この頃の千夏ちゃんがめっちゃ
良かった。
1969年。
東大安田砦陥落の年のヒット曲
だ。
中山千夏は反戦平和の使者のよ
うなイメージがあった。反代々木
系の。
「フランシーヌの場合」の新谷
のり子さんは完全に真っ白の
センターコア派で、中島みゆき
さんはそこと対立する白地赤
線Z派だった。
千夏ちゃんは、どちらかという
とノンセクト系の平和使者の
イメージ。とことん市民派だ。
実際に現実もそうだった。
国会議員になったあとも。
文筆家をはじめとする左翼
文化人だけでなく、俳優、
声優、映像製作者の中にも
多くの根強いファンがいた。
この人の60年代末期のピュアさ
は格別だったのは真実の歴史だ。
この曲にしても、単なる恋愛歌
ではない事は、当時の時代を生
きた人たちは即座に理解できる
事だろう。暗喩が含まれている。
時代というものは恐ろしいもの
で、同時代性を獲得できない
世代は、中島みゆきの「時代」
さえも単なる恋愛歌だと思い込
んでいたりする。下手したら、
同人の「世情」のような直截に
動乱の60年代末期をうたった
曲さえも単なる人々の行き違い
だけと捉えかねない。
「シュプレヒコールの波
通り過ぎて行く」
という直接ズバリの歌詞が
あるにもかかわらず。
中島みゆきさんはドロドロした
世情を抉り出す事を曲でやって
のけた人だ。
1960年代末期からの抵抗的音楽
シーンが現実社会変革運動の
敗北後に、ほぼ全員が閉塞的個
人主義に走った。
それゆえ四畳半フォークが大流行
した。社会や時代をうたうので
はなく、ごく小市民的な個人恋愛
に矮小化させた曲、逃避的な世界
観が流行ったのが72年オキナワ
以降の日本だった。
それが数年続くが、中島みゆき
が「時代」をひっさげて世の中
に喝を入れた。
明らかに1969年前後の大学生を
中心とした若者たちの鋭敏な感性
に基づいた真心で行動した時代へ
の讃歌として。
それは、「いちご白書をもう一度」
のような懐古趣味に流して免罪符
を得ようとする欺瞞ではなく、
「例え今夜は倒れても
きっと信じてドアを出る」
という、ど真ん中の魂をつきつけ
て。
それが中島みゆきだった。
中山千夏は女優だったが、当時
のアイドル的存在でありながら
も、しっかりと地に足の着いた
社会と人を見つめる一人の社会
人として生きた俳優であり、歌
手だった。
もう、半世紀以上が過ぎた。
今の時代、人が戦争で苦しもう
が体制迎合派ばかりが大手を振る
世の中となり、千夏ちゃんや中島
さんのような存在は新規には
殆ど出てこない。(1980年代
にはパンクや忌野清志郎たち
が抵抗戦線として気を吐いた)
出て来たら潰されるのだろう。
ジャニーズのセクハラパワハラの
圧殺権力のような芸能界の黒い
闇の力によって。
今、この国の人びとは、圧殺の
森の中に生きている。