日本刀の古刀の特色について、このページはよくまとめられていて
とてもわかりやすい。便利だ。
たとえば、私が一番好きな粟田口の刀剣とはどういうものかというと、
こんな感じ。
「京都の粟田口において鎌倉時代初期から中期にかけて活躍した
刀工群を指し、国友を長兄とする久国・国安・有国・国綱の六人兄弟
を始め則国・国吉・吉光等の名工がいる。優美な太刀姿、「鉄色青く
刃白し」と評される様に梨子地の鍛えに上品な直刃を焼き格調の高い
作品が多い」
さて、この解説で「古三原」を見ると、以下の通りである。
(『刀剣要覧』第22版/飯村嘉章著 )
「三原派は備後国三原の地に栄えたが、その中でも鎌倉末期から南北
朝期にかけてのものを古三原と総称しており、正家・正広・正光・政広等
がよく知られている。作風は大和気質が色濃くうかがわれ、直刃調の物
が多いが、大和本国に比べて地刃の沸がやや弱く、鍛えが杢立ち、白け
映りが目立ち、帽子も直ぐに丸く大きく返りおとなしいものが多い」
とある。
三原というのはどこ?
鎌倉南北朝時代には「三原」という地名の場所は存在しないし、現三原の
ことを言っているのだったら、その当時は大きな入り江で海の中だ。
三原城が築城されたのは戦国時代末期だが、その時でさえ現三原地区は
沼田川の河口部分の入り江が現海岸線から数キロも奥に入り込んでおり、
完全に現在のような陸地ができたのは江戸初期以降のことである。
もっとも、沼田川流域は急激に土砂が堆積して飛び地のようなデルタが
形成されており、中世から「沼田市(ぬたいち)」があった。現在の河口から
数キロ内陸部が「沼田」の地であり、名の通り沼のようなデルタ性の土地
だったことだろう。
どの刀剣書でも、「三原派」の刀鍛冶については「鎌倉末期から南北朝に
備後国三原の地で栄え」という趣旨で解説している。
これは、歴史的事実とは反している。
鎌倉・南北朝時代に三原という場所はないのだから、これまでの刀剣書の
表記は悉く適性を欠く、というか事実無根の刀工群をでっち上げていたことに
なる。
正確には、戦国末期までは「三原」という鍛冶集団は存在せず、備後国ヤスナ
ゴオリ(安那とも書くのでアナとも読め、古代製鉄と関与か。事実、環頭大刀が
出土した古墳に隣接して国分寺と国分寺尼寺が建立され、備後助国がその
近辺の「東条」に住したと古剣書にあり)とアシダゴオリの法華一乗、そこから
古代湊である鞆ノ浦(『崖の上のポニョ』のモデル地)、さらに西に進んで尾道を
中心とする地区、等々に散在していたのが初期備後国の刀工群なのだ。
現在地三原の土地はただの海であり、「三原」という地名さえない。漁村にさえ
なっていない寒々しい所になぜ一大刀工群が栄えることがあろうか。しかも
今の三原は奥深く広い湾であったのだから。
「三原派」という概念を最初に持ってきた人は、三原の地がかつては海で
あったことを知らなかった者たちだと思われる。
それは、地質学や歴史学が存在しなかった前時代の人たちがそうであったし、
前代からの「言い伝え」を何も検証しようともせず、盲信して断定した戦前から
戦後の刀剣界の「権威」の学者たちがそうだった。
「古三原派」という刀工群は存在しない。あえて言うなら「尾道派」だろう。
ただし、戦国末期に三原城が築城されて城下町が完成して以降は三原にも
刀工が何名か存在した。尾道あたりから招聘されたのかもしれない。
「古三原」という区分けが刀剣界には厳然と存在する。
それが当たり前の常識になってしまっている。
だが、「みわら」と呼ばれた鎌倉・南北朝期の古地名がどこかにあるのなら
別だが、現在の三原を想定して「古三原」と呼ぶのであるなら、それは大きな
歴史的誤謬である。はっきしいえば間違い。捏造。
そろそろ、日本刀界は、地質学、歴史学、考古学的におかしい間違いを
正すことが必要なのではなかろうか。
繰り返す。
鎌倉・南北朝時代に「三原」は存在しない。土地も刀も刀鍛冶も。
作刀地は別な場所だろう。鎌倉・南北朝時代の作に「三原住」と銘を切った
物がないことがそれを証明している。海の中だからあるわけがないし、
「三原」という地名はかなり後代に発生したものだ。つまり、現三原の地に
「原」という地面ができて以降のこと。ずっと海岸線で入りくんだ湾に
原などはない。現地を踏査すると直ぐに判明するが、猫の額のような谷だけ
である。
両山の大先生方はきっと三原のような田舎を己の足で歩いて調査などした
ことはないのだろう。
だが、どんな大家であろうとも、どんな「正統」とされた伝承であろうとも、誤りは
誤りである。
鎌倉・南北朝期に「三原」は存在しない。
刀(太刀ではない)
銘 表「安芸国大山住仁宗重作」
裏「天正八年二月吉日」
さらに、刀剣書では古刀期の安芸国の刀工を無視し、さも安芸国に刀工が
いなかったかのように無記載の書が多くある。
古刀期の安芸国には筑州から移住してきた左(さ)系の通称大山鍛冶が
山陽道沿いの山中で鎚をふるった。大山とは、山陽道を下ると安芸広島に
入る最後の峠のある低い山のことである。山陽道はこの山中を通って
いた。
安芸国大山(おおやま)方面に上る12月の月。広島市内側から私が撮影。
旧山陽道はこの山中を通っていた。
地図上では道が途切れている。これは現在、徒歩でも通行困難なケモノ道に
なってしまっているからだ。かつての主要街道とは思えない状態なのだ。
この赤点線の街道山中に大山鍛冶は住したが、なにかと不便だとのことで
戦国末期には現在の上瀬野町まで山を下りてきたとの伝承があり、墓碑が
ある。大山鍛冶の後代宗重は名を「延道彦三郎」とすると伝えられ、この延道
が苗字であるのか何かの符号であるのかは明らかになっていない。そうした
点は尾道鍛冶の「辰房」に似ている。苗字であるならば「エンドウ」もしくは
「ノブミチ」であろうが、漢字は音さえあっていれば表記にはこだわらないという
旧来の日本文化の一つとして宗重派が使用したと考えれば、「沿道」という意味
で使ったという仮説も成立する。
これが現在の旧山陽道大山である。江戸時代には、ここを大名行列が往来した。
大山宗重の作風は二王(周防国)および末三原(これは「古三原」とは異なり
三原・尾道に実在した鍛冶群)の作と酷似している。
大山宗重は広島県重要文化財に指定された作もあるが、残念ながら
県内での保有数が少なく、私の刀は県内18口目として登録された。
(刀剣登録証は神奈川県)
これはあくまで想像だが、私の推測では、無名だった大山鍛冶は
その作風から、銘を消されて「三原」に極められた物が多かったの
ではなかろうか。実際に中心を見なければ「三原」との区別はつかない。
宗重のうちの一人は備前まで鍛冶修行に出たという伝承もあり、
街道沿いの備中青江・備後東部鍛冶(法華派や尾道派・三原城派)
との何らかの技術的な交流があったことが想像される。
安芸大山宗重は、鉄味もかなり備後刀に近い。材料も同じ系統では
なかろうか。
日本刀の業界は「古三原」「古三原」と簡単に言ってしまっているが、
それは明らかな誤りなので、概念そのものを捨てて、言語も使用停止
すべきだと私は考える。
私は、それらの作については、「古備後」と訂正呼称するのが正しいと
思料する次第だ。たとえ重要文化財であっても。
こういう「三原」に関する誤謬を指摘して明言しているのは、インターネット
上では私ともう一人しか見たことがない。
だが、斯界全般の「三原」に関する認識は明らかな誤りなので、正すべき
だろう。
しかし、刀剣界の大多数は、江戸期の新刀特伝工法を「日本の伝統的な
技法」として頑なに自己検証しない体質だから、正しい歴史認識は無理かも
しれない。
平安末期から鎌倉・南北朝期という古刀の中の古刀の再現は、材料よりも、
技法よりも、まず固着した固定観念という思考停止を自らの手で解体する
ことから始めないとならないのではなかろうか。
炉も解体しないと産まれた鐵は取り出せない。
DVDの映像をチェックしていて、ふと疑問に思った。
上意討ちのために立つ前夜、清兵衛は刀を研いだ。
それを清兵衛の幼い娘以登(岸恵子)が回想しながら語る。
「異様な音がして、その音で私は目を覚ましました。
音のする方を見ると、父が土間で刀を研いでいました。
その姿は、いつもの父とは到底思えないほど不気味でした。
あの夜の光景は、今でもまざまざと覚えております。」
清兵衛は小太刀の名手で、差し料も薙刀直しのような豪壮な脇差だ。
刃の状態を精査する。
それを研ぐ。砥石は1000~1600番程度の青砥か。
ここは斬るための刃をつけるから、カマボコ形でなく平砥石で正しい。
しかし、どう見ても、平地を研いでいる。
さらによく見ると、刃先が浮いており、これでベタ研ぎしたら
鎬地を蹴りまくってしまう。
しかし、研ぎ具合を見る場面では刀の平地はツルツルで仕上げ化粧研ぎ状態。
これは絶対にあり得ない。
さらに、物打(ものうち)付近を研いでいく。
刃を立てた後に寝た刃を合わせるのが目的だろうが、どうも解せない。
寝た刃合わせならば、音声もこのような包丁研ぎのような長いストロークで
荒砥のような音はしないからだ。
これは監督はじめ演出の方々が実用刀剣に対しての知識が乏し過ぎるから
起きた誤謬だと私は思う。多分刀とは常に美術刀剣のような化粧研ぎされた
状態だという刀剣に暗い人特有の固定観念があるのではなかろうか。
刀剣を扱う人でさえも、刀の焼き刃を白く化粧研ぎで刃取りした部分を
刃文だと思っている人がかなり多い。刀術高段者でさえ、刀の焼き刃がどこで
あるのか皆目見当がつかないという刀剣について無知な者も多い。
刀剣のことを詳しく知る人は意外と少ないのだ。
大多数の現代「剣士」たちでさえも、刀のことをほとんど知らないのであるから、
一般人が詳しく知る筈もないのかもしれない。
そして、清兵衛は研ぎ上げた小太刀抜いて稽古し、上意討ちの
討手(うって)の役目に備える。
まさにこの清兵衛が差し料を研ぐシーンこそ、この作品のポスターや
DVDの表紙になっている。
しかし、「不気味な」斬るための白研ぎをしたはずの刀の刃文部分の
化粧研ぎの刃取りが綺麗に出ているのだ。
細かいことではあるが、こういうのはとてもおかしい。
例えば、ドリフトで秋名を走りまわったハチロクのタイヤが新品そのもの
であるくらいにおかしい。
とても大切なシーンだけに、演出にはこだわってほしかった。
だが、ここで映像表現の齟齬を読みとる映画好きの視聴者は見逃さないだろう。
このポスターで清兵衛は目釘を咥えている。
つまり、砥石に刀を当てて研ぐ前のシーンなのだ、と。
中砥で研ぐ前なのだから刀が化粧研ぎであってもシーンとしての不整合はない。
だが、しかしなのである。
地を黒く刃を白く際立たせる金肌拭いという化粧研ぎは、実は明治以降に
開発された現代研ぎなのだ。江戸時代の日本刀が現代と同じように地が
青黒く刃を白くすると思ったら大間違いで、対馬砥での拭いはあるにせよ、
武士の刀は、現代の観賞用の化粧研ぎとは別な研ぎ方をしていた。
『たそがれ清兵衛』のこのシーンは、シーン描写の不整合ではなく、
時代考証に問題があることがご理解いただけるだろうか。
Amazon→DVD『たそがれ清兵衛』
航空機にも持ち込める管楽器用バルブオイルを買った。
(一般刀剣用油は成分表示がないため、どの航空会社でも持ち込み禁止)
三原市内の楽器屋にはどこにも置いてないので、本日出張した時に
別な地方都市の楽器屋さんで購入した。
1本662円ナリ。刀油よりもかなり安い。それでいて、防錆性能は
すこぶる良好で、薄い保護被膜が伸びて長持ちする。これは良い。
100%化学合成というところもおススメで、妙な匂いも一切ない。
ヤマハはバイク用メーカー純正2ストオイルも品質が高かったが、
楽器用オイルとはいえ、油脂の開発などはレースや車両用潤滑オイルで
培われたノウハウがあるのではなかろうか。私の1年に及ぶ試験使用の
結果、この管楽器用のバルブオイル-ビンテージクラスは、日本刀の防錆
保護にも極めて適しているという結果に至った。
正直申し上げると、現行存在するどの「御刀油」よりも性能が良好だ。
(鑑賞用ではなくあくまで武用刀向けという点で。最初、古い油の影響で
弾くようにマダラになりますが、塗布し続けるとなじんで薄くて強固な
防錆皮膜を形成します。抜刀・納刀の際にもまったくベタつきません)
帰りに本屋で面白そうなのでこれを買った。
家に帰ってから「はいよ」と将来の「江戸文化研究家」の卵にあげた。
「うお~!面白そう~」と喜んでいた。