渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

ミリベレの基本 〜ベレーのかぶり方〜

2017年12月18日 | open


世界最古のグリーンベレーを採用
した英軍王室海兵隊COMMANDO
のミリタリーベレーのかぶり方。
一応、ミリベレは世界標準レベル
でこれが基本。
ただし、各部隊でかぶり方がある
ので、研究と識別がベレーかぶり
には必須です。
ミリベレはズボ被りやチョコ載せ
被りはバツで、特にキノコ被りし
てこういう波止場のマドロスさん
足載せの夜霧よ今夜もありがとう
系は最悪なので注意。↓

紛争の扮装

2017年12月16日 | open














それっぽくなってるかとは思う。


ちなみに、上の画像の映画『ワイルド・ギース』(1978年)撮影時、隊長アレン・
フォークナー役のリチャード・バートンは52歳。
今のこの画像の私よりも5歳年下だった。

こうして画像を並べると、映画の傭兵ワイルド・ギース将校がかぶる英軍パラ
トルーパーのマルーンベレーと、私のベルギー系パラベレーでは、明らかに色が
異なることが見て取れる。
英軍のパラベレー色は紫が入っている。
こうした英国独特のオリジナル色は英軍の採用カラーには多く見られる。
王室海兵隊コマンドゥも、ラバット(発音はロバッに近い)グリーンというエメラルド
がかった独特な緑色であり、単なるグリーンベレーではない。
また、日本の自衛隊の91式略帽のグリーンベレーの緑も、種別としてはライフル
グリーンに類型化できるだろうが、英軍のライフルグリーンとも米軍の特殊部隊
グリーンベレーのベレーの緑色とも異なるオリジナル色を自衛隊は採用している。
自衛隊の緑色ベレーはとても品格のある緑色だが、ベレー自体の作りが
深すぎるため、ビシッと形を決めて欧米先進国のようにかぶるのが難しく、形
を決めるにはコツがいる。
民間のファッションベレーではない軍装品としてのベレーは、軍帽であるのだ
から、それなりに軍規に則って着装する必要がある。
民間人の扮装の場合も、かぶり方もクレストや色の選択は自由だが、ことベレー
については、妙なかぶり方をすると非常にトンチンカンのチンドン屋さんか七五三
のようになってしまう。
ベレーに限らず、和服でも洋服でもそうだが、被服の「着こなし」は簡単ではない。


名刀列伝 大名登録の日本刀 ~三原~

2017年12月10日 | open



この古刀に心が奪われる。
典型的なお手本のような「三
原作」なのである。

しかも瑕疵が一つも無く、重
ねも十分、かつすべてにおい
て健全だ。

昭和26年登録の大名登録だ。
さる旧家から出た物で、戦後
登録
の際には錆が生じていた
身だったが、ある研ぎ師が研
ぎ上げたら
往年の立派な姿を
蘇らせた。大磨り上げ無銘。

このような見事な三原は私自
身はそうそう経眼したことが
ない。

「伝三原」ということで、
「二王あるいは国分寺助国の
三原逃げ」か
と思ったが、そ
うではない。完璧なほどの刀
剣書籍に載せてもよい
ほどの
典型作だ。

三原といっても、現在の三原
城がある三原の場所で作られ
たのでは
ないことは明白だろ
う。今の三原は三原城が400
数十年前に出来る
前は海だっ
たのだから。

古三原のうちでも古刀最末期
の作は貝三原あるいは「三原
〇〇」と
銘された物で、それ
は三原城内三の丸の鍛冶屋敷
で作られた可能
性はあるが、
それ以前のいわゆる「三原極
め物」は、現在の三原城下

あろうはずがないのである。
これは地質学的に。

唯一広島県で一番古い神社が
存在する現在の三原市の糸崎
の半島突端付近での
作刀とい
う可能性はあるが、物流的な
観点から非常に可能性が低い。

今でいうならば、網走岬の突
端に刀鍛冶が住して作刀した
という程
の地形だからだ。航
路以外道さえまともに無かっ
た場所であり、その
ような場
所では炭の流出入や製品化し
た刀剣を物流に乗せることは

できない。
旧年代の刀鍛冶は、全員が街
道のそばに住し、製品原料で
ある炭や
製品鉄あるいは自家
製鉄のための鉄原料が採掘で
きる場所にて
炉を構えた。
出来上がった刀を運ぶにして
も、突拍子もない辺鄙な場所
ではなく
街道沿いの駅家と旧
街道を利用したのは当然のな
りゆきだ。

事実、日本国内の刀工群は、
運行に利便性が高い水路の河
川と
陸路の街道の沿線に住し
て作刀にあたってきていた。


これまで、刀剣界では「三原」
とされる作の作刀場所を「現
在の三原」と
する明らかに地
質学的見地からも誤っている
所見を「定説」としてきた。

だが、海の上では人も住めな
いし、刀も作れない。

「三原」の場所は、旧山陽道
内陸部である現在の三原市の
山陽自動車
道三原インターチ
ェンジ付近の「謎の駅名不明
の駅家(うまや)があった

ろう(なければおかしい地点)
場所」のことを指したことだ
ろう。

現在の三原市八幡町垣内(か
いち)のあたりを古代の往時
には「柞原=
みはら≒みわら」
と呼んだのではなかろうかと
いうのが私の所見だ。

そもそも八幡という古くから
残存する地名自体が製鉄と関
与していること
を表している。
地名は古代史の遺跡だからだ。

そして、付近には古代二次植
林による木炭材料の松が群生
しており、
まさに「柞原(み
はら、くはら、くのはら)」
という地名に合致する植生を

見せている。
また、付近には製鉄の大鍛冶
や小鍛冶に必要不可欠な水流
もある。

さらに、近隣山域にはカネク
サと呼ばれる産鉄原料埋蔵を
示す植物
が生えているし、鉱
山も存在する。

そして、現在のところ、日本
国内で最古の製鉄遺跡とされ
ている炉の
遺跡は三原市八幡
町垣内(かいち)にあるので
ある(弥生時代)。


中世から近世に続く刀鍛冶や
他の鉄鋼鍛冶がポッと突然鍛
冶技術を
天から授かったとい
うことはあり得ない。

そこには連綿と続く超古代か
らの製鉄および鍛冶という冶
金の技術
の継承があり、その
技術の継承事象として日本刀
鍛冶は発生した
ことだろう。
いうならば、上代も超えて、
古墳出土の剣や鉄刀、他の武
器、生産鉄器
等を創り出す鍛
冶(かぬち。別表記「鍛人」)
による生産製造技術がずっと

伝承されて、それの一形態と
して刀剣の鍛冶職の技術が成
立していった
ことだろう。韓
鍛冶(からかぬち)と倭鍛冶
(やまとかぬち)は二分化さ
れた原初から高次に両者の技
術が融合して昇華して結実し
たのが日本刀の鍛法技術だと
私は思料する。

製鉄の原材料は、縄文末期か
ら弥生時代の赤土焙焼による
初期製鉄
にはじまり、やがて
鉄鉱石による還元、鉄鉱石よ
りも効率のよい日本で
技術革
新され完成確立された独自の
固有製鉄である砂鉄による製
(たたら製鉄)での小規模
の「鉄吹き」と移って行った
ことだろう。

さらにそれが中世に入ると、
規模が増大し、製鉄炉はたた
ら製鉄から
たたら吹きになる
が、中世末期までは、全国で
まだ往年のように小規模
製鉄
で生産効率は悪いが刀剣材料
としては質が良い鋼原料が生
産され
ていたことだろう。
大規模生産の必要の発生は、
完璧に軍需要求の増大による
膨大な量
の「鉄」の求めによ
るものだった。

政治と軍事の歴史的要求に連
動して国内産業が推移するの
は中世も
現代もなんら変わり
はない。


歴史の中で一時期預った「三
原」の一刀を観るに、非常に
刀としての鉄が良い。

日本刀の場合、一般的には
「鉄が良い」というのは、こ
れは肉眼で目視上
の鉄味良さ、
ということであり、金属学的
な優劣のことではない。

ここを混同すると、江戸期の
ような大量生産工法で作られ
た流通製品
鋼=たたら製鉄で
はないたたら吹きによって作
られた新鋼のことを「刀剣

適した最良の鋼」であるなど
と思い込む誤謬を生じさせる。
真実はそうではない。現代と
同じく「その時代にそこにあ
った鋼」を使用したのが実態
であり、「戦闘刀剣として最
適の材料」を圧倒的大多数の
刀工の趨勢として江戸期初期
以降の刀鍛冶が求めたのでは
ない。
要するに現代と同じく、流通
製品鋼を一般的には使用して
いたのである。

金属学的に精良である鋼と、
武器である刀剣に適している
鋼は、必ず
しも同一の成分や
質性を有しない。
だが、小鍛冶が鉄をも作る時
代は遠く吉野朝以前の遥か彼
方にほぼ消滅していた。例外
的に安芸国大山鍛冶のように
近隣の小規模製鉄エリアと自
家製鉄を合体させて適宜適し
た鉄と鋼を選択していたよう
な刀工もいるが、それは「時
代遅れ」の生産効率において
非生産的な工法となっていた。
戦国期には膨大な数の刀剣が
即座に必要だったからだ。
そのために、最初から材料を
板状にして作り置いておく
「作り置き」の工法が登場し、
それと同時に鋼使用部分を減
らす増量剤としての低炭素鉄
の再利用=作り込み餡子構造
が登場した。
鍛着においては、陶芸の一挙
的発達と密接なカルシウムと
カリウムの化学反応への着目
もあったことだろう。当然に
して牡蠣殻のような触媒や藁
などによるケイ素への反応条
件も満たさなければならない
ことに気付き、折り返し鍛着
のために、泥をかけ、藁にま
ぶすことが陶芸技術の援用で
導入されたことだっただろう。
泥かけ藁まぶしは脱炭防止の
ためだけではない。鍛着材=
フラックスに化学変化させる
役目があることに中世の量産
工法を導入した鍛冶仕事に従
事したカヌチたちは熟知して
いた筈だ。
また、武器は量産できなけれ
ば軍需の要求を満たせない。
それは法度的な領主による御
触れを以て刀工たちを抱えよ
うと武将たちは躍起になった
筈だ。
そして、量をこなせなければ、
そうした当時の法定果実の満
足を得る事はできなかったの
である。槍や薙刀や長巻や太
刀等の刀剣は軍事と政治の行
く末を決定する武器であった
からだ。また、鏃は必要不可
欠な武器の頂点だった。
そして、そうした時代の要求
の中で、刀鍛冶たちは死にも
の狂いで、時の材料に最適合
した工法を探りまくっていた
ことだろう。
そうした光景は、往時として
は、ごくごくありふれた「当
たり前」の風景として、鍛冶
職の鎚音が響くシーンのビジ
ュアル的景色の中に存在して
いたことであろう。

日本国内の美術刀剣史観の人
たちは、ここのところを見る
視点を現代は
完全に欠落させ
てしまっているので、刀身の
肉眼的な見た目が良い物がま
るで武器と
しての刀剣の質性
をも担保するものだとの誤解
を自らをして生じせしめる

とをやらかしがちだ。

例えば、包丁に極めて適して
いる現代鋼である日立の白紙
1号などは
腕の良い包丁人に
よる料理包丁の巧みな技術を
発揮するためには適し
ている
素材だが、白紙1号をそのまま
刀剣に使用して鍛刀しても戦
闘に
使える刀にはならない。
青紙のほうがずっと頑丈さな
どにおいては優れて
いる。
しかし、白紙や青紙での日本
刀の製作は現代では認可され
いないので、日本刀の材料
として使用することはできな
い。

それは別問題として、重要な
ことは、「用途に適した鋼」
というものが
金属の種別類別
には存在するのであり、本来
の武器としての日本刀には

本刀に適した材料があったの
である。

それが崩れたのが慶長以降の
刀剣であることは、いまから
数百年前の
江戸期の多くの武
士たちによって証明されてい
るのだ。

やがてそれまでの日本刀の製
作方法は江戸中期に完全失伝
し、これでは
まずいというこ
とで幕末の一刀工が大ルネッ
サンスの啓蒙活動をして、

失伝した古刀製作法を史料か
ら「想像で」復元したのが現
代刀工がすべて
行きつく幕末
水心子伝ということになる。


日本刀は大きく分けて質性と
しては以下に大別できる。

・上古刀~応永までの古刀
・応永~慶長初期までの古刀
・慶長~江戸中期までの新刀
・幕末の新新刀とよばれる復
 古気運の中での実用刀模索
 研究刀群

・昭和大戦時の科学的工法を
 導入した純実用刀

・戦後現代刀(特定一種の鋼
 による幕末工法オンリー)


このうち江戸中期の数十年間
のまったく日本刀が作られな
かった時期に
日本刀の製造工
法は完全に失伝したと思われ
る。

単に組み合わせ工法か無垢か
とか、そのような単純なステ
レオ的なもの
ではない。もっ
と多岐に亘る製造技法が失伝
している。


預かった「三原」は、出来が
見紛うことなき名刀だと思え
る。

これ・・・今は鑑定書の紙無
しだが、審査に出せばゆくゆ
くは重要刀剣あたり
までは行
くだろう。





本作を預かっている間、使わ
れた鉄について精査しようと
思っている。

解体検査することはできない
し、炭素年代測定などにも興
味はないが、
いろいろな視点
で個体を見ることによって、
新たな発見が日本刀には
必ず
ある。新発見のない日本刀な
どは存在しない。


この刀、観ていると、すぐに
数時間は経過してしうな作で
ある。



















何故登録証に当該個体と関係
のない法律文書である書面に

「伝三原」などと書かれてい
るのか。

これは、昭和26年当時は、登
録審査員がこうした自己鑑定

などを書き添えることが多か
ったからである。

この昭和26年時の東京都の鑑
定審査員、そこには著名高名

な刀剣界の先生方も名を連ね
たことだろう。つまり日刀保
鑑定のようなことが書き添
えられてしまったのだが、正
真を担保
するものではない。
私の昭和34年登録の無銘刀に
も「豊後」と登録証に書かれ
しまっている。
こういうのは刀剣業者の業界
では「悪戯書き」と呼ばれて
いる。

だが、本作のように、極めて
良刀の場合にそうした添え書
きが
見られることが多いのも
事実である。

こうしたことは、刀剣書など
には勿論載っていないことで、
刀剣界
の先達たちから教えて
貰わないと知り得ないことで
あろう。
私も斯界の先達から教えて頂
いた。有り難いことである。