渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

三原紀行 ~歴史散歩 「刀工正家と糸碕神社」~ その2

2014年01月09日 | open

さて、糸崎神社の入り口近くに
は石燈籠や石碑が多く建ってい
ます。



阿波の国の人からも寄進されて
いる。





住吉大明神
八幡大神
とあります。
住吉は底筒男命を祀り航海・海・
和歌の神で神功皇后の航海と縁
がる船泊には必ずありますね。
八幡は誉田別命を祀り文武の神
となっています。


これは侯爵浅野氏の筆による石碑。



うちの殿さんですね。

糸碕神社に参拝します。




手水の石は寛政四年(1792)
の物。



松平定信の寛政の改革覚えて
ますか?
おさらいで調べ直しました。

・囲米
・帰農令
・棄捐令
・株仲間廃止
・人足寄せ場設置
・七分積立
・寛政異学の禁
・処士横断の禁
・寛政重修諸家譜編纂

基本的には重商主義を押さえ
て、蘭学を否定して、身分制
度の
徹底を図ろうとした政策
でした。

経済体制も商人を弾圧して武
士の特権優先で、国内の治安
取締
体制も秘密警察主義のよ
うなことをやっていたので、
暗黒時代だった
のでしょう。
この頃から江戸幕府の矛盾が
一気に加速していく。

いつの時代もゲシュタポ政治
が長く続くわけがない(苦笑

松平定信は数年で失脚。

さて、手水を使った後、お参
りします。


糸碕神社の鳥居をくぐると・・・
(私初めてここに来ました)

あれ?これはどうみても武家の門。


む、これぞ武門の家の武門にござる。




なんと、やはり武家門でした。
なんかそういえば、ここに移
築されたとどこかで読んでた。



私としては、この鉄がお宝に見える(笑


広島藩士の生駒氏は幕末~明
治の藩士録によると

・生駒九兵衛(分知の際附人)
・生駒助右衛門(無役士族)
・生駒清十郎(寺西左源太組)
・生駒平兵衛(寺西左源太組、
 寺西清左衛門組、寛永元年
 普請奉行)

・生駒与兵衛(分知の際附人)
がみられますが、これほどの
門構えの屋敷ということはか
なりの
高禄の武士だった筈で、
どの方の家がそれにあたるの
かは判然と
しません。普請奉
行というのは広島本藩ではな
かろうか。
いずれにせよ、明治八年に広
島県士族生駒家より屋敷の門
がここ糸碕神社に寄進されて
神門となったということです。

正殿の右には糸崎の地名にも
なった長井の浦の井戸がある。




画像では見えませんが、内部
は石造りの丸い井戸です。
これは中世の山城である桜山
城(山名氏の城)の山頂にあ
る井戸と同じような形式でし
た。

 
正殿左には土俵があります。


圧巻のはこの楠。




実際に見ると圧倒されます。
こんな根本が球根みたいに太
いクスノキはあまり見ない。

岩みたいです。


正殿です。


なんとお百度参りのための勘
定そろばんが。これも鉄製。



さて、正殿の右側には奉額堂
があるのですが・・・。

ここはかなり感動した。
武術の稽古できそうな板敷で
すね。



飛行機の木製プロペラ!


大正三年に神社に三原城主元
浅野家筆頭家老の刀が
奉納さ
れています。これは本当に宝。





こちらは明治期の掲額。小野
流の佐佐■某の額ですが退色
して読めません。



別な場所には天保年間の額が
奉納されています。


なんとか読める。

「天保十四年(以下略)奉懸
 小野流 比山並右衛門 追
ひ一門」とあります。

西暦1843年ですね。1843年の
額と木刀ですよ、これ。沖田
総司が生まれた
のが天保十五
年で、土方さんが天保六年生
まれで、近藤さんは天保五年
生まれ
です。近藤・土方が8
~9歳の時ですから、今でい
う小学校2~3年の頃。

彼ら武州多摩の土手でツクシ
取ってた頃かな。
その頃の三原藩領の小野流剣
術柔術の一門の額です。
ちなみに比山という名字は藩
士録にはありませんので、浪
人扱いか郷士かあるいは家老
の家臣=陪審のまたものであ
る可能性があります。
もしくは、土方さんたちのよ
うに百姓階級だったか。
広島藩領でも武術が盛んで、
特に三原支城領内では武術が
本藩以上に盛んでした。武士
だけでなく郷士や近在の百姓
たちも武芸にいそしんだよう
で、特に体術などは農民たち
も盛んに学んだようです。
武士がほとんどいない尾道で
も柔術や総合武術は盛んでし
た。
三原の「小野流」を修めた人
物としては、三原藩士(本藩
安芸広島浅野家家中とは別に
三原を藩と俗称して三原藩士
と呼ぶことも通例としてあり
ます)に佐々木忠蔵孝信とい
う武士がいました。小太刀・
大太刀、二刀を用いる流派で、
門人に佐々木仲蔵為継、坂田
弥四郎などがいました。

三原といえば槍の佐分利流が
有名ですが、三原のほうが鍵
槍の本伝を伝え、広島本藩の
ほうは大長身槍を使うという
変則になっており、本藩のほ
うが分派系となっています。
これ面白い現象。





神社の宝物殿?前には雨に打た
れて錆ついた看板あり。


浅野長門守忠真とは三原浅野家
の三代目城主のこと。
この殿さんの側室は徳川家光の
娘で三原浅野四代目忠義の生母
である月渓院という女性です。
月渓院の墓は城下恵下谷の大善
寺で、五千石の御化粧料が下賜
されて、将軍家菩提寺である増
上寺の寺号を賜って増上山大善
寺と名乗り、三つ葉葵の使用が
許された。
月渓院どのについてはちょっと
した熱愛エピソードがあって、
江戸城内で浅野忠真に一目惚れ
した月渓院どのが、周囲になん
どもなだめられたけど思いを曲
げなかったので、「下賜」とい
う形で忠真どのに側室として輿
入れした。
恋愛結婚など許されなかった時
代に、すごく情熱的です。
そして、長門殿はかなりの男前
だったのだろうと思う。江戸城
内で遊ぶ姫に危ないよと声をか
けての一目惚れとの伝あり。
その長門さんが磨り上げ物と思
える古刀をここ糸碕神社に奉納
している。丁子刃だから備前一
文字あたりか。
奉納刀だけど、こういうのは是
非とも、博物館などで公開して
ほしいと思ったりする。

ということで、糸碕神社を後に
します。

次回の歴史散歩三原紀行は三原
城探索の予定です。
寺が多いから寺めぐりも面白そ
うなんだけどね。
おいら、抹香臭いのがどうも苦
手でして(笑

江戸初期には三原城下の西端が
西野村川(現西野川)で西の守
りとしていましたが、築城から
江戸正保期にかけては
今の西野
川は存在しません。現西野川か
ら西は海でした。
宮浦(宮ノ浦)新開=宮沖新開
が開かれた元禄期に現行につな
がる西野川が引かれ、現在の市
街地である宮浦と宮沖地区の陸
地が出現したのでしょう。
(↓城下西岸の青線が現西野川。
赤丸地域が流域)


三原紀行 ~歴史散歩 「刀工正家と糸碕神社」~ その1

2014年01月09日 | open

備州(備後)三原派刀工正家
の井戸と糸碕神社のリポート
を。


鎌倉時代末期から南北朝にか
けて存在したとされる刀工備
州三原
正家は、現在の三原城
周辺の市街地には存在してい
ません。
中世末期まで三原城
の場所は海上だったからです。

しかし、現三原市糸崎町は古
く万葉の頃から陸地があり、
船泊も
ありました。
その地に「刀工正家の井戸」
なる物と神功皇后が西征の際
水の補給地として立ち寄っ
たとされる「糸碕神社」があ
ります。

その地を現地調査してみます。
糸碕神社は旧称を糸碕八幡宮
と呼び、創建は奈良時代の天
平元年(729年)
と伝えられ、
広島県内で一番古い神社とな
っています。


<位置>




まずは鎌倉~南北朝に存在し
たとの伝承がある「刀工正家」
が使った
井戸とされる場所が
ある場所を訪ねます。上記地
図の「B」地点に
なります。
ここは三原城跡から東に約3
キロの地点です。
江戸時代に「備中海道」と呼
ばれた現国道2号線を東の尾
道方面に進むと、国道の北側
にあります。

現地の説明をするまえに「糸
崎駅」について説明します。
三原~大阪間に国道が敷設整
備されたのは昭和三十年頃で
すが、この地区に鉄道が敷設
されたのは明治二十五年
(1892)でした。
しかしそれは尾道から現在の
糸崎駅まで。糸崎より西に鉄
道は開通していませんでした。
この糸崎三原界隈の地に鉄道
が開通したのは、明治二十一
年(1888)に山陽鉄道が神戸
に設立されたのを事始めとし、
同年に兵庫-明石間に鉄道が開
通し、以降、明石-姫路間、神
戸-姫路間が順次開通、それ以
降にようやくこの山陽三原地
区の鉄道が開通したのでした。
岡山を経て広島まで開通した
のが明治三十四年(1901)の
ことになります。

糸崎駅は鉄道開通当初は「三
原駅」という名で開通しまし
た。
現三原市街地は明治二十五年
当時は江戸期と変わらぬ港湾
地域に三原城を構える海上都
市でしたので、鉄道を敷設す
る陸地がありませんでした。
明治五年に新橋から品川まで
開通した東京の鉄道も敷地が
ないために海岸線に鉄道用の
土手を作って海上を汽車が走
っていたのですが、三原の場
合は海上を通すことはせずに、
城を潰して三原城のど真ん中
に鉄道を通してしまう計画が
実施されました。
この明治の近代化に向けた開
発により、三原城は完全に破
壊され、城跡が鉄道の駅から
全国で一番近い駅となりまし
た。城の真上に駅があるので
すから当然です。
三原に鉄道が開通したのは元
三原駅である現糸崎駅開通
(1892)の2年後の明治二十
七年(1894)でした。

(元三原駅 現糸崎駅)
こんなローカルなたたずまい。


三原城の真上を通る鉄道。
(明治三十六年/北側から撮
影、左が糸崎尾道方面・右が
広島方面)

赤〇エリアの城内西之築出の
あたりは、すでに公用地とな
り、明治の開発で明治建築の
洋館風の建物が建ち並んでい
ます。
(クリックで拡大)
赤丸の場所は作事奉行所跡。

さて、糸崎駅はその後「呉線」
という鉄道の起点となり、呉
線は海岸線を走り、軍港呉ま
で伸延します。糸碕には大機
関区が敷設されました。
大日本帝国時代には、軍部は
三原に大本営を置く計画でし
たが、沼田(ぬた)川の土砂堆積
が著しく、軍港として使用不
可との判断により、広島と呉
が候補地になったのです。

なぜ糸崎が鉄道の起点となっ
たかというと、現糸崎駅の海
岸線は早くから埋め立てられ、
明治の鉄道開通の際には、そ
こに大きな機関区が設置され
たからです。

江戸期の古図を見ても、現糸
崎駅付近は埋め立て整備が進
んでいたことがうかがいしれ
る。

三原付近の風景は私が小学校
4年生頃の1970年あたりまで
は、写真を見る限り、明治時
代とさして変わりがないよう
な印象です。実際に私は先祖
が住んでいた三原という土地
に年に二度神奈川や東京から
訪れていましたが、東京や横
浜とは「まるで違う世界」で
した。

糸崎機関区(昭和45年-1970年)。
大阪万博と70年安保首都騒乱
と『あしたのジョー』の時代
に三原糸崎はこれ。



1970年


のどかな広島県瀬戸内地区。

首都圏と地方の隔絶を感じる。

私の記憶の中でも呉線などで
は普通にこのように機関車が
走っていました。
つまり私が子どもの頃は「電
化」されていなかったという
ことです。上の画像でも国鉄
山陽本線に電線が全く無いで
すよね。
東京の地下鉄工事が着工され
たのが大正十四年(1925)、
上野-浅草間に地下鉄(当然電
車です)が開通したのは昭和
2年(1927)です。
帝都東京市内に路面電車が開
通したのは明治三十六年(1903)
ですので、上掲の明治期の三
原駅写真の年には帝都には電
車が走っていたことになりま
す。

私が小学生の頃の三原の風景

高校1年の1976年に、東京都
板橋区から修学旅行以外では
出たことがないクラスメート
を連れてこの場所に泳ぎに行
きました。
海岸からこの無人島まで彼は
泳ぎましたが、近そうに見え
て実は数百メートル離れてい
るため、結構大変だった。
この写真は1970年なので、そ
れのほんの6年前の風景という
ことです。

さて、糸崎駅からいにしえの
刀工備州正家の井戸に向かっ
てみましょう。
駅から500m程東に進んだ三
菱三原病院の下にその井戸は
あります。



ここに刀工正家が使用した屋
敷および井戸があったという
のは、あくまで地元の「伝承」
です。中世期の文献上確定さ
れた訳ではありません。
文政二年(1819)に広島藩の
命により領内の国勢調査のよ
うな調査がなされ、その際に
「國郡志御用ニ付下しらへ書
出帳」に以下のように記載報
告されました。

「一、古跡 正家屋敷鋪

平原申所二刀鍛冶正家住候
跡之由申伝候
同所の西、石風
呂新開の上ハ手ニ清水有り

家遣ひ申水之由ニ御座候」

これは文面を読むに、地元伝
承をそのまま上層部に報告し
たのみの文章となっています。
ただし、この報告から、重要
な情報も汲み取れます。
列記してまとめると、
1.この「井戸」は、井戸で
 はなく江戸末期には「清水」
 として
伝えられていたこと。
2.この場所の東に正家の「屋
 敷」があったと伝えられてい
 たこと。

3.正家屋敷の場所の西にこの
 「清水」があったこと。

4.清水の場所は「石風呂新開
 の上手(うわて)」であること。

5.正家屋敷の場所は「平原」
 という場所であったこと。

となります。
平原とは現在の糸崎駅前の丘
の上付近であり、下の現在地
図では緑で囲った区域にあた
ります。


清水であるので井戸ではあり
ません。
湧水があったという
ことでしょうか。
後述しますが、この付近の井
戸は地下水脈の関係か、海岸
から直近であるのに、満潮時
においても塩分を含まず、真
水のままでとても「良質な水」
が出る場所として万葉の古代
から親しまれてきました。

「正家の井戸」が現在ある場
所は、古い海岸線の岸壁沿い
の地形だったと思われます。
横浜の本牧のような。

横浜三渓園裏手にある横浜本牧
公園の露頭・海食岸写真

三原市の「正家の井戸」裏にあ
る岸壁写真(撮影私)




鑿の痕が見られます。古い護
岸だったのではないでしょう
か。





石作りの井戸傍の様式は新し
く設えられた物と思われます。




正家の屋敷跡の場所について
は、幕末の調査では「平原」
という場所であり、
正家が使
った水の「清水」は「石風呂
新開の上手」にある、という
ことです。

新開(しんがい)は江戸期に
埋め立てや開墾で新規に開拓
された農地の
ことですが、こ
の「石風呂」という地名はか
なり重要になります。

なぜならば、それは「製鉄」
や「鍛冶」と密接な関係にあ
る場所であることを
示すから
です。

屋敷跡があったとされる「平
原」について、実は「正家の
墓碑」が発見された
のですが、
三原尾道バイパス(平成二十
四年開通)の道の駅建設の時
に、
あろうことか廃棄してし
まったとの噂です。墓碑があ
ったとしたら、幕末の
調査依
頼の歴史検証の検体となった
のですが、今度こそ本当に歴
史は
闇の向うに行ってしまう
ことを行政が行なったという
ことになります。


この地の「三原正家」は鎌倉
南北朝の正家であるのか、後
代の正家であるのかは不明で
す。
ただ、この地域は三原城が海
の中だった中世においても陸
地があった稀有な場所なので、
初代正家である可能性も否定
できませんが、後代正家(同
銘別人)の可能性もあるので、
今後決定的な史料が発見され
ない限り断定はできません。

さて、国道2号線を東に上り、
広島県内で一番古い神社であ
る糸碕神社に向かいます。

海岸べりの国道沿いに「糸碕
神社」があります。
鉄道の駅は「糸崎(いとざき)」
と正しく発音表記しています
が、行政は野暮なもので、町
名を「糸崎(いとさき)」と
読ませるように近年変更しま
した。
「高田馬場」は「たかたのば
ば」であり「たかだのばば」
ではありません。
あちらは駅名が「たかだのば
ば」であり、本来の地名とは
無縁ですが、その逆を三原市
の場合は実施してしまってい
ます。

「糸崎」という地名の由来は、
神功皇后の時代まで遡ります。
神功皇后は実在が確認され
ていない。明治期までは第15
代天皇とされて
いたが大正時
代に除外された。10名いる女
性天皇のうちの一人とされる。

実在不明のため生存および在
位年代が西暦では比定できな
い。「三韓征伐」
の頃とされ
るので、実在したとすれば西
暦201年~269年までの政事期
とする説もあるが、これは
神功皇后が卑弥呼であるとす
る説に因る)


神功皇后が西征の際に、船で
瀬戸内海を航海中にここ糸崎
に立ち寄り、木梨真人という
者が皇后に水を差し上げたと
ころ大変喜ばれた、ゆえにこ
こを井戸の浦、長井の浦
と称
し、以降「井戸崎」となって
それが「糸崎」の地名になっ
たという言い伝えがあります。
ええと・・・年代が西暦200
年代か、はたまた300年代か
も不確かなことでして、日本
という国は存在せず、文字さ
えも存在せず、列島の「倭」
にはクニが多くあって、後
の大和連合王権が建設される
以前の話でして、端的に言え
ば、伝承譚の範疇を過ぎず、
正史とすることはできません。
もっとずっとそれより一千年
後の「鎌倉・南北朝」時代の
「新しい」時代のことさえも
不明なことだらけであるのに、
卑弥呼前後の超古代のことな
どは考古学の分野でさえ「日
本の歴史」として「~だった
だろう」という範囲を超えま
せん。
一応正否はともかく『日本書
紀』によると、神功皇后は夫
で第十四代の仲哀天皇ととも
に九州のクマソ征伐に赴き、
夫の死後、北部九州を制圧、
男装して船団を率いて新羅を
屈服させて凱旋し、九州で応
神天皇を生み、ヤマトに帰還
して政敵を粉砕して摂政とな
り、以降69年間にわたり権力
の座に君臨したという女性で
す。う~ん(苦笑

不換紙幣である政府紙幣の一円
札。明治十一年(1878)発行。

外国人がデザインしたため、神
功皇后は西洋人風に描かれてい
る。
(古紙幣としての現在の古物売
買実勢価格約53,000円)


ともかくも、広島県内で一番古
い神社である三原市の糸碕神社
にはそのような神功皇后にまつ
わる縁起がある。
水を神功皇后に貢いだから「水
貢ぎ」となり、それが「水調ぎ」
となって「御調(みつぎ)」と
変化し、この一帯の広範な地域
は「御調郡(みつぎごおり)」
と古代に地名として命名され、
御調郡(みつぎぐん)は平成の
大合併の行政区画再編で郡部が
消滅するまで存在しました。
御調郡(みつぎごおり/みつぎ
ぐん)は、現三原市糸崎が地名
の起こりの場所でした。
三原と尾道に市制が施行される
のは三原が昭和十一年(1936)、
尾道が明治三十一年(1898)で
した。それまでは、どちらも御
調郡尾道町、三原町という行政
地名だったのです。
尾道は古代から栄えた町だった
のですが、市制が実施されるの
も早く、広島市に次いで県内で
二番目に市制が実施されました。
三原などの田舎よりも尾道のほ
うが明治の時代からずっとハイ
カラだったということです。

「御調(みつぎ)」と「木梨
(きなし)」という糸崎に興っ
た地名について「みつぎ」は
そのまま「貢ぐ」なのですが、
「きなし」はどのような意味が
あったのでしょう。
私は民俗学的には、「みつぐ」
という大和王権への恭順追従の
歴史譚との関連で、「きなし」
は「鬼無」ではなかったかと思
います。
古来からヤマト中央王権に抵抗
して破れた勢力がいた場所は
「鬼」「鹿」「蛇」「龍」「悪」
「悪衆」「悪衆和=吉和」等と
して地名がつけられてきました。
それらの抵抗勢力をすべてから
め取って制圧して大きく和(あ)
えたのが大和(だいわ)であり、
それに「やまと」という読みを
あてました。大和(やまと)は
まさに武力による「クニ」を征
服したウイナーとして君臨した
訳です。
ただし、最近の学説ではウイナ
ーではなく「ウイナーズ」であ
ったというのが主力で、「大和
朝廷」という表現ではなく、
「大和王権」や「大和政権」、
もしくは「大和連合王権(政
権)」というような表現がな
され、国定教科書でも順次記
載変更されています。
「朝廷」としての体裁と体制
が整うのは数百年後の律令体
制以降ですので、この最近の
歴史概念規定は正鵠を射るも
のだと私は思います。
木梨は鬼無であり、御調(み
つぎ)と並んで、中央王権へ
の恭順の意を示す何らかの出
来事が縁起だったのではない
でしょうか。

糸碕神社に到着しました。

崎の字が異なりますが、明治
までは日本国内には「音が同
じならばどの字でもいとわな
い」という文化がありました。
これは漢字自体が外国の文字
であるので、古代から続く文
化のひとつであったと思われ
ます。
しかし、漢字も特定事象にし
か使用しない特徴がみられる
場合もあるので、それにより
言語学では古代の音を知るこ
とができたりもします。日本
語が現代のように母音が五音
になったのはかなり最近のこ
とで、古代には八音あった等
の解析はこの漢字の使用パタ
ーンによって分析できたりす
るようです。
「日本」という読みも、当初
は「ニッポン」「ジッポン」
「ニホン」とあったようです
が、現在では「ジッポン」は
ほぼ死語化しています。ただ
し、中国語や英語圏は「ジッ
ポン」という読みから派生し
た「ジーペン」や「ジャパン」
を「日本」の読みとしています。
現在も日本国は正式には国号
を法律で定めておらず、あく
まで「事実上」の称号として
国の名を「日本」としている
だけです。ですので、読みは
ニホンでもニッポンでもかま
わないということが「正式」
となっています。法律の定め
ではなく、通念を
主軸に置い
た変わった国家といえるでし
ょう。
ですので、室町時代のように
日本を「ジッポン」と呼んで
も間違いではないことになり
ますが、現行では通用しませ
ん。これは「東京」がトウケ
イと呼ばれた一時期があった
のに現在ではすべて「トウキ
ョウ」が通念上遣われている
ことにも通じます。
そういえば、日本には法律上
定めた「首都」がありません。
東京はあくまで事実上の「首
都機能を置いた土地」という
法制上の概念になっています。
これも世界的に希有な面白い
国家体制だと思います。京都
が千年もの長きに亘り日本の
都でしたので、明治維新で首
都機能を江戸-東京に移した
とはいえ、制度上は「遷都」
ということを行なってはいな
いままで、現在は「日本には
首都なし」という法律上の解
釈になっています。


神社正殿に行く前に、参拝者用
駐車場の裏に気になる祠があり

ました。





ただならぬ気配。

石灯篭を見ると・・・





「元禄二己巳年
 備州三原糸崎八幡宮石燈籠
 奉進之 同所東町主■九兵衛」
とありますが、■部は判読不能
ですが「只」とも読めます。
「つちのと み」ですので西暦
で1689年になります。神社の起
源が天平元年(西暦729)年で
すから、神社ができてから960
年後に建てられた石燈籠という
ことになります。
江戸時代の初中期の元禄時代な
どは、神社の歴史からすればつ
いこの前のことです。

さて、正殿に参拝する前に、神
社正面の歌碑について興味がそ
そられました。


万葉の時代に「長井の浦」と詠
まれたのは、ここ糸崎であった
とのことです。



万葉集っていつごろ?
とお思いでしょうが、忘れてる
人多いだろうけど、意外と後の
時代だったのです。

7世紀から8世紀にかけて編集さ
れた現存する日本最古の
和歌集。
特徴的なのは、天皇や貴族だけ
でなく、下級官人や防人(さき
もり)
などの軍人たちまであら
ゆる階層の人たちの和歌が4500
首以上も
集められて編纂されて
いること。

成立は天平宝字三年(759)以降
とされていますが、詠み人の
出身
地も記載されているので、日本の
文学の第一級史料であるばかり

なく言語学のうち方言研究の重要
な史料ともなっています。


私は個人的には、万葉集の歌は
人間性がとても感じられるのが
好きかな。

ことさらに華美でなく、素朴な
当時の人々の大地と海に根付い
た国風情念
が古雅な風情を伴っ
て朴とつと詠まれる。そういう
感じがとても好きです。


「帰るさに 
妹に見せむにわたつみの

 沖つ白玉 拾ひて行かな」
とあります。
万葉集ですねえ。必ず家族や
恋人への情念を歌いこみます。

万葉集は日本のブルーズです。
この歌は万葉集の3614番で、
巻十五に収められており、天
平八年
(736)に遣新羅使が
鞆の浦(現広島県福山市。『崖
の上のポニョ』の
舞台地。備
後刀工群がここでも鎌倉~南
北朝期に鍛刀した)を経て長
井の浦
と呼ばれた糸崎で船泊
りした夜に詠んだ歌とされて
います。

この長井の浦の地で詠まれた
とされる歌には他に二首があ
ります。

あをによし奈良の都に行く人もがも草枕旅行く船の泊り告げむに(3612)

海原を八十島隠り来ぬれども奈良の都は忘れかねつも(3613

さて、この3613の歌の意味は
「たくさんの島々を通って海
原を渡って来たが、奈良の都
のことが忘れられない」とい
う都への思いを詠ったものです。
この三種の題詞には「備後國
水調郡(みつぎのこおり)長
井浦に舶を泊めた夜に作る歌
三首」と万葉集には書かれて
います。
ここで3613について、何かを
私は思い出してしまいました。
それは小野篁(おののたかむ
ら。802~853。小野妹子の六
代孫。文士ながら弓馬に長じ
嵯峨天皇から「武士にでもな
るつもりか」と嘆かれる。文
才に優れながらも反骨の人に
て野宰相、野相公、野狂とも
呼ばれた。遣唐副使に任ぜら
れるも正使藤原常嗣に逆らい、
天皇の逆鱗に触れて隠岐の島
に流罪。後赦免されて中央政
界に復帰し参議に。元春日氏
和邇氏が祖。小野氏は本間、
海老名、愛甲氏の祖
)が詠ん
だ歌に酷似しているからです。
篁が詠んだ歌は百人一首の第
十一に収められています。

わたの原八十島かけてこぎ出ぬと人には告げよあまの釣り舟

似ているでしょう?
小野一族は春日氏-和邇氏で『新
撰姓氏録(しんせんしょうじろ
く)』によると皇別にはなって
いますが、もともとは百済系の
渡来人であったと思います。西
暦でいうと100年代あたりから
段階的渡来して帰化して大和王
権の中央に入った日本人。
元々は扶余族というツングース
系の北方大陸民族ですが、王族
に属した半島の大陸族ですので
皇系同族ということからか大和
王権では積極的に登用されてい
ます。外国語に堪能だったから
か、大和王権では外交官に多く
が和邇-小野氏は登用されていま
す。筆も立ち、文学もできるか
ら文人も多かったようです。
篁の遣唐使の約100年前の遣新羅
使も小野氏のだれかがこの3613
番の歌を詠んだのではなかった
ろうか。篁なら当然それを知っ
ていた筈で、自分の歌は後年そ
れをベースに詠んだとみること
もできます。
そして、篁のこの歌は、一般的
には日本文学界では都から配流
の悲嘆を詠んだ歌、とされてい
ますが、篁はそんなセンチメン
タルジャーニーな男ではない。
あれはただで転ぶタマではない。
野狂ですよ。
この歌をおセンチな歌とするの
は、一般的な歌だけを見た解釈
の仕方。
単語一つ一つの意味を解析する
と、アマ族への反乱の狼煙を上
げよとの暗号檄文であることが
解る。でもそれの解析説明は、
別な機会に。
ただ、小野篁が島流しでオヨヨ
と都をなつかしんで嘆くなどと
いうタマではないことだけは文
学者たちは押さえておく必要が
あると思う。
逮捕されて島流し食らっても権
力者の専横への反骨心は消えな
いもの。
なんたって、京都六道珍皇寺の
境内の井戸から自由に魔界とこ
の世を行き来して閻魔大王と昵
懇だったとかの伝説が生まれた
り、文字通り野人で反抗的で天
皇にまで反抗するような人間が、
島流しでオヨヨと泣き崩れなん
てことは間違っても絶対にない。
一族末裔は武蔵七党の鎌倉武士
団となって鎌倉方最強軍団だっ
た訳だが、その祖とされるから
というのを差っ引いても、篁存
命当時の逸話が常軌を逸したも
のばかりで、ただの感傷に浸る
ような素直な人間じゃないこと
は小野篁を少し知ればすぐに理
解が及ぶように思えます。


映画『マイ・バック・ページ』予告編

2014年01月01日 | open

映画『マイ・バック・ページ』予告編


知らぬ仲ではない元朝日ジャーナルの川本さんが書いた原作でもあるし、
昔、四半世紀以上前、前職でいろいろ当該事件の裁判書面を詳細に読まざるを
得なかった
ので、今でも生々しすぎて見る気はなかったが、少し時間が過ぎて
「観てみよう
かな」という気になっている。
ただし、相当な決意をもって観た立松や若松(ダブル松やな)が描いた「映像」も、
私が知る現実とはかなりのズレが
あった。やはり現実に起きたこと(それは
裁判調書においてすべて明らかに
なっている)と、「映像作品」は大きく異なる。
ただ、この手の映画作品は、
感想としては立松よりは若松は肉薄していたし、
佐々のはいつもの調子の極めてアホチックな
独善的な自分自慢で映像作品と
してもノンフィクションとしても論外、という感じだった。

この『マイ・バック・ページ』で描かれている(だろう)事件は連赤とは違い、
かなり実体としてはキクイにしろアオトにしろ、現実世界での関係者に虚飾性、
虚言性が強いことを
知っているので、観賞後に現実とのギャップに苦しまな
ければよいのだが・・・。


公開時、友人に誘われたが、劇場に観に行くことを拒否していた。
このような映画は、同時代感覚を有しない人間と一緒に観ても、作品が
どうか以前に、その同行者に対して不愉快になるのがオチだからだ。
どうせわけわからぬトンチンカンな感想(しかも憤慨ぎみに)を為すのは
目に見えている。

一年以上経った今、一人で観てみようかという気になっている。

『マイ・バック・ページ』オフィシャルサイト

予告編で彼は言う。
「我々は、今度の決起でようやく三島由起夫に追いついたんです」と。
そして、別な彼は言う。
「教えてくれよ。君らが目指したものってなんなんだ」と。
本来、この時代にあって「君ら」ではないだろう。
総体としての「我々」だろう。
「我々」とは「わが一派」という意味では勿論本来ない。
だが、多くの「彼ら」は「我々」を「わが一派」としたがっていた。
過激なことをやればやったもの勝ち、という感性が確かにあった。
それは右も左もそうだった。
ここにこそ、自己閉塞と大衆からの乖離という大きな落とし穴があったと
いうのに。

(ちょっと・・・かなり脱線するが、『マイ・バック・ページ』オフィシャルサイトのメイキング
動画にこういうシーンがあった。



各派の兜の字体はリアリティがないが、色分け等はどうにか再現している。
だが、反帝学評=青解の被り物が水色なのが解せない。本来は紺色に近い青で
ある。これは、映像動画等で残っている光度を上げて白んだ資料を参考に小道具
さんが色を塗ったからであろうことが想像できる。さらにゲバ字フォントは68年東大
以降には、字を見ればすぐに何派か判別がつくほどにすでに各派の独特の字体=
個性が出来上がっていたので、それを再現しないのはおかしい。その点、かわぐち
かいじの劇画『メデューサ』はウルトラリアルである。

そして、銀兜が手斧持ってないじゃないか。ふざけんなよ。リアルに描けってんだ。
銀は手斧だよ、手斧。中核や青解とやるときも右翼相手でもこれだよ。これで神大でも
明学でも
全戦全勝だったんだよ。法政からは白に叩きだされたけど。その後は、鉄パイプ
なんて
甘っちょろい物はメットで弾かれるから、鉄板3段溶接の獲物を発明したのも銀帽だよ。
これだとゲバの時にメットに一撃で沈み込むから。それに、銀は兜の被り方も厳しくて、
ちゃんと機能するように目深に被るんだよ。一人「女の子被り」してるのがいるが、
これは銀に限ってはあり得ない。  (と古い大学OBから聞いたことがある。私は60年
生まれなのでタイムリーにはよく知らない。ただ、同世代の小峯隆生が言うように、都内
首都圏は「準内戦状態」だったことはよく覚えている)



ただし、総体として、1970年前後に変革と解放を求める巨大なうねりが、
日本だけでなく全世界であったことだけは揺るぎない歴史的事実である。

(日本の1968年)


(68年の神田カルチェラタン)


(都心での投石戦。一般市民も投石に参加した)


(機動隊は捕えた学生たちを防石盾の前に立てて自分らを守る人柱とした。
当然、権力の捕虜となった学生はズタボロに警官によって半殺しの目に遭い、
さらに警察によりこのような扱いを受けた。やがて人柱の学生はぐったりとして
動かなくなる。投石は学生市民だけでなく、機動隊もガス銃や劇性化学物質入り
の放水だけに留まらず積極的に学生市民に対して石を投げた。この神田の一戦
において、当時日大生だったテリー伊藤氏は眼球を深く負傷した。石は人類が
最初に手にした武器である。投石用の石は歩道の敷石をはがして割って作った。
それを前線まで運搬するのは主に女子学生の役目だった。男女の差なく、女子
学生も多く反戦闘争に参加した)



(丸太を抱えて肉団勇士となるべく中央大学を出撃する学生)


(主要幹線道路は人々で埋め尽くされた。60年代末期の街の陽炎)

(アメリカ合衆国)
 ウッドストックも単なる音楽祭ではなかった。


(1968年フランス)


(特にフランスのパリのソルボンヌ大学ナンテール分校から始まった学生反乱は
フランス全土に飛び火し、フランス教職員組合はゼネストを呼びかけ、労働者
総決起となってフランス五月革命となった。市街地カルチェラタンは道路封鎖
され、敷石がはがされ、労働者・学生の投石により機動隊と激しい闘いがくり
ひろげられた。フランス第二革命の一歩手前まで進んだが、労働者学生側が
敗北。しかし翌年ドゴールを退陣に追い込んだ)

日本の大学でも、10人いたら8人までが学生運動に参加した、そんな時代
だったのだ。高校生、中学生たちも参加した(麹町中全共闘だった保坂は今
選挙で選ばれて世田谷区長になっている。さらに、防衛庁長官だった自民党の
加藤はさらに古い時代の60年安保では東大ブント=共産主義者同盟だった)。
かつての左翼系学生運動経験者は、4学年と時代的積層を計算すると、日本国内
において数千万人いる勘定になるだろう。
「大衆的参加」の浮動層ではなく純然たる党派としても、中核派だけで今も2万人
いると誰が知ろうか。(私個人はチュン白はZや青と共に大嫌いだが)
それほど大きな「うねり」として「政治の季節」があった。活動家ではないにせよ誰でも
ベトナム反戦デモくらいは参加していた。北野たけしは、三宅ゆうじと同じく赤い兜で
デモに参加していた。三宅は落研なので「アンポ粉砕!インポなおせ!」とかデモ
コールしていたら指揮者に「こらー!そこ、まじめにやれ!」などと叱られたりした。
時同じくして青学の赤帽のキャップ-洒落じゃないよ-だった本名會泰通は、今は
物知り顔で詰まらない落語を円楽という高座名で演っている。その円楽と同じ派
だった早稲田出身のWは私の高2の時の担任だったが、今は何をトチ狂ったか
ほとんどが東大に進学するという都内有名私立高校の教頭なんぞをやらかしている。
現職がどうであれ、多くの人が社会的な運動に関わった。私の居合や剣術の先輩
たちの中にも運動に参加した人が多くいる。曰く「日本武術は右翼の所有物ではない」
とのことだ。

ことの善し悪しはどうであれ、1970年代頃までは、18歳で大学に入った若者
たちは、自己と政治と社会と世界との接点を密接に感じ取って何かに向かって
生きていたのだ。学生には社会問題を鋭敏に感じ取る若者特有の先駆性が
あったのである。そして、他人事で見て見ぬふりはせず、積極的に自分から
嵐の中に立とうとした。
いや、むしろ、プロレタリアートではないプチブル・インテリゲンチャである学生は、
階級ではなく「層」として、鋭敏な感性に基づき、情報発信源として労働者階級に
警鐘を乱打するその先駆性こそが唯一の拠り所だったのである。
その意味においてのみ、学生には労働者階級の「前衛」たりえる素地があったと
いえるだろう。
今の大学生さんは・・・中学生みたいね(しかも中1あたり)。
学生のことを「生徒」と間違えて呼んだり、教授陣や講師たちを小学校の教師
感覚で「先生」と捉えたり。
先日、「宿題忘れて先生におこられた」とか言っている大学生を見て、正直私は
唖然とした。
10代、20代前半なのに自分たちが世界を変えようとしていた、体を張って血を
流しても自分が社会の主人公になろうとしていた、というのは幕末志士の時代
から1970年代までで完全にストップしたような気がする。
そういや、最近、高校生もなんだか小学生みたいだもんなぁ・・・。
いい大人もジャーナリズム誌ではなく、美少女アニメやアイマスやAKBに
夢中なんだから、時代なりか。そして、ネトウヨ大集合、思考停止バンザ~イ、
てな感じでしかたないね、ニッポンは。
あの石原慎太郎でさえ、60年安保の時は安保条約に反対して安保闘争に
参加してたなんて、今となってはたれが知る(笑)

この手の映像作品で、現実とは遊離しながらも「作品」として当時の時代性を
的確に捉えて描いていた作品は宮崎あおい主演の『初恋』だった。
ストーリーとしてどうかではなく、「空気」としてかなりリアルで不気味だった。
あの作品で登場した小出恵介演じる主人公「岸」も藤村俊二演じる「バイク屋の
オヤジ」も、いわずもがな、「消された」のだろう。
こうしたことは、現実社会でも「よくあること」だ。
それが見えた時、あの『初恋』は、ヒタヒタと身近に姿を隠して迫る権力の恐怖の
現実味を帯びてくる。
権力にイデオロギーはない。ソ連も権力の権化だったし、民衆の利益とは反する
存在だった。
日本人はいつのまにか、現行権力にひれ伏すことが美徳のような感性を植え
つけられて、それが骨の髄まで沁み込んだ。

でもこんなジャパンでも、若い人たちは思考停止+差別排外主義者の
ネトウヨばかりではない。
今の原発問題でもそうだが、イデオロギーではなく、本当に未来への生存を
かけて懸命に訴えている若い子たちがいることを見ると目頭が熱くなる。
まだまだ、日本も捨てたもんじゃない。おれらおっちゃんたちもシャンとせんとな、
と思う。



画像はこちらのブログから無断拝借しました。 ブログテンプレが私と同じなのは
単なる偶然です。

それにつけても得意の掌返しで原発容認のハシモトは許し難し。
恥ずかしいことだなぁ。政治屋渡世とはいえ。
核廃絶無理発言にしてもアホかっつーの。
目標定めてそれに向かってなんとか人々が知恵を出し合って努力することを
放棄して、目先のことばかり追ってどうするのさ。
いつもやつは目先のことばかりを追っていろいろ言い回ってるけどね。コロコロと
主張を変えながら。
だから嫌いなんだよ、俺は。弁護士時代から。
それに「相続税100%」なんて、おま、それはなんぼなんでもアカンやろ。
日本人は全員が借家住まいの無産階級じゃないんだから。
維新の会、アウトやん。もっとも、死んでも橋下党には投票しないけどね、わしは。
政局は93年の再来だと思うので、どうなるかわからんけどな。