渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

盗用記事 袋井市議

2016年05月25日 | open

ひで~。
この市議の記事、まるまる私のブログ(ココログ。すでに閉鎖)からの盗用だ。

この部分。


《美しい立ち姿勢》とは
 横から見た姿でチェックして『美しい立ち姿勢』とは、横から見たときに「耳」「肩の中心」「くるぶし」が一直線になっている状態(写真右)。ねこ背になったり背中を反り過ぎたりしないよう、頭の上がピンと糸で引っ張られているイメージです。

 後ろ側の脚に重心を置き、前にずらした脚を軽く折った立ち方は、正面から見た際に脚がキレイに映ります。O脚が気になる方にも効果的な立ち方です。

 最近の若い女性でハイヒールを履くのは良いんですが、{アゴが出て、腰が落ちて、ガニ又}で 歩いている。
そうです「ゴリラ歩き」が増殖しています。美人が台無しです。「ゴリラ歩き」といって、上体を前にかがめ、腕を体の前で横に振って歩く女性がかなり見られます。腕を前後に振るようにして、両手の小指を伸ばすように意識すると、正しい歩き方ができるようになります。

《本物とニセモノ「武士の作法、所作」》


 

 幕末、異人警護のために集う幕府旗本。(遣い手が集められた。)


 刀(脇差)の差し方にご注目下さい。柄頭が上を向く落とし差しにしている侍は一人もいない。そんな差し方をすると、鞘のこじりが床に当たるし、大刀を抜いて切り下ろした時に脇差の柄が邪魔になって刀を振れないため。なお、立ち上がって大刀を差した際も、剣術上級者はなるべく地面と平行になるようにカンヌキに大刀を差す。脇差もカンヌキならば大刀もカンヌキ差しにする。

《中村主水役の藤田まこと氏
 時代劇に出演する俳優たちは、侍の役をやるならば、役者で食っている本職のプロとして、ただそこにいるだけで本物の侍に見えるような役作りの勉強をしてほしいと思います。昔の時代劇俳優はきちんと役を身近に引き寄せて役作りをしていました。


 完璧なカンヌキ差しであり、本物の侍の刀の差し方である。役づくりには、こういう正確な「本物」の再現が不可欠です。「兵士・警官」らしく、また、「板前」は板前らしく、「夜の謎の女」ならば謎の女らしく・・・e.t.c

 役者を見て瞬間で「本物」と見えないならば、演技以前に俳優としての意味がない。プロの俳優が映画や舞台で演じるということは、仲良しこよしの学芸会ではないのだ。若手の2流役者が演じると例え『真剣』であっても【竹光】にしか見えないと思う。一流のプロは【竹光】を『真剣』に見せる凄みがある。

 最近はニセ役者・製作者が多すぎて、映画やドラマは観るに耐えない駄作が多すぎます。薄っぺらな不味いスープで満足できると思われてるとは、視聴者もナメられたモノです。


盗用記事 → こちら 


いやいいんだけどさ。私の文章や記述情報はしょっちゅう盗用されているから。
しかし、文章コピペ転載のみならず、画像までまるごといただきってさぁ・・・。
出典を明らかにしているのならば、いくらでも使ってもらっていいけど、まるごと
コピペしてそれを自分の文章かのようにするのって、さすがにどうよ?
こういうの、ほんとに多い。

小説『傭兵代理店』なんて、俺が主人公の藤堂になっていたしよ~(苦笑)。
不埒者を木刀で成敗して骨折させる場面とその時の藤堂の細かい動作と台詞、
まったく丸ごと私の日記からの盗用だったし・・・。

「ラジオライフ」なんてのも出版物でまるまるまるごと私の「ベレーのかぶりかた」
(現在ドメイン更新手続き中で非表示)を画像ごとすべて盗用していたし。
また、『黄昏流星群』では、私の日記の描写がそのまま使われていて、私は
元全共闘の医師として登場していた(苦笑
他にも、週刊軍事図鑑で私のM16に関する記載がまるごと盗用されたり、
モデルガンの歴史を記載した私の解析と記述がネット百科で流用されたりとか・・・。
他にも、もう多すぎてさぁ(苦笑
信じがたかったのは私の歌詞が私が敬愛していたシンガーソングライターに
参考(?)にされてそれがTVドラマの主題歌になったりとか、俄かには信じがたい
ことがあったりとかしてさ(笑)。まさに「ありえない偶然」てやつでさ。


文章の転載はいいけど、さも自分が書いたようにというのはねぇ・・・。
やめてけろ。
自分の文章で勝負しようよ。自分自身が書いた文章で。いっぱしの男なら。
(引用はどんどんしてもらっても結構です。しかし、それをあたかも自分の創作
のようにふるまうのは、非常識以前に物を書く人としての良識の問題ですね)


(5月28日追記)
あ。削除してやがんの(≧∇≦)


たたら

2016年05月02日 | open



たたら製鉄とたたら吹きの違いが解らず混同している人が多い。
それは今の日本の大型たたら吹きを「たたら製鉄」などと表現
してしまっていることによるものと思われる。
しかし、どちらも鉄を吹くことには変わりはない。
この画像のような小たたらによるたたら製鉄は、実際のところ
やってみたいという気持ちは私自身は強い。
鉄自体は案外簡単に作れる。赤土を焙焼して炉に入れて送風
して還元により酸素をひっぺがせば鉄自体はすぐに発生する。
だが、「使える鉄」を作り出すのは難しい。

ただ鉄を作っても、鉄製品にまとめられないと鉄を作る意味が
100%ない。問題はそこ。鉄器もしくは利器になる鉄を吹かないと
意味が
ない。
いくら「古代製鉄再現」と称しても、狙った時代の鉄の解明やその
時代背景とリンクした鉄を産まなければ意味がないのだ。私的な
「ただ鉄を作ってみたい」というところで産鉄作業をいくらやっても、
それはただ箸で皿を適当に叩いて「あ~楽しい」ということと変わり
ないのである。それは音楽ではない。ちゃんちきおけさになって初めて
音楽足り得るのだ。
古代製鉄復元もしくは再現のためには、その再現しようとする時代が
いつの時代で、その時代には鉄がどのような目的で作られていた
のか、人々にどのように使われていたのかまでを含めて製鉄作業に
あたらないと、まったく産鉄の目的が外れてしまうのである。
現代人のごく個人的な自己満足のために産鉄を試みても、それは
単なる個人的な自慰行為にしかすぎず、学術的立脚点に立つものとは
到底いえない。
そこなのだ。
「産鉄のために産鉄をする」というタメにする行為が愚行であることは
論を俟たない。


自家製鉄では特に刃物用の鋼にするには、狙った炭素量を得る
ことが大切だ。

銑鉄にしてから脱炭で卸して鋼にするのか、低炭素鉄を吸炭で
卸して鋼にするのか。

いずれの場合も必要炭素量の鋼に卸す卸鉄(おろしがね)という
二次加工を必要に応じて導入することも射程に入れていては、
生産性の問題が生じる。
特に古代製鉄の解明は、ただ鉄が作れることだけでなく、生産性
や再現時代(古代といってもとてつもない幅がある。目標年代に
よって製鉄方法は異なる)の時代的背景までを見越しての製鉄行動
の復元が必要だと思量する。

よく「古代製鉄再現」として各地で自家製鉄が再現されているが、
古代といっても、縄文なのか弥生なのか飛鳥奈良なのか平安初期
なのか平安末期なのかで全く様相が違う筈であるのに、一様に
「古代製鉄」で日本人は括ってしまっている。
私にはとても乱暴な論のように思える。
一般的には古代とは奈良平安を指すが、広義には前史時代も含める
ので、「古代」の大枠で表現するのでなく、「~時代の製鉄再現」と
するのが正しいとは思われるが、要するに学術的にも日本の製鉄の
歴史についてはよく何も解っていないので「古代」で一括りにしているの
だろう。
(公的な教科書に載るような日本の歴史教育の中での国内製鉄の歴史
は「6世紀から」とされているが、実質は紀元前の縄文末期からソブに
よる製鉄が日本列島では行なわれていたと私は確信している。しかも
これはかなり後の時代=古墳時代まで継続した製鉄方法だったと読ん
でいる。
国内製鉄が巨大コンビナート化したのは5世紀の広島県内の遺跡に
みられ、強大な権力機構の完備と連動していたことが読み取れる。
なお、紀元後1世紀に太陽信仰を持つ和邇族(和珥、和仁、王仁、丸。
後の春日氏、小野氏)が渡来して日本に製鉄技術をもたらしたという
伝承については、考古学的には証明されていない。ワニとは古代朝鮮
語で剣あるいは鉄のことを意味する。因幡の白兎伝説でのワニとは
日本へ古い時代に移住した先行的来住産鉄民族ワニ族のことであろう。
鉄産出に関する質量比べが因幡白兎伝説の本義ではなかったか)

製鉄技術自体は大陸半島あるいは南方からの渡来の技術と思われる
が、日本の製鉄の特徴的なことは、「ある時期」から砂鉄を原料とする
効率の良い製鉄にシフトしていったことだ。
これは「王権」の権力掌握の歴史と密接に連動している。
こうしたことは遺跡の遷移をみれば読み解ける。

以下は「まがねふくきびのなかやま」の古代吉備国を中心とした製鉄遺跡
を示した図である。吉備は当初出雲支配下であったが後にヤマトに征服
されヤマト傘下になる。後にヤマトは出雲の支配力を簒奪するのであるが、
すべては製鉄技術をめぐる抗争であったことだろう。
この図を見ると、吉備地区と出雲地区ではあきらかに製鉄原料の新旧の
対比が見られる。砂鉄製鉄は古代における最先端技術であったことだろう。
その技術は国内統一を目指す中央王権にとっては必要不可欠なものだった。
鉄器の生産力向上は武器供給の面だけではなく、もっと大切な国造りの
根幹とも呼べる稲穂=農作物収穫の生産力アップによる増収に直結していた
からだ。日本を瑞穂の国と呼ぶのは、稲作生産力による国力を示すもので
あった。鉄と稲と王権、この三者は切っても切り離せない関係にあった。










古墳のそばには必ず製鉄遺跡あり。
上の画像は古代産鉄地域である備後国の遺跡変遷地図だが、こうした
古墳と近接する製鉄遺跡は全国各地に存在する。また全国各地にある
「金山」や「赤堀」などの地名も産鉄と関係があるだろう。
古代から中世にかけての産鉄地はその名残が地名に何かしら残されて
いる。例を挙ればきりがない。
そして、必ず、王権の人民支配の名残を継続させた中世ピラミッド式支配
構造の残滓が「地区」としてそこに残されている。これは織豊時代以降、
江戸期にさらに固定された。


たたらによる製鉄に関しては、最初の一次段階から良質(鋼の質として
良質なのではなく
刃物への適性という意味での良質)な鋼が採れたなら、
それにこした
ことはない。
日本の製鉄の原料は前史末期から概括すると、土→石→砂と変化してきた
ことだろう。現在の一般的製鉄の原料は石に戻っている。

ただ、江戸時代のある特定時期の不思議として、鋼よりも地鉄(包丁鉄
などの低炭素鋼の軟鉄)のほうが市場金額が高かったというのは、一体
どういうことが現象の背景にあったのか。
原油価格の変動と似たようなものだったのだろうか。よくわからない。