしい。
だが、1567年に三原城杭打ち
から450年経った今、ようや
く、城まわりがやっと整備さ
れたに過ぎない。これからだ
ろう。

今回復元された廣嶋海道(江
戸期山陽道)の道路は、「三
原城跡歴史公園」と名付けら
れたらしい。発掘調査は数年
前から行なわれていた。いろ
いろな成果があったようだ。


写真右に見える正面の横長
の建物は、明治期の女子師範、
現広島大学教育学部附属三原
学園(幼、小、中)である。

広島大学附属は地元では「ふ
ぞく」と呼ばれている。幼稚
園から中学校まで、一緒に運
動会を行なう全国でも珍しい
学校で、情操教育に力を入れ
ている国立校だ。
入学試験は時の運だ。3歳時の
適性検査と「くじ引き」だ(笑)。
そのくじは、当選確率に変動
が生じないようによく考えら
れたくじとなっている。

広大附属三原学園には高校は
開設されていないので各自独
自に高校受験をして高校に進
学する。詰め込みではないの
びのび教育が良いのか、卒業
生は後に東大・京大の国立大
をはじめ難関私立大学にも多
くの卒業生が合格している。
この広大附属三原校について
も「あんなもんはいらんじゃ
ろう」と潰そうとする動きが
市民の中にもある。それ三原の
現実。

明治28年(1895年)頃。


ほぼ同方向を見る。平成29年
(2017年)。


お近くにお越しの際は、ぜひ
お立ち寄りください。
な~~~あんにも無いところ
ですが。
城の真上に鉄道を敷設して、
本丸の真上に駅を造ったとい
う、全国でここだけという明
治維新の明治新政府の破壊行
為がつぶさに見学できます(笑
城の真上が駅。こんなとこ、
ほんとに全国でも無い(笑

東京は汐止め(今の新橋)から
品川までは、やはり土地が無い
ので(というか市街地なので退
去不能のため)、何をやったか
というと、なんと海の上に線路
を造ってしまった。
東京は江戸の頃から先進地だっ
たけど、明治維新後もやること
大胆。


こうして三代目広重あたりが
描いてくれてるから百数十年後
の今でも当時の様子を知ること
ができる。


つい10年ほど前まで日本の坊主
以外の男子全員が丁髷で侍たち
も刀差して歩いていたなんての
は信じられないね、こういうの
見た日には。新東京市民も驚い
たことだろう。
なんての?1960年代にいきなり
スマホが現れたくらいの感じだ
ったんじゃない?


日本では、風車に突進するドン・
キホーテみたいな間抜けはいな
かった。
意外と新し物好きというか、順
応性高いみたいだ、日本人。
ただ、この明治時代の一挙的な
先進国化での列強の仲間入りが
その後大きな勘違いしちゃうん
だよな。
この東京は丸焼けになっちまっ
て、焦土と化し、人が10万人焼
け死んだ。人類史上最大の空襲
による大虐殺が「正義」の名の
下に行なわれた。

(東京。昭和20年-1945年)


戦争を賛美したり、戦争を推進
したりする奴は、こういうこと
も正義にしちゃうんだな。
今も同じだよ。
あたしは、この15年後にこの街
で生まれたけどさぁ、ほぼ戦後
の復興は完成しつつあったけど、
よく15年やそこらで復活したと
思うよ。
今でも都内では、新宿のゴール
デン街が、戦後の闇市やバラック
の雰囲気を保っている。




中心(なかご)の形状

2017年02月06日 | open


左永正時代。右天文時代。

いくら刀は片手刀法が基本だとはいえ、末備前刀というのは
もう少しナカゴを長くしてもよかったように思える。
ただし、この末備前独特の尻の張ったナカゴ形状は、それ
なりに意味があったのだろう。それでも鉄砲伝来以降あたり
から、刀身の延長と共に末備前はナカゴの寸法も伸びては来る。

相州系は初期末備前物とは逆に全体が長く、そしてナカゴ尻が
細く
なっていく形状が多いが、それもそれで何らかの製作意図
あったのだろう。そこには何らかの設計思想があった筈だ。

末期の末備前のようにナカゴ尻が張ったまま全体を長くした
作域の刀工群もいる。
周防国の二王派などはその典型ではなかろうか。

太刀目釘穴があけられているため、打刀を見慣れていると
まるで磨り上げた刀身のように見える。刀銘であるのに、
太刀佩きとして造られたという過渡期的な時代の作で
あろう。元祖斬鉄剣、二王。火事の際に鎖を断ち切って
仁王像を逃がしたという伝説があるが、もちろん童子切り
やニッカリと同じ脚色であろう。
無名の安芸国大山鍛冶は筑州左の末裔と自称してはいるが、
個人的には、地域的な連綿性から、安芸国大山鍛冶は周防国
二王や備後三原鍛冶との技術的な交流があったのではと読ん
でいる。安芸国大山鍛冶の作風は極めて二王に近い。
ただし、これはナカゴ以外の上=カミの部分について。ナカゴ
は末備後刀に酷似している。また末三原にも大山鍛冶の刀身の
作風は酷似している。
美術刀剣界では、無銘極めの際に、出来が良い物は二王とし、
出来が悪い物は三原にしてしまう「三原逃げ」と呼ばれる習慣
がある。
だが、実は、磨り上げられた大山鍛冶の作の多くは、「末三原」
と鑑されてしまっている事も多いのではなかろうか。
私が実見し、手元に預かって詳細に見た大磨り上げ無銘古刀で、
どこをどう見ても私の大山宗重とまったく同じ作者の手筋と観え
る刀があった。地鉄の質、鍛え肌の特徴(単に鍛接肌ではなく、
刃寄りや鎬よりの鍛え目の特徴等)、刃の造り込み、全体像等
どれを取ってもまったく同一作者としか見えない作を実見した。
数十時間毎日見較べて精査した結果、私の見える鑑識眼の範囲では
その古刀と私の宗重は同一作者に観えた。眼前の二作は、いずれも
大山住宗重延道彦三郎の作であろうと。

その無銘の刀は、たぶん鑑定に出したら「末三原」とでも紙が付け
られてしまうことだろう。刀剣界中央は在野の安芸国大山鍛冶など
のことは知らないし、興味がないので、「三原逃げ」をすること
だろうと予想される。

安芸国大山住仁宗重作 天正八年二月吉日(撮影:町井勲氏)
私の差料。




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戦国期の安芸国大山鍛冶については、地方の無名鍛冶ゆえ
刀剣界では一顧だにされていない。
私は、大山鍛冶が「住人」ではなく「住仁」としたのは、
二王=仁王との関連性なり技術的な連綿性を銘に残した
ダイイングメッセージのように思える。
そして、こじつけではあるが、仁王はアナグラムのように
逆転すると王仁=ワニとなる。(私のハンドルの渓流=keluは
うちの初代ポチ1号であるlukeのアナグラム。ルカの福音書
の英語読みのルークである。最初の息子が亡くなってしまった
時に飼いはじめたその犬の名は、犬種名も併せて「地を走る
騎士たれ」として Luke Landwalker と名付けた)

日本の歴史上、ワニとは和仁=和邇=和珥=丸爾のことで
あり、古代産鉄氏族であった。
因幡の白兎が数比べをしたのは鮫であるが、山陰地方では
鮫の事をワニと呼ぶ。因幡の白兎はワニと数比べをしたと
されている。
そして、なによりも、白兎がなぜ数比べをしたのか。
それは、対立するヤマト系と在地先行渡来の産鉄技術者の
勢力を比べ競ったことではなかったか。
ワニ氏は西暦1世紀乃至2世紀に太陽信仰と共に製鉄技術を
日本にもたらした渡来系氏族であるともいわれる。
ワニ氏は、のちに春日氏となり小野氏となった。小野氏以降、
ヤマト政権においては主として大陸との外交官のような役職
に就くことが多かった。

そのように、歴史の伝承譚と氏族の系譜を俯瞰すると、手元に
ある住仁宗重がなぜ私のところに突然やって来たのか、ただ
ならぬエニシのような歴史の運命のいたずらを感じる。私の
血脈のルーツは小野氏であるからだ。つまり私はワニ一族で
ある。私の血の中にはワニの血が流れている。
なぜ私も父も祖父も(その先は知らない)、異様に鉄に執着
したのか不思議だったが、ワニなればと思えばそれとなく得心
がいく。
私の幼い時の「丸い石を必ず拾って持ち帰る」という自分でも
何だか意味が解らない奇癖は、それはDNAの記憶に刷り込まれ
た鉄鉱石探し、古代の餅鉄探しの血脈の癖だったのではなかろ
うか。
とここまで行くと、妄想族の仲間入りなのでやめておこう。
ただ、言えていることは、私も含めて、父も祖父も、何故か
意味は分からないが「鉄」と「刀」に異様に執着していた。
私が幼い時には、父は「銀色に光る溶岩」のようなタタラ鉄を
白いレースの敷き物の上に置いて崇めていた。そんな家庭など
周りを見ても一軒も無かった。
私は「何だ?この光ってる溶岩、磁石がくっつくぞ」とそれで
遊んでいた。父に見つかるとこっぴどく叱られた。幼い私は
意味が解らなかった。それが刀の材料であることは、もう少し
私が大きくなった頃に教えられた。

旧山陽道ぞいにある中世末期の安芸国大山鍛冶集団の鍛錬場所に、
説明看板が建てられている。刀身画像は私の宗重。中国新聞でも
私の取材所見と共に紹介された。私も多少なりとは地方の歴史
研究と広報の役には立っているようだ(苦笑
刀身画像は町井勲氏が日本刀を多くの方に知ってもらうためにと
無償で撮影をしてくださった。



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芸術作品

2017年02月05日 | open

(最近料亭に行ってないぞ、
という話の続きから)

料理って、正直でね。

値段じゃないのよ。
いくら高くても「ふざけるな
よ」と思うような味の店は結
構ある。

砂糖づけでベッタベタの日本
料理なんて最悪だよ。

魯山人は「美味しい物を食べ
るのではなく美味しく食べる」
言ったが、そもそも不味い
物は不味い。

魯山人先生は、不味い物を食
べたことがなかったのでは、
と(笑

でもそれはないか。士族の生
まれだが、時代の中での苦労
人だし、
貧乏も相当経験して
いる。家族関係などは、出生
の時からして不幸の極みだし、
その後の幼少時代も、その後
も、不幸としか云いようのな
いような時間を彼は過ごして
いた。

しかし、芸術家として世間に
認められた後は、超一級の傲
岸・傲慢・不遜・狷介・毒舌
ぶりで他者を罵倒
し続けたた
め、自身が顧問だった永田町
の高級料亭星岡茶寮から
追放
されてしまう。

どこかのモノカキ崩れみたい
だが、魯山人は器が違う。

ただ、思うに、やはり家族愛
に乏しい環境では、人間どう
してもとことんまで歪んで

まうのかと魯山人を見ている
と思わずにはいられない。

寂しい人だったのだろうなぁ、
と。


と、日本の陶芸界を牛耳って
いる銀座の某陶芸店で魯山人
作の
ぐい飲みが売りに出され
ていた時、逡巡したがそのよ
うな感慨が
ふと頭をよぎり、
買わなかった。

30万円のぐい飲みだったが、
さて、魯山人は生きていたな
らば、
それを安いと言ったか
それでよしと言ったか。

1/3程の金額の細川護煕氏が
作ったぐい飲みのほうが私に
は遥かに
心に伝わるものがあ
ったのは確かだ。

不東庵細川氏のぐい飲みは、
一風なんの変哲もない粉引の
ぐい飲み
だが、酒を注ぐと底
に沈んだ葉の文様が酒の中で
ゆらゆらと揺れて
浮かび上が
ってくるという名作(私にと
って)だった。

歴史に後世まで残る日本刀の
肥後拵を考案した芸術一族の
血を
そこに見た。
心のゆとり。ゆとり教育など
というまやかしではない本当
のゆとり。

それは経済的な裕福さではな
く、何か人的な潜在意識の中
に潜む
ある種の個人的なモラ
トリアムのようなものなのか
も知れない。

私は細川護煕氏の作にそれを
感じた。

魯山人の作品は、申し訳ない
が、鬼気迫る何か「いや~な
もの」を
感じたのだ。そんな
ぐい飲みで酒を呑みたくはな
い。

芸術作品としては良いのだろ
う。だが、そこには「呑む人
のことを考える」
という心は
微塵たりとも感じられなかっ
た。人間疎外を体現した物品
は、
たとえどんなに優れた
「芸術作品」であろうとも、
それの空気に触れて、
それを
媒介として飲食をする、とい
う気にはなれない。

人が作る作品には、作者の人
となりというもの、換言すれ
ば、人を大切
に思わない傲慢
さを心的内面に満たしていた
ならば、それが必ず作品
に出
るものだ。

私が魯山人のぐい飲みに感じ
た「いや~なもの」というの
は、多分それ
だろう。
故に、自分の選択肢として、
魯山人のその作とは縁を結ば
なかった。
ただ、「魯山人倶楽部」が作
った醤油は抜群に美味い。私
は醤油マニアだが、あの醤油
にはガツンと一発食らわされ
た。よくぞこのような醤油を
造り上げたと涙がこぼれるほ
どだった。
食の味を解す人にその醤油を
贈った。「なにこれ?・・・」
と絶句していた。
あれを超える醤油を私は未だ
知らない。


(細川護煕氏が作ったぐい飲み)