渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

日本刀保護の代用油 ~バルブオイル~

2013年11月14日 | open


(出錆の原理)

日本刀保護には大気と刀身
表面の接触をシャットアウ
トする刀剣油が
欠かせない。
観賞用の刀は、表面に不動態
皮膜が形成されているので防
錆力が
高く、頻繁に油を引き
換える必要はない。
不動態が形成された刀身は油
を塗らなくても錆びない程だ
(例:江戸期の平和な時代の
抜刀をほぼしない武士の刀。
日常的に帯刀する塗り鞘の
中の刀身は油をほとんど引い
ていなかった)


ただし、これが頻繁に抜刀・
納刀を繰り返す武用刀の真剣
となると話は違ってくる。

武用刀は必ず錆びる。これは、
どんな刀でも100%錆びる。

錆といっても真茶色の赤錆は
あまり出ない。

最初薄曇るような感じで変色
し、それからどんどん薄黒く
錆びて行く。

これは、たび重なる納刀や
試斬による摩擦で、表面の
不動態が除去
されて刀身が
直接大気と触れるため、化
学反応を起こして錆が
形成
されて行くのである。

実用刀剣の防錆のためには、
使用後に手脂を完全に除去
し、保存油
を刀身にまんべん
なく塗布して大気と遮断する
ことが必要だ。

できることなら白鞘を休め鞘
として、白鞘に刀身を入れて
保管することが
望ましい(武
用刀の柄はむしろ何度も脱着
しないほうがよい)。


刀剣専用の油は各職人がオリ
ジナルの油をリリースして販
売している。

私が最もおすすめするのは
太田商店謹製(銀座刀剣柴田
で販売)の
専用刀剣油で、こ
れは国立博物館刀剣室でも使
用されている。

一般的な刀剣油よりも粘度が
高く、皮膜が持続する。

次におすすめは藤代製だが、
未確認だが、これも実は太田
製なのでは
なかろうか。

だが、刀剣専用油には最大
の欠点がある。

それは、成分表示がないため、
瓶などの容器であっても、航
空機に持ち込みが
一切できな
いことだ。手荷物でなく預け
荷物でも積載を拒否される。

厳密にはネルなどに染み込ま
せた刀剣用の油も、航空機の
保安上の問題から
持ち込みが
拒否される。成分が不明であ
るから、安全管理が厳しくな
った2013年現在
では、これは
致し方ない措置といえるかも
しれない。


ではどうしたらよいか。
それは、成分表示が明記して
あり、かつ、航空会社の規定
に沿った油である

ならば、適量に限り運搬がで
きる。化粧品の椿油や化学合
成油も規定量まで
なら預け荷
物で運搬できるので刀剣と一
緒に預けるのがよいだろう。

ちなみに銃砲刀剣類は厳重な
大型ジュラルミンケースを
航空会社が用意して
くれる。
当然美術刀剣は預け荷物で
運搬ができるし、実銃と実包
(5kgまで)も
預けて運搬す
ることができる。


そして、航空機での運搬可能
な刀剣用に使える油を私はか
ねてから物色して
いたが、実
際に刀剣に使ってみてすこぶ
る防錆効果が高いオイルとし
て、
管楽器用のバルブオイル
がマッチすることを発見した。

一般的な刀剣油よりも伸びが
よく、かつ防錆効果も高い。

私が使っているのはヤマハの
一番粘度が高いバルブオイル
だ。



金額は高級刀剣油よりもかなり
安い。

私は油で刀身を洗い流すように
して手脂を除去するので、防錆
油の使用量が
かなり多い。
噴射スプレー式の各種オイルは
有機溶剤が刀身の金肌拭いや刀
身自身に良い
影響は及ぼさない
と考えられるので使用していな
い。

まして、自動車用のルーセン
(CRC5-56等)はベースオイル
が不明であるのと
石油と有機溶
剤との混ざり物なので絶対に私
は使用しない。そもそも刃物に
CRCを
使用するのは厳禁という
のは刃物遣いの常識にもなって
いる。特に、つんつるてん
のナ
イフならともかく、折り返し鍛
錬をした鋼の打ち刃物にはCRC
は組織保護の
観点からも危険す
ぎるように思われる。石油臭く
なるのもCRCの欠点だろう。
CRC5-56は別な場面での使用を
前提に作られているオイルなの
で、製造目的に合った使用法が
適した使い方だといえるだろう。
例えば、CRC5-56をスチール
パイプの内部にスプレーして
そのままにしておくと、てき
面に錆を呼んでしまう。また
プラスティックに噴射したら、
プラの組織が崩壊してクラック
が入るのは有名だ。

ただし、刀剣油として、シリ
コンオイルに関しては、ティ
ッシュなどに吹き付けてから
有機溶剤を
飛ばした後に刀身
に塗布するのはある程度の防
錆効果はあると思われる。
エアソフトガンは実銃に比べ
て非常にデリケートであるの
で、私は内部機構の部位によ
り6種類の油(含むグリス)を
適宜使い分けている。本来の
メンテナンスというものは
そのようなものだと私は思っ
ている。ミシン油を注してお
けば十分に稼働してくれた
足踏みミシンのようなことに
はならない繊細なエアソフト
ガンの内部機構には、細心
すぎる程の注意を以て扱う
ように私はしている。
刀剣も同様に、油に関しては
厳選したいところだ。


管楽器用のバルブオイルはかな
り良いものがあり、各社が鎬を
削るように開発
して販売競争し
ている。

私がヤマハのバルブオイル(ビ
ンテージ)をテストで使用し始
めて1年が経過したが、
防錆効
果はむしろ一般的な高級刀剣
油よりも高い。

そして、なによりも良いのが、
極めて薄く伸びてべたつかない
ので、抜刀・納刀が
実に楽に
なることだ。

ただし、私はネルに染み込ま
せた古い油のまま刀身を拭う
ことは一切しない。

すべて、常に新品の油を揉んだ
ティッシュに垂らしてからそれ
を塗布する。

そうして1年テストした結果、
ヤマハのバルブオイルは一般
的刀剣油よりも
良好な結果が
出たことを体感した。

油としても良好で、価格も安く、
航空機にも持ち込めるのはヤマ
ハが宣伝して
おり、これは刀剣
油としてもおすすめです。


楽器関連メーカー各社から販売
されているバルブオイルの製品
紹介は
こちらから→島村楽器


(刀剣油は防錆という管理上の
問題が伴います。あくまで自己
責任でお試しください)



来(らい)派について ~日本刀~

2013年11月13日 | open

日本刀の歴史は、直刀という考古学の範疇を離れた「湾刀」の
発生から始まる。
こんにち、現存している最古の日本刀は伯耆国安綱である。
時代としては大同(806年頃)とされている。
しかし問題がある。
安綱と同時代とされる坂上田村麻呂の佩用と伝えられるタチ(重要
文化財)が京都の鞍馬寺に伝来しているが、表裏両面切り刃造りの
直刀であり、安綱の作とはかなり異なる。
約100年後の菅原道真や藤原秀郷の佩用タチ(重文)は毛抜形
太刀(たち)となっており、伯耆国安綱、その子の大原真守の作に
近いが秀郷佩用刀剣は透かし彫りの毛抜き形太刀であり、安綱より
古い。日本刀の祖とされる伯耆国安綱は藤原秀郷佩用の作よりも
ずっと後世の人間ということになる。

日本刀の場合、材料と製法にも見られるように、解明されていない
部分がとても多く、それを補完するものとして、得てして後世の創作
による「伝承」が捏造されたりすることが往々にして多い。
現代刀において「日本刀の伝統技法」とされている技法は江戸末期の
ものであることは明らかであることなどもその一例であるが、とかく
「後世の創作」を「歴史的事実」としたがる傾向が強い。
備後鍛冶の一派である「三原派」の末裔を自称するサイトが広島県内の
住人によって公開されているが、そこでは自身の先祖は三原鍛冶正家
であり、開祖正家は天平年間初期の人で、これは史実である、と公言
している。また、「かつてうちの先祖は肩で風を切って尾道の町を歩いて
いた」という自慢も忘れない。
天平年間(729~749)というのは奈良時代の最盛期である。日本刀は
まだこの世に登場していない。すべて直刀であり、大陸からの輸入品
もしくは国内鍛冶である確固たる作者名は明らかになっていない。
奈良時代以前の飛鳥時代というのは大和飛鳥の地で隆盛をみた仏教文化
が中心であった。推古朝から大化改新までを飛鳥時代と呼び、大化改新
から平城京までの文化を白鳳文化と呼ぶ。この頃の特色としては中国の
北魏文化と南梁文化が朝鮮三国(高句麗・百済・新羅)を経由して日本に
伝来したことだ。飛鳥時代においては彫刻や建築において法隆寺をはじめ
多くの寺院建立によって当時の政治政策と文化が形成された。
その後の奈良時代は、聖武天皇の平城京が中心となって興った仏教貴族
文化であり、平城京は唐の長安を模して作られ、794年に桓武天皇が
平安京に遷都するまで日本の首都だった。奈良平城京での特色は「大宝令」
が出されたことであり、これにより律令国家、天皇中心の中央集権国家の
建設が実質的に開始されたことである。

日本刀の歴史のみならず、日本の歴史で不明瞭な部分があるからと、
自身の先祖を奈良時代の「刀鍛冶」とウェブサイトで公言するのはかなり
学術的にも犯罪的な言動であるといえる。
なぜならば、そのような日本刀の開祖時代以前の鍛冶職についての
確固たる資料があるならばそれを学術界に提供すれば学問の真理探究の
進歩に多大なる寄与が存するところ、それを私して己の血筋自慢のために
利用するのみだからだ。
天平時代には湾刀である「日本刀」は存在しないし、当時の直刀の鍛冶銘
についての来歴は一切明らかになっていない。歴史学的・考古学的根拠なき
捏造は犯罪的行為である。
まして、日本刀発生の数百年も前の時代に自己の先祖を「刀鍛冶の祖」と
して設定するというのは、大風呂敷にもほどがある。
ただし、日本の歴史に無知だったり、日本刀のことをよく知らない人たち(ほとんど
の日本人は日本刀のことについて詳しくはない)にとっては、知らぬゆえ
そのような嘘を「真実」として信じてしまう危険があるので、インターネットと
いうものは誰でも簡単に観ることができて読めて聴いて等ができる便利な
ものだが、「読み手」の側に「読みとる力」と「真偽を判断する力」を実は
要求される現代ツールであることに注意する必要がある。

さて、日本刀は平安時代末期に「湾刀」として発生をみたが、日本刀の
鍛冶職はどこから技術を学んだのであろうか。
湾刀である日本刀が発生する以前からも日本国内には刀剣は存在した。
これは埴輪にもみられるように、古墳時代にも存在し、鉄剣や鉄刀が鉄器
として出土している。
古墳時代の鍛冶職の職域は「古代製鉄」や「古代」の「鍛冶/鍛人(かぬち)」
に関わるものであり、大陸伝来の技術体系であることは、考古学の世界では
ほぼ間違いないものとされている(倭鍛冶=ヤマトカヌチと韓鍛冶=カラカヌチ)。
韓鍛冶が古代の日本(という国号ができるのはさらに500年後であったが)の
製鉄という大鍛冶と刀剣製作という小鍛冶に与えた影響は計りしれないものが
あっただろう。
ただし、その弥生時代末期~古墳時代の韓鍛冶の時代から数百年後の平安
末期に日本刀が発生した時の小鍛冶である刀鍛冶の技術について、古代の
時代と同じように大陸・朝鮮半島から伝来したというのはかなり想定し難い。
なぜならば、平安時代末期の日本刀発生当時の大陸・朝鮮半島の鍛冶職が
日本に渡来して作刀
技術を伝承したという記録は見当たらないからである。
日本に大陸・半島の工業技術が伝来したのは平安時代より何世紀も過去の
弥生~古墳時代のことであろう。
ただし、大和王権(最近の歴史学では「大和朝廷」とは呼ばない。古代政権は
連合王権であり、天皇中心の「朝廷政治」が我が国で確立するのは平安以降
であることが明らかになってきたため)時代にあっても、奈良・平安の初期頃は
かなり大陸の文化を日本は導入していた。
日本という国号は「倭(わ)」という号を中国が使用していたのを日本側から
改めたものである。「倭」という号が実は「従属国」という意味を持つことを
どうやら大昔の倭人は知らなかったらしく、古代中国の属国であるとする中国の
柵封体制に甘んじていた。金印などの「漢の倭の奴の国王(別読みの異説あり)」
などは良い例だ。日本人たちも「倭」という文字に「ヤマト」などの読みをあてて
満足して
いたが、文字の原意の実体を知り、この列島はわれらの自国であると
いう独立心が
芽生えてからは、日本は国号を自ら太陽が昇る本の国であるという
「日本」とし、その旨を隋
に国書として提出した。

日本刀は、そうした日本の歴史の流れの中で、「国風的」な産物として、当時
すでに芽生えていた国意識を保有した「日本人」によって製作された。その形状は
世界に類をみない独自の形状と構造になっており、これは日本刀が武器として
昇華の発展過程をみたことを如実に表している。日本刀がそれまでの大陸伝来
のタチ(大刀、横刀)のような権力の象徴的装具としてのみの実体だったならば、
反りや衝撃緩衝装置である「毛抜き形透かし」なども登場していなかったことだろう。
ただし、平安時代の武士の登場と期を一にして地球上に登場した日本の刀剣=
日本刀の読み方は、太刀と書いて古来の「タチ」を充てた。新時代の幕開けが到来
しても古来の伝統をそこに重ねたのはいかにも日本人らしいといえる。
日本刀の歴史は武士の存在と密接な関係があり、武家が執った日本の国政の歴史
への視点なくして日本刀を「読み解く」ことはできない。武器としての一片のみ、
あるいは美術品や宗教行事の神器としての象徴性のみに偏る見方では日本刀の
存立過程と歴史的存在意義は読み解けない。

日本刀の大別は後世の研究者によって「古刀、新刀、新新刀、現代刀」に大別されて
いる。
さらに古刀(日本刀発生の平安末期から慶長年間以前の日本刀)については、
後世の研究者によって「五箇伝」という分類がなされている。
それは、刀鍛冶である刀工の技術体系の系譜ではなく、「大和、山城、備前、相州、
美濃」という産地によって分類する方法で、現在ではこの分類法によって日本刀を
整理して理解しようとするのが一般的な手法となっている。

日本刀に関する歴史資料としては京都の東寺子院である観智院所蔵の『銘尽』
(めい
つくし)の写本が現存している。
これは正和五年(1316)年に書かれた物を応永三十年十二月二十一日(1423)
写本した物で、「正和銘尽」の原本は現在のところ未発見である。
この写本は別名『観智院本銘尽』とも呼ばれ、現在重要文化財になっているが、
この書は
日本刀に関する最古の書であると同時に、日本における最古の美術史書
なのである。


インターネット時代が便利な点に、学術研究の資料の閲覧という点がある。
この重要文化財の『観智院本銘尽』原本は現在国立国会図書館の公開資料
アーカイブ
で全文を閲覧することができる。

国立国会図書館デジタル化資料 銘尽 写 応永30(1423)

全部で55ページあるので、すべてを紹介できないが、以下のような文書だ。










要するに鎌倉時代末期までの日本国内の主たる刀鍛冶を網羅した
現存する日本最古の「銘鑑」である。
この書は後世の日本刀研究者にとって大いに役立った歴史的な
書であるが、同時に、この書によって学術界では混乱も生じている
面も何点か存在する。

そのひとつに、京都来(らい)派の来歴に関する記載がある。
京都は山城国(やましろのくに)であり、京鍛冶の一派は後世において
「山城伝」と呼ばれる刀工群で類別分けされている。
しかし、山城伝といっても、期間は数百年にわたるし、山城国粟田口派
の一部は鎌倉幕府に招かれて相模国(さがみのくに)に移住し、後に
備前国の一派と共に「相州伝」を形成していった。
五箇伝はその区分けとは裏腹に、刀工の技術体系の脈流は各地に
伝播したり相互に技術交流していたことは記録からもみられ、これに
より、五箇伝のみに拘泥する日本刀分類の理解は限界性があること
が知覚されよう。

さて、来派は祖を国吉とし、その子もしくは弟子の国行(刀銘ではなく
確認される孫の通称名からしてたぶん国行は国吉の子か)、国俊、国光、
国次、光包、
了戒などの刀工を輩出した。
京鍛冶についてざっと説明すると、京鍛冶の祖は三条宗近とされ、
この人は永延年間(987~988)とされている。鎌倉幕府が武家政権を
開く約200年前の人だ。

(後世に描かれた三条小鍛冶宗近の伝説場面。狐の化身の
向こう鎚により名刀「小狐丸」を鍛えたとされる。狐は稲荷とも
関連する渡来系宗教の象徴でもある)

先述した尾道の自称「自分の祖先三原正家は天平年間の人」という
時代は、京鍛冶の祖=ほぼ日本刀の祖と同時代の三条宗近よりも250
年も時代を繰り上げており、いかに荒唐無稽かが知れよう。
宗近は「小鍛冶宗近」として謡曲でも有名であるが、実在の刀工で、
遺作も残っている。
さらに鎌倉時代初期に入ると、京都には「粟田口派」と呼ばれた一派が
登場する。
粟田口というのは日本の都である京の町の街道筋の一つのことだ。
京都に入るには七つの街道筋から入らねばならず、これは「京の七口
と呼ばれた。


そのうちの、三条宗近とも関係する三条口のことを粟田口(あわたぐち)
と呼んだのである。
私は個人的には粟田口派の作が一番好きではあるが、場所としての
粟田口そのものは街道の要衝としてのみならず、歴史的な重要な
意味も持っていた。
京都において、「粟田口」というのは江戸期には鴨川西土手に東西仕置
之場所がおかれていた。大阪の千日、野江、鳶田(とびた)などの地、江戸
小塚原、鈴ヶ森、板橋、長崎の西坂、横浜の暗闇坂などと共に「刑場」と
して幕府直轄地となっている。
古墳時代から、鉄剣が出土する古墳の周囲は墓守である「守戸」として
集落が形成された。これらはのちに為政者によって賎民階級とされ集団居住
させられていくのであるが、日本刀の刀工が古代カヌチからの連綿性を有して
いるのであるならば、刀鍛冶という職は、呼称が数百存在した中世賎民階級
の一つである可能性がかなり強い。古代においては鐡を制するものが覇者と
なったが、王権あるところかならず貴賎ありで、王権は中央地方を問わず、
賎民階級の存在抜きにしては存続が為し得なかったことは歴史的事実だ。
王族だけでは「王」は存在できない。支配階級は被支配階級がいてはじめて
支配階級足り得る。刀剣の場合、古代土師部と同じく鍛人部は「賎たる部民」
であったであろう。(土師(はじ)という呼称は恥であるので改姓を求め、「菅原」
が誕生した)
粟田口、三条に住した粟田口派という一派が江戸期の刑場設置場所のはるか
以前の土地であることと、要衝に位置するというのが何を指し示すのかは、
民俗学的見地からすると大変興味深いが、これの考察は後日にするとする。

京鍛冶は鎌倉時代初期の粟田口派から鎌倉中期には来(らい)派が登場する。
来派は隆盛をみて、各地に移住技術伝播をした。
南北朝の来派は摂津国(せっつのくに)に渡り、淡路来、中島来を形成していった。
一方、南北朝以降は来国村が九州肥後国(ひごのくに)に移住して延寿(えんじゅ)
派の祖となった。

この延寿の命脈はとても長く、直系は南北朝の頃から大正時代まで続き、大正
時代の延寿国俊が来派の門跡として存在した。
その後、直系の命脈は断たれたが、熊本県八代市の谷川盛吉が延寿銘を授かり、
その盛吉の子博光が延寿宣次を名乗って鍛刀していたが、谷川博光は平成初期
に残念ながら
病没し、来派延寿の名跡は完全に消滅した。
私は個人的に縁あって、盛吉刀工の死後、子息である延寿宣次刀工を訪ね、
鍛冶場を見学させてもらったが、まだ40代で若い宣次刀工(御子息は高校生だった)
がその後すぐに亡くなられるとは、その時には思ってもみなかった。
鎌倉末期の粟田口の時代から連綿と続いた名跡、幾星霜を駆け抜けた来派の
命脈は、平成の御代に入ってからポツリと突然途絶えてしまったのである。


鎌倉期の来派の作風は、鎌倉中期から鎌倉末期の姿をよく表し、総じて幅広で
反り高く、中切先が猪首(いくび)となり、中央が綺麗に反る鳥居反りとなっている
(国行のみ腰反り)。
地鉄は、小板目がよく均み(レンガ詰みではないので「均む」が本来は正しいが
一般的には「詰む」も常用されている)、地沸(ぢにえ)が一面について沸映りも
ある。
ところどころ「弱い」肌とされる大味の「来肌」が露出する。
刃文(はもん)は、直刃(すぐは)に小乱れや小丁子があり、備前物と比較すると
刃縁
の沸(にえ)が強いのが来派の特徴だ。匂い口(刃文と地の境)が深い作と
匂口が
締まりごころの作があるが、足・葉(よう)などの刃中(はなか)の働きは盛ん
である。

鋩子(キャップではないので鋩子が本来は正しい。ただし、「帽子」と一般的には
常用
されている)は直ぐに小丸もしくは乱れ込んで掃き掛けて小丸に返る。

来派の代表工は以下がいる。
注意すべき点として、開祖国吉から三代目とされる国俊は作柄の異なる点から二名説
があり、「二字国俊」と「来国俊」で分けられている。
余談ながら、私はこの二者説が中学生の頃からよく理解できなかった。同一人物に
おいて作柄の変化は
新刀角津田丸津田や江戸幕末の水心子の例をみるまでもなく、
あり得ることであるのを知っていたからだ。長曽祢興里でさえ初期と最盛期と晩年
では作柄がかなり異なることも知っていた。意欲旺盛な作者は、一ヶ所に留まらず
技術もただ旧習を墨守するのみではなくて、多くのトライをしていくのではなかろうか
という漠然とした感慨が13~14歳の私にはあった。
今思うに、「元寇」(1274年と1281年)の戦前・戦中・戦後をタイムリーに経験した
国俊が、刀剣のその作域において、時代的な変化が無い方がおかしいと思える。
物証はないが、私は国俊同一人説に心を寄せる。


○国行・・・・・国宝1点。重文14点。
○国俊・・・・・猪首切先、豪壮。弘安元年(1278)年紀の銘あり。重文7点。
○来国俊・・・国行、国俊に比して細身で穏やか。正応~元享(1288~1324)の銘あり。
        →俗名、来 孫太郎。国宝5点。重文6点。
○来国光・・・国俊の子(鎌倉末期~南北朝時代)。切先延びた南北朝太刀姿。来国俊
        より豪壮。
ただし、作風に二種あり。直刃+小沸が一つ。乱れ刃+沸本意が
        一つ。後者の
作風は相州伝の影響が考えられる。
        嘉元二年(1327)~観応二年(1351)までの年紀銘あるため、途中の貞和
        年間
年紀作と観応の作は二代目との説もある。国宝3点。重文21点。
○来国次・・・来国光の子もしくは弟子。沸が強い乱れ刃で来派の中では異色。相州伝の
        影響が
かなり濃い。国宝1点。重文4点。

上掲の『観智院本銘尽』にも来派の系図が記載されている。


来を「粟田口也」とし、国俊以降を「自是来 国派」(これより来 国派)と
している。「これ以降、来の国某(なにがし)派」という意味だ。
国俊が自ら「来 孫太郎」と名乗ったのは、国吉の孫であるからだろうと
思われる。

さて、日本最古のこの『銘尽』であるが、来派の来歴に関する記述が
後世において波紋を呼ぶことになった。
それは原本記載がこうあったからだ(現代文訳:私)


日本の古代鍛冶が製鉄の大鍛冶にせよ小鍛冶にせよ韓鍛冶(からかぬち)の
影響を受けたことは疑いようがない。
鎌倉期の来派については、鎌倉時代の史書の記載に「先祖の鍛冶高麗より来たる」
とあることが
「来派は渡来人」とする現在の主流説の根拠となっている。
ということは前頁に「粟田口也」としているから、粟田口の祖も『銘尽』では渡来人
であると示唆していることが類推できる。
ここで思い起こすのが、渡来系の宗教的化身である狐の助力で宝刀を打ち上げた
三条宗近の伝説であるが、ここではあえてそれについては割愛する。

これに対して、来派の祖が渡来人であるという史書の記述に異説を唱える研究者も
いる。説を吟味するに、かなり首肯できる
部分もあるのであるが、この「来派は渡来人
にあらず」と主張する方々の説の
背景には、昨今の南朝鮮政府とその国民による
日本に対する反日行為に刺激された
日本人による「嫌韓」が根強くあるように思えて
ならない。

現在の韓国の「何でも韓国起源説」は歴史捏造の最たるもので、キリストさえも
「韓国人である」とするに至っては、常軌を逸するなどという生易しいものではない。
現在の韓国人の理屈でいうと、地球人のホモサピエンスの先祖であるアフリカで
生まれた一人の女性さえも「韓国人」とさえしかねない。もちろん、韓国では日本の
天皇(日王)でさえも「韓国人」であるし、日本で活躍したスポーツ選手や芸能人は
全員が「韓国人」であるとするし、日本の歴史上の有名な人物は全員「韓国人」で
あるらしいし、忍者というのは昭和に小説家が作った造語であるのだが、忍者も
韓国がルーツで、無論武士は韓国がルーツとしている。(何故か日本から朝鮮に
「渡来」したトウガラシによってキムチが作られたことについては認めようとしない)

日本と日本人そのものも「韓国である」と本来はしたいのだろうが、そうなると
攻撃対象が消滅するので、それは言わないのだろう。「韓国から逃亡した犯罪者と
劣悪な
集団が日本人となったので、日本人は凶悪で卑劣な民族なのだ」という
ことを
本気で政府国民が一体となって主張しているのが現在の韓国だ。
日本に対しては謝罪を強く求めるくせに、自分らがベトナム戦争で30数万人の兵力
を動員してベトナム人を殺しまくり、ベトナム人の婦女子に対して為した残虐行為に
ついてもベトナムへの謝罪は一切拒否している。
歴史を捏造するように顔を造り変えることが美徳のような文化は日本からすれば
他国文化であるのでいざしらず、政治姿勢については、国際社会において韓流方式
の思考方法は話にならない。
だが、それら現在の韓国の無軌道ぶりを指弾することと日本における刀鍛冶の
歴史を厳正に見ることは別問題だ。


日本刀についても、当然韓国は剣道(これは明治末期に日本人が命名した新語)と
共に「韓国がルーツで日本人がその技術と人材を盗んだ」としている。
ここで、鎌倉時代の「来派」の問題が出てくる。

結論から言うと、「来派は渡来人に非ず」とする主張の説も説得力はあるのだが、
「嫌韓思想」に背景がある限りは、その嫌う韓国政府と韓国国民と同じ精神的バック
ボーンとなり、説以前に存立基盤そのものに絶対矛盾を生じさせる。
歴史解釈は一方的な感情的愛国心やその類のものを出来得る限り捨象して科学的な
メスを入れて行かないとならない。その「意志」こそが学問の中立性と公正妥当性を
担保する。
日本刀研究においては、他の古代史や中世史の学術研究と同じく、「嫌韓思想」は
自ら排除して冷静で中立な位置に立たないと研究などできない。
鎌倉期の来派については素直に原本を読めばよいと思われる。
『銘尽』に記載されているのは、「先祖の鍛冶」なのである。来を名乗り始める国俊
の三代前の祖父である「国吉」を渡来人と呼んでいるのではないのではないか。
ずっと遠い先祖のことを「高麗(こうらい/こま)からの渡来人」としているのでは
なかろうか。

さらに重要なことは、日韓併合以降の日本人が持つ朝鮮人観のようなものが果たして
日韓併合以前に日本に存在したのかということがある。
茶器においても、高麗物(現実には高麗国時代の物ではなく李氏朝鮮時代の物で
あり「朝鮮製の舶来品」という意味)が戦国末期には珍重され日本の国宝のように
扱われた。井戸などはその最たるものであり、「一井戸、二楽、三唐津」と日本人に
よって珍重された。茶器に拘わらず陶芸の世界では朝鮮の技術をないがしろには
絶対にできない。ただし、朝鮮には喫茶の文化が存在せず、日本人によって茶器の
世界では高麗物が高みに上げられた。それは戦国末期安土桃山時代に「ゆがみ」
の文化への価値観の変化となって具象化していった。
また、
江戸期の幕府への朝鮮使節を日本人は外タレが来るように歓迎した。
使節団のマナーが悪かったりとの記録もあるが、それを引用する連中は「嫌韓」感を
読者に煽るために引用しているので引用の仕方に作為が存する(大抵軍国主義者や
偏頗な国粋主義者が引用している)。
また、中世からさらに時代が上る古代~飛鳥奈良平安時代においては、日本への
大陸半島の影響は多大なるものがある。古墳から出土する古代鉄剣の環頭大刀
(かんとうたち)は大陸からの伝来品であろうし、その後日本に学問や仏教や建築技術
をもたらしたのは大陸文化を継承した朝鮮半島からの渡来人であった。
渡来人と一言にいうが、弥生時代末期から平安時代にかけて、圧倒的数の人間が海外
から渡来しており、使節団が来たとかいう類ではなく、民族大移動ほどの人間が渡来
している。
日本の古代王朝にあっても、百済や高麗との血脈的関係は否定できないものがあり、
そうした日本国内で渡来人が日本の中央権力に血脈的にも入り込んで複合的に
倭人と混血となって「日本」を形成してきたという社会背景を鑑みれば、渡来人(帰化人)
などは「忌避」するものでも、嫌韓という感情が生じることでもなく、むしろ「先進技術者」
という感覚が古代から中世までは日本人の中にあったのではなかろうか。
少なくとも、江戸期には朝鮮人を毛嫌いする感覚は日本人には存在しなかった。
(個人的には「渡来人」よりも、渡来しただけでなく日本においてハイブリッド化して
日本人となっていった外来種であるので、旧来の表現の「帰化人」のほうが適切だと
私は
思うが、ここでは近年の学術界の通例に従って「渡来人」とする)

我が国の文化は、外国の物も大いに敬愛し、日本文化に採り入れてきたという
歴史があることを見逃してはならないと思う。(その文化土壌は今も継続している)
日本の「和風」は、すべて日本人が発明したものではなく、諸外国(とりわけ大陸と
朝鮮半島)の文化を取り込んで、そして国風文化が形成されていった。
キモノのうちの呉服もそうであり、日本刀もそのひとつで、日本刀は原初的には古代の
「鉄器」本体と製造法の技術輸入と国産化によって日本固有のものとして結実した
「鉄器の最終形」であると私は感じる。
むしろ、そうした「咀嚼力」と「消化力」というタフネスなストマックを持つ体力的強靭性
にこそ日本人の静かな強さを私は感じ取るのである。


思うに日本はある一面において「アメリカ合衆国」のような国だと私は感じる。
アメリカ人はネイティブを除いて「自分はイギリス人」とか「自分はドイツ人」とかは
思わない。アメリカ国民であると思っている。
日本が単一民族国家でないことは、日本にも複数民族のネイティブがいた(現在も日本
国民として存在する)ことからも明らかであり、いろいろな場所からこの列島に到達
した人々によって「日本」が作られてきた。
日本を列島成立の地質学的成立期から単一民族国であるとしたい人々の多くが嫌韓や
嫌中を感情的に
持ち出して「神州日本」と「日本民族」を言いたがるが、実はそれは
皇国史観からも外れている。

日本の歴史に詳しい生物学者でもある今上天皇陛下がなぜ日本と韓国の関係性に
ついて
昔から縁がある国同士と自ら言明されているのかを深く洞察してみればよい。
偏頗なニセ右翼は、ときどき今上陛下のおことばさえも一方的に解釈したりして、自分
らの
政治主張に「天皇」を利用しようとするが、私から言わせると不敬極まりない。
「自分は天皇制が好き」ということをネットで主張して、幕末から明治以降戦中までの
天皇を利用した
日本の国体をあたかも「皇室賛美」として掲げている連中も、私から
すれば不遜極まりない。

そうした皇室崇拝を掲げる右翼が陛下の写真をネットやブログで掲示したり、論評
したり、道の踏み外し
も甚だしいと私は思っている。
日本人日本人と感情的に騒ぐ割りには、そうした連中は大抵はさっと自作の和歌を
詠んだり
することもできない。枕詞と掛かりの意味さえ解さない。
自分の思いこみだけで世の中を規定し、歴史を規定するから、歴史
から日本の心を
学ぼうという姿勢は皆目ない。


さて、日本刀の来派に戻る。
来派の先祖が渡来人だったら何だというのだろう、というのが私の感想だ。
少なくとも、日本鍛冶はおしなべてすべて古代にさかのぼれば大陸→半島の
韓鍛冶の
影響を受けているし、血脈的にも渡来人のみならず外来の血の末裔が
相当数占めるのが日本人である
のだから、別段「だから何?」という感がするので
ある。

これは『銘尽』がなんのてらいもなく「先祖鍛冶は高麗より来たる」と記していること
にも
感じ取れる。むしろ粟田口の来派の流れに「ブランド性」をも付与する意図さえ
感じられる。
戦後の日本人の多くが「舶来製」が一級品と概念化していたように。
『銘尽』に書かれている通り、「来派の祖は高麗からの渡来人(帰化人)」というのを
表記通りに素直に解釈して、旧来の刀剣界の説のままでよいのではなかろうか。
日本刀工体系の一派(いち は)の来歴の資料としてよりも「半島との縁者ではあり
たくない」としたいきらいが強く「来≠渡来人説派」の方々に見られるのは学術的見地
からすると残念である。むしろ現今の韓国の反日思想性と共通する恣意的精神性を
私はそこに感じるからだ。
日本刀の歴史性の解明に心血を注ぐのであれば、『銘尽』においては、『新撰姓氏録』
(しんせんしょうじろく)のように「吉士/吉師(きし)」とあえて記載しておらず「高麗より
来たる」としている部分にこそ学術的興味と知見を動員すべきではなかろうか。


高麗犬が入り口にある神社が多い。高麗の犬(狗)である。
渡来系の文化はわが日本に根強く残り、それがやがて国風となって「帰化」し、日本
文化を形成して
きた。(半島系渡来人といっても高麗-新羅-百済ではかなり半島内部の
対立情勢が存し、日本渡来後も政治的ポストがそえぞれ異なったようであるが)

なぜヤマト派王権は征服した出雲に気を使うのか。
なぜ十月には出雲国のみが神有月であり、その他の国は神無月であるのか。
長い日本の歴史の中で、我々日本人が日本文化として征服した勢力の鎮魂をするのは
なぜだった
のか。

やはり、明治以降、「靖国神社」に代表されるように、本質的な伝統的日本文化は消滅させ
られたように思える。
武力制圧した徳川幕臣や東北諸藩諸士という自国内被制圧勢力の霊を鎮魂することは、
現在も「靖国」は
行なっていない。いにしえに日本国の王権が行なったように祀ることはなく、
幕臣や東北諸藩諸士に対しては、ただ殺しただけである。

靖国講に名を連ねた私だが、国を思う気持ちを心に秘めてはいても、極めて遺憾なことで
あると個人的には強く感じている。


(国宝 来国光)






映画『11人のカウボーイ』

2013年11月11日 | open


『11人のカウボーイ』(原題:THE COWBOYS)
1971年米国/日本公開1972年/131分

ジョン・ウエイン主演の『11人のカウボーイ』を見た。
かなり良い。
ここに出てくる少年たちは10歳から15歳までで、撮影当時ちょうど私と同じ
年齢のアメリカ人の子たちだ。

ただし、子役俳優の子たち(まったく馬に乗れない)と、乗馬が得意の子たち
(まったく演技したことがない)がオーディションで
1000名の中から選ばれた。
抜擢された10歳の乗馬が巧い子などは3歳の時から乗っているという。

なぜこの映画を公開時に劇場で観なかったのかと悔やまれる。
1972年当時は、私の周囲ではウエスタンブームだったからだ。
そして、小学生同士でよく映画館に足を運んでいた。

この映画を劇場で観なかったというのは、かなりもったいない。
牛を650kmの距離を移動させるキャトル・ドライブも、少年たちの見事な乗馬
シーンもすべて吹き替えなしで撮影されている。

CGもなかった時代の本格映画がいかにスケールが大きいか。
大西部で撮影されたこの映画は、興行成績でも7,500,000ドル(当時。40年前
当時の日本円で27億円)を売上げ黒字ヒットした。




内容は、死んだ息子たちとも折り合いをつけられなかった大西部の老人が、
砂金目当てのカウボーイに逃げられた後、奇縁によって小学生
の子どもたちを
キャトル・ドライブの仕事を通して「西部の男」に育てて
行く物語だ。
描写もきめが細かく、良作だ。
親子で是非ご覧いただきたい一作といえる。
うちの娘も食い入るように観ていたが、東京から帰ったばかりなので、疲れて
途中でダウン→爆睡へ(笑


このDVD買おうっと。
少年たちの「先生」となった西部の男(ウェイン)と少年たち、黒人のコックとの
心の触れ合いが特に良い。子役たちの演技も、かなり良い。
仕事に共に就く事が人生の道場だったという今はない古き時代の物語だ。
ラストシーン直前に少年たちが牛の群れを巧みに扱って目的地である町に入って
来るシーンはかなり感動した。
ジョン・ウェイン、年取ってもめちゃくちゃかっこいいじゃない。
お袋、何を観てるんだ。




ジョン・ウェインは身長190センチくらいあるのに、この一番左の子(撮影当時16歳)は
でっかすぎない?(笑
劇中のカウボーイ採用試験のロデオ・シーンでも吹き替えなしで見事こなした。
落馬したら首の骨折りそうな激しい暴れ方だった。
一番右のおチビちゃんも、上手に馬を乗りこなして、投げ縄も決めていた。
子どもたちなのに、役を身近に引き寄せる努力をする役者魂はプロのそれだ。
日本のしょぼい殺陣する時代劇俳優たちは見習ってほしいと思う。

DVDではなくブルーレイ買おうかな。画質ぜんぜん違うものなぁ。
『シェーン』とこの作品はブルーレイがいいかもなぁ。
風景すごく綺麗だし。

(ビデオ)


(DVD)


(ブルーレイ)