山城國の京の三条に住した平
安時代の刀鍛冶宗近は、狐の
化身の助力により一条天皇の
名刀を鍛え上げたという伝説
がある。
ドラマ時代劇『子連れ狼』の
「寒到来」の編は、原作劇画
共々、三条小鍛冶宗近の一刀
の存在が拝一刀ならびに武田
武士の士魂を象徴していると
という一編だ。
「子連れ狼」作品の中でも珠
玉の名作。
山城國の京の三条に住した平
安時代の刀鍛冶宗近は、狐の
化身の助力により一条天皇の
名刀を鍛え上げたという伝説
がある。
ドラマ時代劇『子連れ狼』の
「寒到来」の編は、原作劇画
共々、三条小鍛冶宗近の一刀
の存在が拝一刀ならびに武田
武士の士魂を象徴していると
という一編だ。
「子連れ狼」作品の中でも珠
玉の名作。
刀剣を充分に鑑賞堪能したあ
とは備後國三原に帰り、港
に面した店で夕食会。
三原市内西部に以前から気に
なっていた謎の石碑がありま
す。これはもう50年程前から
気になっていた。
新幹線の高架下の町内会館の
敷地にそれはあります。
石質と刻まれた文字から江戸
時代もしくは新しくとも大正
時代までに建てられた石碑と
思われます。
北東・南西・北西・南東にき
っちりと向いていて、四面に
それぞれ文字が彫られていま
す。
父の生前に訊いても、伯父に
訊いても、この石碑の存在す
ら知りませんでした。
刻まれた文字が何かとても意
味深なのです。
北東と南西で同じ言葉、北西
と南東で同じ言葉が刻まれて
います。
北東側
南西側
刻まれている文字は変体仮名
というものに似ています。
江戸時代の一般的な仮名文字
で、大正時代くらいまで使わ
れました。
いわゆる、江戸時代の「読み
書き」とはこの変体仮名が読
めることをいいます。
相続人確定などの法律業務の
仕事を進める時には、戸籍簿
に書かれたこの変体仮名の解
読が不可欠です。なぜならば、
昔の人の名前(特に女性)な
どは変体仮名で書かれている
ことがとても多いからです。
この謎の石碑に書かれた文字
を解読してみましょう。
まず、北西・南東面は「南無」
と刻まれています。
気になるのが北東・南西側の
恐ろしげな言葉。
「鬼」の後に続く二文字が
変体仮名に見えます。
平仮名の「つ」に見える二
文字目は「川」の変体仮名
だとしたら「ツ」に見える。
連続すると「鬼(き)・川(つ)」
となります。
そして最後の文字。
これは最初私は「祢」に見え
ました。
「祢」ならば「鬼・川・祢」
で「キツネ」と読むことが
できる。
でも、どうにも左の偏が「弓」
のようにも見えます。
するとそれだと「弥(み)」です
が、実際の石碑を指でなぞる
と偏はさんずいのようでもあ
り、さすれば「流」とも読め
ます。
しかし、粗見では祢でも流で
もなく弥にも読める。
仮に「弥」であるならば、漢
字の意味には以下があります。
弥:あまねし、いや、いよいよ、
とおい、ひさ-しい、ひさし、
ひろ、みつ、や、よ、わた-る、
わたる
ふと閃きます。「わたり/
わたし」だろうか、と。
となると「鬼(き)の川(つ)弥
(わたり/わたし)」となり、
鬼の通り道という意味が浮上
する。
しかし、石碑の最後の文字が
「流」で「ル」と読むとする
と、「鬼(キ)・川(ツ)・流(ル)」
で、意味不明になってしまう。
これは更なる考察が必要とな
ってきました。
進めます。
いずれにせよ、鬼門に当たる
北東の面と裏鬼門に「鬼〇〇」
の文字を配しています。
明らかにそこにこの地の謎を
解く鍵が隠されているように
思われます。
この場所は三原城下の八幡宮
の宮の下の浦(沿岸の海)であ
った場所であり、江戸期に新
開として拓かれた後もデルタ
地帯でした。
私は、石碑の鬼門・裏鬼門方
角の文字は第三文字目を「弥」
と読み、「鬼川弥」で「おに
のかわわたし(わたり)」も
しくは「おにのつわたし(わた
り)」あるいは、「きのつわた
し(わたり)」、さらに一歩解釈
を進めて、「きつみ=鬼つみ」
と読み解いたのですが、どう
やらそれはまるで違うようで
す。
この石碑は「鬼門除(きもん
よけ)」と「南無」と彫られ
ているのが正しい読みです。
よく考えたら、変体仮名では
なく、単なる草書書きだった
というオチ(笑
日本神話に登場する海の神で
ある綿津見(わだつみ)、海神
(わたのかみ)は元来「海(わた)
つ霊(み)」と記しました。
それと同じように「鬼(き/おに)
つ霊(み)」なのではと読み解い
たのですが、それは誤り。
それに「わたし(=渡し)」をか
けて「鬼の通り道」として霊
を祀り鎮め、鬼門と裏鬼門の
方位に鬼への道標として「鬼
川弥(きつみ)」と刻んだのでは、
と私は読んだのですが、それ
はあまりにも推測が過ぎたよ
うです。
石碑は単純に「南無」「鬼門
除」と彫られていたのでした。
ただし、なぜここの地点に
建立?というのについては謎
が残ります。
鬼門とは、北東(艮=うしと
ら。丑と寅の間)の方位のこ
とで、陰陽道では鬼が出入り
する方角であるとして万事忌
むべき方角とされています。
また、鬼門とは反対の南西
(坤=ひつじさる)の方角を
裏鬼門と呼び、この方角も忌
み嫌われます。
逆に鬼門は神々が通り抜ける
方角、あるいは太陽が生まれ
る方位(生門)であるために、
清浄の気を保たねばならぬと
いう考えも古代にはあったよ
うです。
日本の建築物はすべてこの方
位の考えをもとに方角を定め
て建築されて来ました。中国
から来た考え方ですが、この
考えによって建造物の方位を
決めるのは沖縄を除く日本独
自の文化のようです。
さて、この石碑は、鬼門と裏
鬼門の方角に「鬼川除」、北
西・南東には「南無」とある。
明らかに宗教的な意味を持っ
た石柱でしょうが、市内の古
老に尋ねても誰も知らない。
なぜこの場所にあるのかは皆
目不明の謎のままです。
この石碑は備後国と安芸国の
国境のベルト上にありますの
で、設置には何らかの意味が
ある筈。
同じ備後・安芸国境=ボーダ
ーのライン上に、大正時代に
建てられた石碑があります。
鬼の石碑から1キロ程南西の
ライン上の街道沿いです。
県立大学下の途中にあるその
石碑には「是従東 備後国」
「是従西 安芸国」と刻まれ
ています。
南側面には大正時代の建立と
あり、「是従東 備後国御調
郡西野村」「是従西 安芸国
豊田郡長谷村」と刻まれてい
ます。
現在、県立広島大学に続く低
い丘の道の途中にあります。
前述した鬼の石碑やこの旧国
境石碑の辺りは、江戸時代に
は一面に広がるデルタ地帯で
した。
三原とは三つの原のことで、
湧原(現三原市中之町)、駒ケ
原(現三原市駒ヶ原町)、小西
原(現三原市西野)の谷に流れ
る小川で出来た扇状地の平地
が寄り添うようにしてあった
ことから「三原」と呼ばれる
ようになったといわれます。
行政サイドもそうした説明を
している。
しかし、これには疑問がある。
実際の歴史では、戦国末期に
三原城が築城されて初めて三
つの原が合流したからです。
それ以前には三原という地名
の由来とされる「三つの原が
合わさった場所」は無かった。
三原は猫の額のようなとても
狭い土地です。
近隣に御年代古墳をはじめと
する縄文・弥生・古墳時代の
遺跡が数多く残されており、
その後、大和~平安時代かけ
ても畿内と九州を結ぶ海路の
拠点が糸崎にあります。
四国と連絡する海上交通の要
衝としても存在しました。
潮待ちの保水地として岬の糸
崎が活用されていました。
三原駅=三原城に一番近い山
の頂上には、中世に山名氏が
築城した城跡があります。
う~む。謎解きの歴史散歩は
面白い。
つーか、鬼の石碑のこと誰も
知らないの?
誰かおせーて。
市の教育関係担当者に照会し
て尋ねても詳細不明なのよね。
移住者に通じない?広島の
びっくり方言13選!【地理ふしぎ】
今の40代前半より年下では
使わない広島弁備後弁も紹
介している。
「たわん(届かない)」や
「けぇ(~だから)」は今
も40代以下の層でも広島県
内ではよく使われる模様。
それと「たちまち(とりあ
えず)」は今でも若い子で
も使っている。
バイクに跨っての自虐ネタと
かで「たちまち、俺、足がた
わんけぇ(笑」とか。
なお、今の40代以下の広島県
の男は自分の第一人称の広島
弁の定番である「わし」は一
切使わない。「おれ」「ぼく」
だ。私の世代から上は全員が
「わし」。その年代が幼稚園
児の時も「わし」。
「そりゃあ、わしのんど(それ
は私のだぞ)」とか使ってい
た。
ただ、完全方言を標準語だと
思い込んでいるフシも広島県
内では多くあり、言葉の意味
が分からないので訊き直すと
「嘘じゃろ?東京生まれじゃ
いうて、うちを馬鹿にしとる
ん?」と返される事も結構あ
る。何人もから同パターンで。
これマジで。
「きっぽ(消えない人体の傷跡)」
とか、完全方言だってばよ~。
教えてもらわないと分かるか
っつーの、移住者には。移住
者はエトランゼなのだから。
ホントにその国(旧国)で生まれ
育ったのではない異邦人なの
だから。在地の言葉は理解で
きない言い回しや単語に溢れ
ているのが実相なのだから。
意味が解らないから聞き返し
ただけで切れられても困る。
「いびしぃ(気持ち悪い)」
とか「みやしぃ(簡単だ)」
とか「いたしぃ(難しい)」
とかの備後弁も完全方言だっ
てば。岡山弁の「きょーてー
(怖い)」や「ぼっけぇ(凄
い)」と同じく完全に方言。
方言文化を残すのは大切だが、
自分たちの住む狭い地方の方
言が全国版の標準語として使
われる共通語かと思い込むの
は絶対によくない。
言語は人と人との意思疎通を
図るツールなのだから。
共通言語としての標準語の日
本語を日本政府が明治に発明
して制定した意味は、日本人
が日本人同士意思疎通が図れ
るようにするためだ。
そのため、小学校入学時から
日本人は「国語」を習う。
地方の仲間同士での会話では
方言のみでもいいだろうが、
本来、日本人同士は私的初対
面の時や公用では標準語で話
すべきだ。
昔一度、社内の東京生まれ東
京育ちの人に「ほう、ほう、
ほぅね(そう、そう、そうな
のですか)」と備後弁で言った
ら、「おめぇ、ほぅほぅ言いや
がって、俺を舐めてんのか!」
と切れられた事がある。
広島県人が切れたのと逆パタ
ーンのように思えた。
全国区での方言通しはよろし
くない。私のミスだ。東京もん
には標準語もしくは私自身の
「標準」言語である江戸東京
弁で話すべきだった。「いか
さま、左様に御座るか」とか
言ったらよけいキレただろう
が(笑
いずれにせよ、広島人にしろ
東京人にしろ、他の各地方に
しろ、自分とこの言葉が標準
でありそれ以外を話す人間を
認めない、という心根は非常
に統一国家の国民である日本
人としてよろしくない。
最近、広島県内の40代より若
い人たちはごく普通に「さ」
「さぁ」「じゃん」を使う。
だが、それは標準語ではなく、
東京弁・横浜弁だ。
絶対に「さ」「じゃん」を使
わなかった大阪人でさえ使い
始めている。
東京横浜方言を日常会話で使
っていて、東京生まれ横浜育
ちの人間からすると妙な感じ
がとてもする。
最近の現象として逆に東京横
浜人が関西弁である「めっち
ゃ(すごく)」を多用し始め
ている。
広島弁でいうところの「ぶち」
にあたる(笑
意味は very だ。
そのうち、東京横浜人も「~
やん(東京横浜弁での「じゃ
ん」に相当)」を使い始める
のだろうか。
ギャグネタ的な大阪人特有の
言い回しの断定の後に続ける
「しらんけど」は最近東日本
の人たちにも面白がられて、
ネタとしてよく使われている。
ただ、イントネーションが
東日本の人たちは本場本物の
大阪の人たちとはまるで違う。
それ紛い物(笑
東日本の人たちは「シランケ
ド」を平坦に標準語のような
イントネーションで「ド」に
アクセントを置いて言うが、
真大阪人は「ケ」の部分が高
音になり「ド」で下がる。
そして、使い方としては強烈
な断定の後にサラリとサクッ
と続けて無責任性を出してと
ぼける時に使う。「これは日
本一やで!知らんけど」とい
うように。強烈な断定の後に
ボソッと呟くように言うのが
真大阪弁での「しらんけど」
の使い方だ。
「ほんまにそうかどうかあて
が知るかいな」というニュア
ンスを含んでいる。
東京弁でいうならば「んな
こたぁ知ったこっちゃねえ」
というニュアンスだ。
自分で断定しておきながら、
なんという薄らとぼけ方(笑
歴史的に人の海の中で揉まれ
た逃げ口上を確保しておく大
阪人特有の言語文化と思想性
が現れた一事例だろう。マジ
モードで返されて突っ込まれ
たら「知らんけど言うたやん
か」という逃げる回路を作っ
ておく、というような。
標準語で言うところの「それ
が定かであるかは、詳しくは
わたくしは存じ上げませんが」
ともかなり違う意味合いと思
惟を含んだ言い回しが大阪の
人たちが使う「しらんけど」
だ。
「せやかて、知らんけど言う
さかい、まぁええか」と言わ
れたほうも受け取る回路形成
でもあり、人間関係に鷹揚さ
と懐の深さを生んで、いらぬ
軋轢を避ける緩衝の役目も大
阪での「しらんけど」は効力
を出している。薄らとぼけた
言い回しだが、「活きた言葉」
として現在も存在している。
方言は単語が別地方とは別物
であるのと同時にイントネー
ションが標準語とは異なる変
化を見せるケースが多く、意
味合いも独自の真意が存する
場合が多いので、言語を使用
する際には注意が必要だ。
ちなみに、広島県福山市在住
の私の叔母が昭和30年代前半
に高校の修学旅行で完成した
ばかりの東京タワーに行った
時、「アンタラハヨゥコケー
キテェヘタリンヒャ~」と言
ったら引率の教師から「頼む
からここに来てまでフランス
語話さんでくれ」と言われた
らしい。
(貴方たち、早くここに来て
おかけなさいな)という意味
だが、東京在地の人たちには
解せないだろう。