さて、糸崎神社の入り口近くに
は石燈籠や石碑が多く建ってい
ます。
阿波の国の人からも寄進されて
いる。
住吉大明神
八幡大神
とあります。
住吉は底筒男命を祀り航海・海・
和歌の神で神功皇后の航海と縁
がる船泊には必ずありますね。
八幡は誉田別命を祀り文武の神
となっています。
これは侯爵浅野氏の筆による石碑。
うちの殿さんですね。
糸碕神社に参拝します。
手水の石は寛政四年(1792)
の物。
松平定信の寛政の改革覚えて
ますか?
おさらいで調べ直しました。
・囲米
・帰農令
・棄捐令
・株仲間廃止
・人足寄せ場設置
・七分積立
・寛政異学の禁
・処士横断の禁
・寛政重修諸家譜編纂
基本的には重商主義を押さえ
て、蘭学を否定して、身分制
度の徹底を図ろうとした政策
でした。
経済体制も商人を弾圧して武
士の特権優先で、国内の治安
取締体制も秘密警察主義のよ
うなことをやっていたので、
暗黒時代だったのでしょう。
この頃から江戸幕府の矛盾が
一気に加速していく。
いつの時代もゲシュタポ政治
が長く続くわけがない(苦笑
松平定信は数年で失脚。
さて、手水を使った後、お参
りします。
糸碕神社の鳥居をくぐると・・・
(私初めてここに来ました)
あれ?これはどうみても武家の門。
む、これぞ武門の家の武門にござる。
なんと、やはり武家門でした。
なんかそういえば、ここに移
築されたとどこかで読んでた。
私としては、この鉄がお宝に見える(笑
広島藩士の生駒氏は幕末~明
治の藩士録によると
・生駒九兵衛(分知の際附人)
・生駒助右衛門(無役士族)
・生駒清十郎(寺西左源太組)
・生駒平兵衛(寺西左源太組、
寺西清左衛門組、寛永元年
普請奉行)
・生駒与兵衛(分知の際附人)
がみられますが、これほどの
門構えの屋敷ということはか
なりの高禄の武士だった筈で、
どの方の家がそれにあたるの
かは判然としません。普請奉
行というのは広島本藩ではな
かろうか。
いずれにせよ、明治八年に広
島県士族生駒家より屋敷の門
がここ糸碕神社に寄進されて
神門となったということです。
正殿の右には糸崎の地名にも
なった長井の浦の井戸がある。
画像では見えませんが、内部
は石造りの丸い井戸です。
これは中世の山城である桜山
城(山名氏の城)の山頂にあ
る井戸と同じような形式でし
た。
正殿左には土俵があります。
圧巻のはこの楠。
実際に見ると圧倒されます。
こんな根本が球根みたいに太
いクスノキはあまり見ない。
岩みたいです。
正殿です。
なんとお百度参りのための勘
定そろばんが。これも鉄製。
さて、正殿の右側には奉額堂
があるのですが・・・。
ここはかなり感動した。
武術の稽古できそうな板敷で
すね。
飛行機の木製プロペラ!
大正三年に神社に三原城主元
浅野家筆頭家老の刀が奉納さ
れています。これは本当に宝。
こちらは明治期の掲額。小野
流の佐佐■某の額ですが退色
して読めません。
別な場所には天保年間の額が
奉納されています。
なんとか読める。
「天保十四年(以下略)奉懸
小野流 比山並右衛門 追
ひ一門」とあります。
西暦1843年ですね。1843年の
額と木刀ですよ、これ。沖田
総司が生まれたのが天保十五
年で、土方さんが天保六年生
まれで、近藤さんは天保五年
生まれです。近藤・土方が8
~9歳の時ですから、今でい
う小学校2~3年の頃。
彼ら武州多摩の土手でツクシ
取ってた頃かな。
その頃の三原藩領の小野流剣
術柔術の一門の額です。
ちなみに比山という名字は藩
士録にはありませんので、浪
人扱いか郷士かあるいは家老
の家臣=陪審のまたものであ
る可能性があります。
もしくは、土方さんたちのよ
うに百姓階級だったか。
広島藩領でも武術が盛んで、
特に三原支城領内では武術が
本藩以上に盛んでした。武士
だけでなく郷士や近在の百姓
たちも武芸にいそしんだよう
で、特に体術などは農民たち
も盛んに学んだようです。
武士がほとんどいない尾道で
も柔術や総合武術は盛んでし
た。
三原の「小野流」を修めた人
物としては、三原藩士(本藩
安芸広島浅野家家中とは別に
三原を藩と俗称して三原藩士
と呼ぶことも通例としてあり
ます)に佐々木忠蔵孝信とい
う武士がいました。小太刀・
大太刀、二刀を用いる流派で、
門人に佐々木仲蔵為継、坂田
弥四郎などがいました。
三原といえば槍の佐分利流が
有名ですが、三原のほうが鍵
槍の本伝を伝え、広島本藩の
ほうは大長身槍を使うという
変則になっており、本藩のほ
うが分派系となっています。
これ面白い現象。
神社の宝物殿?前には雨に打た
れて錆ついた看板あり。
浅野長門守忠真とは三原浅野家
の三代目城主のこと。
この殿さんの側室は徳川家光の
娘で三原浅野四代目忠義の生母
である月渓院という女性です。
月渓院の墓は城下恵下谷の大善
寺で、五千石の御化粧料が下賜
されて、将軍家菩提寺である増
上寺の寺号を賜って増上山大善
寺と名乗り、三つ葉葵の使用が
許された。
月渓院どのについてはちょっと
した熱愛エピソードがあって、
江戸城内で浅野忠真に一目惚れ
した月渓院どのが、周囲になん
どもなだめられたけど思いを曲
げなかったので、「下賜」とい
う形で忠真どのに側室として輿
入れした。
恋愛結婚など許されなかった時
代に、すごく情熱的です。
そして、長門殿はかなりの男前
だったのだろうと思う。江戸城
内で遊ぶ姫に危ないよと声をか
けての一目惚れとの伝あり。
その長門さんが磨り上げ物と思
える古刀をここ糸碕神社に奉納
している。丁子刃だから備前一
文字あたりか。
奉納刀だけど、こういうのは是
非とも、博物館などで公開して
ほしいと思ったりする。
ということで、糸碕神社を後に
します。
次回の歴史散歩三原紀行は三原
城探索の予定です。
寺が多いから寺めぐりも面白そ
うなんだけどね。
おいら、抹香臭いのがどうも苦
手でして(笑
江戸初期には三原城下の西端が
西野村川(現西野川)で西の守
りとしていましたが、築城から
江戸正保期にかけては今の西野
川は存在しません。現西野川か
ら西は海でした。
宮浦(宮ノ浦)新開=宮沖新開
が開かれた元禄期に現行につな
がる西野川が引かれ、現在の市
街地である宮浦と宮沖地区の陸
地が出現したのでしょう。
(↓城下西岸の青線が現西野川。
赤丸地域が流域)