渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

今この記事が読まれている ~寒到来~

2024年12月03日 | open

 

寒到来(かんとうらい) (2014年2月14日記事再掲) - 渓流詩人の徒然日記

寒到来(かんとうらい) (2014年2月14日記事再掲) - 渓流詩人の徒然日記

寒到来~エンディング・ナレーション~すべて、封建領主の家訓と称し、また家臣団の心得と称するものはただ権力者がその体制を保持せんがための方便にほかならず、その愚か...

goo blog

 



山城國の京の三条に住した平
安時代の刀
鍛冶宗近は、狐の
化身の助力により
一条天皇の
名刀を鍛え上げたという
伝説
がある。

ドラマ時代劇『子連れ狼』の
「寒到来」の編は、原作劇画
共々、三条小鍛冶宗近の一刀
の存在が拝一刀ならびに武田
武士の士魂を象徴していると
という一編だ。
「子連れ狼」作品の中でも珠
玉の名作。

 


夕暮れの港

2024年12月02日 | open









きょうの三原港の夕暮れ。



日本刀を観て、食事をする

2024年12月01日 | open
 

きょうから師走。

東広島美術館での刀剣展示の
最終日。
食事してからゆっくりと刀を
観に行く。




















この店はパッと探して初めて
行ったが、味も店員の応対も
とても良かった。
 
東広島市美術館では大山宗重
の刀剣を受け取りに我が家に
いらした
広島県美術刀剣保存
協会の重職の方、同行され
た若い学
芸員の女性と再会
し懇談した。
長々と拙刀をお預かり頂き、
まことにお世話になりました。
例によって私のアルアルで、
この若い学芸員の方は、私と
の奇縁あり。
今は永青文庫の重職にある
女性がかつて国際基督教大学
に通っていた頃、私の横のデ
スクで秘書のバイトをしてい
た。私がパラリーガルの頃だ。
高橋源一郎氏の娘。
その娘さんが大学を卒業して
文筆活動をしている時、若い
学芸員の人はアルバイトで女
史の仕事を手伝った事がある
のだという。
ちなみに、私が1980年代前半
に使っていたレーシングマシ
ンを運ぶトランスポーターは
源一郎の娘の育ての親の中古
車屋さんから購入した。
高橋源一郎と私の走りの相方
弁護士は横国時代に大親友だ
った。また源一郎と別れたそ
の子の母親も同大学での仲間
だった。彼らは遥か昔の大学
時代、エンプラ後の白いセン
ターコアな学友諸君だった。
偶然だが、後年源一郎は明治
学院大で教鞭を執る事になり、
子である女子もまた明学の先
生となった。これまた奇遇な
り。娘は美術史を教えていた
ようだ。
ハタチ過ぎの頃はとても可愛
い知的な女子大生で、漫画家
になるのが夢だった。
今は細川殿の博物館で職務に
就いている。

細川護熙氏が造った陶芸作品
についての過去記事。
細川護熙さんは、総理大臣な
どやるより、芸術の道に生き
たほうが合っていたようにも
思える。
芸術作品 - 渓流詩人の徒然日記

芸術作品 - 渓流詩人の徒然日記

(最近料亭に行ってないぞ、という話の続きから)料理って、正直でね。値段じゃないのよ。いくら高くても「ふざけるなよ」と思うような味の店は結構ある。砂糖づけでベッタ...

goo blog

 

刀剣を充分に鑑賞堪能したあ
とは備後國三原に帰り、港
に面し
店で夕食会。









おいしいね、ここも。
 
三原港の電飾。


散々ワインを飲んだが、急遽
さらに美味しいワインを飲
に別な店に行く。
食事や飲み歩きは、予め計画
などせずに思いつきで行くの
が良い。
美味なり。
ボトルのワインもとても美味
しゅうございました。

締めはザ・バーだ。
私はサイドカーを飲む。


超ラッキーな事に、ジャズの
生バンドが演奏していた。
次回は12月14日(土)に駅前通
りのカ
フェで夜にライブを
やる予定。

最後の曲は「A列車で行こう」
だった。良い。
 
撤収後。ずらりと棚に並ぶCD
はJAZZのナンバーだ。時々、
頼むと好きな曲をかけてくれ
る。店内には静かにJAZZが流
れる。とても落ち着くバー。
マスターが作るカクテルは全
日本級で、かつてはコンクー
ル上位でならした。マスター
が別店にいた頃からの馴染み
だが、古く伝統あるこの店を
受け継いだ時から、私はかれ
これ20年以上通っている。


マスター笑顔。元俳優。


本日は、アーティストの女性
の方と
朝から深夜までご一緒
しました。
大変、楽しゅうございました。
ありがとうございます。


 
 

東広島市制施行50周年記念 日本刀の美 ―大山住宗重と広島ゆかりの刀剣

2024年12月01日 | open



日本刀の美 ―大山住宗重と広島ゆかりの刀剣

日本刀の美 ―大山住宗重と広島ゆかりの刀剣

東広島ゆかりの刀鍛冶に大山住宗重と銘する刀工がいる。大山鍛冶は、建武年間頃(14世紀中頃)に筑前の左一派が大山(東広島市八本松町・広島市安芸区瀬野)に来住したとい...

美術展ナビ

 

本日最終日です。
郷土史と日本刀にご興味が
おありの
方は、ぜひとも足
をお運びください。

 
 




<歴史散歩> 謎の鬼の石碑 ~三原市宮浦~ (2011.6.18記事再掲)

2024年12月01日 | open

三原市内西部に以前から気に
なっていた謎の石碑がありま
す。これはもう50年程前から
気になっていた。
新幹線の高架下の町内会館の
敷地にそれはあります。


石質と刻まれた文字から江戸
時代もしくは新しくとも大正
時代までに建てられた石碑と
思われます。
北東・南西・北西・南東にき
っちりと向いていて、四面に
それぞれ文字が彫られていま
す。

父の生前に訊いても、伯父に
訊いても、この石碑の存在す
ら知りませんでした。

刻まれた文字が何かとても意
味深なのです。
北東と南西で同じ言葉、北西
と南東で同じ言葉が刻まれて
います。

北東側


南西側


刻まれている文字は変体仮名
というものに似ています。
江戸時代の一般的な仮名文字
で、大正時代くらいまで使わ
れました。
いわゆる、江戸時代の「読み
書き」とはこの変体仮名が読
めることをいいます。
相続人確定などの法律業務の
仕事を進める時には、戸籍簿
に書かれたこの変体仮名の解
読が不可欠です。なぜならば、
昔の人の名前(特に女性)な
どは変体仮名で書かれている
ことがとても多いからです。

この謎の石碑に書かれた文字
を解読してみましょう。
まず、北西・南東面は「南無」
と刻まれています。

気になるのが北東・南西側の
恐ろしげな言葉。

「鬼」の後に続く二文字が
変体仮名に見えます。
平仮名の「つ」に見える二
文字目は「川」の変体仮名
だとしたら「ツ」に見える。


連続すると「鬼(き)・川(つ)」
となります。
そして最後の文字。
これは最初私は「祢」に見え
ました。
「祢」ならば「鬼・川・祢」
で「キツネ」と読むことが
できる。
でも、どうにも左の偏が「弓」
のようにも見えます。
するとそれだと「弥(み)」です
が、実際の石碑を指でなぞる
と偏はさんずいのようでもあ
り、さすれば「流」とも読め
ます。
しかし、粗見では祢でも流で
もなく弥にも読める。
仮に「弥」であるならば、漢
字の意味には以下があります。
弥:あまねし、いや、いよいよ、
とおい、ひさ-しい、ひさし、
ひろ、みつ、や、よ、わた-る、
わたる

ふと閃きます。「わたり/
わたし」だろうか、と。
となると「鬼(き)の川(つ)弥
(わたり/わたし)」となり、
鬼の通り道という意味が浮上
する。
しかし、石碑の最後の文字が
「流」で「ル」と読むとする
と、「鬼(キ)・川(ツ)・流(ル)」
で、意味不明になってしまう。
これは更なる考察が必要とな
ってきました。

進めます。

いずれにせよ、鬼門に当たる
北東の面と裏鬼門に「鬼〇〇」
の文字を配しています。
明らかにそこにこの地の謎を
解く鍵が隠されているように
思われます。
この場所は三原城下の八幡宮
の宮の下の浦(沿岸の海)であ
った場所であり、江戸期に新
開として拓かれた後もデルタ
地帯でした。

私は、石碑の鬼門・裏鬼門方
角の文字は第三文字目を「弥」
と読み、「鬼川弥」で「おに
のかわわたし(わたり)」も
しくは「おにのつわたし(わた
り)」あるいは、「きのつわた
し(わたり)」、さらに一歩解釈
を進めて、「きつみ=鬼つみ」
と読み解いたのですが、どう
やらそれはまるで違うようで
す。
この石碑は「鬼門除(きもん
よけ)」と「南無」と彫られ
ているのが正しい読みです。
よく考えたら、変体仮名では
なく、単なる草書書きだった
というオチ(笑

日本神話に登場する海の神で
ある綿津見(わだつみ)、海神
(わたのかみ)は元来「海(わた)
つ霊(み)」と記しました。
それと同じように「鬼(き/おに)
つ霊(み)」なのではと読み解い
たのですが、それは誤り。
それに「わたし(=渡し)」をか
けて「鬼の通り道」として霊
を祀り鎮め、鬼門と裏鬼門の
方位に鬼への道標として「鬼
川弥(きつみ)」と刻んだのでは、
と私は読んだのですが、それ
はあまりにも推測が過ぎたよ
うです。
石碑は単純に「南無」「鬼門
除」と彫られていたのでした。
ただし、なぜここの地点に
建立?というのについては謎
が残ります。

鬼門とは、北東(艮=うしと
ら。丑と寅の間)の方位のこ
とで、陰陽道では鬼が出入り
する方角であるとして万事忌
むべき方角とされています。
また、鬼門とは反対の南西
(坤=ひつじさる)の方角を
裏鬼門と呼び、この方角も忌
み嫌われます。
逆に鬼門は神々が通り抜ける
方角、あるいは太陽が生まれ
る方位(生門)であるために、
清浄の気を保たねばならぬと
いう考えも古代にはあったよ
うです。
日本の建築物はすべてこの方
位の考えをもとに方角を定め
て建築されて来ました。中国
から来た考え方ですが、この
考えによって建造物の方位を
決めるのは沖縄を除く日本独
自の文化のようです。

さて、この石碑は、鬼門と裏
鬼門の方角に「鬼川除」、北
西・南東には「南無」とある。
明らかに宗教的な意味を持っ
た石柱でしょうが、市内の古
老に尋ねても誰も知らない。
なぜこの場所にあるのかは皆
目不明の謎のままです。
この石碑は備後国と安芸国の
国境のベルト上にありますの
で、設置には何らかの意味が
ある筈。

同じ備後・安芸国境=ボーダ
ーのライン上に、大正時代に
建てられた石碑があります。
鬼の石碑から1キロ程南西の
ライン上の街道沿いです。
県立大学下の途中にあるその

石碑には「是従東 備後国」
「是従西 安芸国」と刻まれ
ています。
南側面には大正時代の建立と
あり、「是従東 備後国御調
郡西野村」「是従西 安芸国
豊田郡長谷村」と刻まれてい
ます。
現在、県立広島大学に続く低
い丘の道の途中にあります。
前述した鬼の石碑やこの旧国
境石碑の辺りは、江戸時代に
は一面に広がるデルタ地帯で
した。

三原とは三つの原のことで、
湧原(現三原市中之町)、駒ケ
原(現三原市駒ヶ原町)、小西
原(現三原市西野)の谷に流れ
る小川で出来た扇状地の平地
が寄り添うようにしてあった
ことから「三原」と呼ばれる
ようになったといわれます。
行政サイドもそうした説明を
している。
しかし、これには疑問がある。
実際の歴史では、戦国末期に
三原城が築城されて初めて三
つの原が合流したからです。
それ以前には三原という地名
の由来とされる「三つの原が
合わさった場所」は無かった。

三原は猫の額のようなとても
狭い土地です。
近隣に御年代古墳をはじめと
する縄文・弥生・古墳時代の
遺跡が数多く残されており、
その後、大和~平安時代かけ
ても畿内と九州を結ぶ海路の
拠点が糸崎にあります。
四国と連絡する海上交通の要
衝としても存在しました。
潮待ちの保水地として岬の糸
崎が活用されていました。
三原駅=三原城に一番近い山
の頂上には、中世に山名氏が
築城した城跡があります。

う~む。謎解きの歴史散歩は
面白い。
つーか、鬼の石碑のこと誰も
知らないの?
誰かおせーて。
市の教育関係担当者に照会し
て尋ねても詳細不明なのよね。


 

 


安藝國青木城跡

2024年12月01日 | open
 






旧安藝國豊田郡青木山には
昭和時代に拓かれた海沿い
の山肌に閑静な高級住宅街
が広がる。

その住宅街の一角に「青木
城跡」と
いう石碑が建てら
れている。

現在地名は広島県三原市須
波ハイツ(須波ハイツという
のが正式町名)。
私の郷土史研究の足しにな
ればと、いきつけのカフェ
のマスターが撮影して来て
くれた。ありがたし。

この石碑には以下のような
文言が彫られている。
・青木城跡
・初代沼田次郎惟兼が寛喜
 二年(一二三〇年)に本郷
 高山城から移り築城
・鎌倉幕府の命により猛虎
 軍の襲来を防ぐために築城
 十一代青木備後介義信の墓
 は須波西観音堂にある

この沼田惟兼(これかね)なる
人物については詳細不明だが、
源平合戦の頃の豊後臼杵の武
士に緒方惟栄という者がいて、
その子に沼田惟兼という人
がいることが緒方家系図に

見られるようだが、詳細
不明。
また、十一代青木備後介義信
という人物についても不明。
官位受領(ずろう)は戦国期や
江戸期においても一般的だっ
たが、武田家家臣の青木氏
(諱の通字は信)と関係あり
しや。

ただ、青木城跡がある瀬戸内
海に面したこの山は、古来よ
り青
木山と呼ばれていたよう
で、
中世の武士の名からの転
用俗称の
可能性もある。
沼田惟兼が築城したとの伝な
ので、青木山という名称が
主十一代末の青木備後介義

との関係においてどうであ

のかは不明。

ただ、現在もこの地が青木山
と呼ばれ、それに連なる山が
秦(はた)の山と呼ばれる事に
ついては、地元の古い伝承を
知る者しか知られていない。

中世の「青木城」というのは
瀬戸内海の島しょや沿岸各地
に点在するので、私は三原市
須波ハイツにある青木城跡も
他の青木城と同じく水軍城か
と思っていたが、石碑による
と源氏方の武士の築城による
ものらしい。
ただ、瀬戸内海で激戦がくり
広げられた源平の合戦におい
ては、水軍の合力なくしては
源氏も平家もイクサができな
かった事だろう。

なお、青木山に源氏ゆかりの
武士が築城したというのは何
に基づく比定なのだろうか。
あくまで、伝承譚であるが、
青木山と連山である西北側の
秦の山の山頂付近
には源平の
合戦の頃の平家
落人集落とさ
れるエリアが
ある。
平家を護る神社もひっそりと
建てられて、隠遁するように
幾星霜の時を越えて人々が
周囲に暮らしている。現在で
はかなりの家の人たちが山を
下りて市街地に転住した。
この秦の山=竜王山と瀬戸内
海を挟んだ本州三原側の向か
いにある備後國の龍王山にも
平家の落人伝説のある集落が
存在し、本州側にはつい最近
まで隠里と
しての伝承譚を持
つ平家の末裔といわれる人

ちが現住していた。

(現在本州側のエリアは廃墟
群となったようだ)

ここで疑問なのは、安藝國側
の平家の人士の隠遁集落とさ
れる
秦の山と山続きの青木山
仮に源氏側の武士が築城し
となると、源平合戦の頃の
将の子たる者が駐屯したと
て、平家追討を行わなかっ
のか、という疑問が残る。
源氏方による平氏の追捕たる
や熾烈至極であり、源氏は平
氏一門の皆殺しを旨としたの
で、西日本においては、平家
一門の落ちた先での隠遁集落
の伝承がいたる所にある。
源氏方のみによる実力追討だ
けでなく、地元民たちの落ち
武者狩りも凄惨で凄まじかっ
た事だろう。平家落人伝承の
ある集落は悉く「ポツンと
一軒家」のように人里遥かに
離れた山奥に伝承譚が残って
いる。一軒家ではなく数戸乃
至十数戸あたりの小規模集落
として。
青木山と秦の山は、それが
源氏と平家の武士がそこにい
たとしたら、隣りの山でなぜ
源氏が平氏の生き残りを追討
しに出撃しなかったのかは疑
問だ。尤も、平家一門側が見
事に隠れ切った、という可能
性もあるが。
だが、実は記録に残されてい
ないだけの凄惨な追討の歴史
が秦の山にはあったのかも知
れない。
三原市の青木山城については、
現在のところ不明な点が多い
ので、詳細については明らか
にはなっていない。










移住者に通じない?広島のびっくり方言13選!【地理ふしぎ】

2024年12月01日 | open

移住者に通じない?広島の
びっくり方言13選!【地理ふしぎ】


今の40代前半より年下では
使わない広島弁備後弁も紹
介している。
「たわん(届かない)」や
「けぇ(~だから)」は今
も40代以下の層でも広島県
内ではよく使われる模様。

それと「たちまち(とりあ
えず)」は今でも若い子で
も使っている。
バイクに跨っての自虐ネタ
かで「たちまち、俺、足がた
んけぇ(笑」とか。
なお、今の40代以下の広島県

の男は自分の第一人称の広島
弁の定番である「わし」は一
切使わない。「おれ」「ぼく」
だ。私の世代から上は全員が
「わし」。その年代が幼稚園
児の時も「わし」。
「そりゃあ、わしのんど(それ

は私のだぞ)」とか使ってい
た。

ただ、完全方言を標準語だと
思い込んでいるフシも広島県
内では多く
あり、言葉の意味
が分からな
いので訊き直すと
「嘘じゃろ?
東京生まれじゃ
いうて、うち
を馬鹿にしとる
ん?」と返さ
れる事も結構あ
る。何人もか
ら同パターンで。
これマジで。

「きっぽ(消えない人体の傷跡)」
とか、完全方言だってばよ~。
教えてもらわないと分かるか
っつーの、移住者には。移住
者はエトランゼなのだから。
ホントにその国(旧国)で生まれ
育ったのではない異邦人なの
だから。在地の言葉は理解で
きない言い回しや単語に溢れ

ているのが実相なのだから。
意味が解らないから聞き返し

ただけで切れられても困る。
「いびしぃ(気持ち悪い)」
とか「みやしぃ(簡単だ)」
とか「いたしぃ(難しい)」
とかの備後弁も完全方言だっ
てば。岡山弁の「きょーてー
(怖い)」や「ぼっけぇ(凄
い)」と同じく完全に方言。
方言文化を残すのは大切だが、
自分たちの住む狭い地方の方
言が全国版の標準語として使
われる共通語かと思い込むの
は絶対によくない。
言語は人と人との意思疎通を
図るツールなのだから。
共通言語としての標準語の日
本語を日本政府が明治に発明
して制定した意味は、日本人
が日本人同士意思疎通が図れ
るようにするためだ。
そのため、小学校入学時から
日本人は「国語」を習う。
地方の仲間同士での会話では
方言のみでもいいだろうが、
本来、日本人同士は私的初対
面の時や公用では標準語で

すべきだ。
昔一度、社内の東京生まれ東
育ちの人に「ほう、ほう、
ぅね(そう、そう、そうな
のですか)」と備後弁で言った
ら、「おめぇ、ほぅほぅ言いや
がって、俺を舐めてんのか!」
と切れられた事がある。
広島県人が切れたのと逆パタ
ーンのように思えた。
全国区での方言通しはよろし
くない。私のミスだ。東京もん
には標準語もしくは私自身の
「標準」言語である江戸東京
弁で話すべきだった。「いか
さま、左様に御座るか」とか
言ったらよけいキレただろう
が(笑
いずれにせよ、広島人にしろ

東京人にしろ、他の各地方に
しろ、自分とこの言
葉が標準
でありそれ以外を話
す人間を
認めない、という心
根は非常
に統一国家の国民で
ある日本
人としてよろしくな
い。

最近、広島県内の40代より若
い人たちはごく普通に「さ」
「さぁ」「じゃん」を使う。
だが、それは標準語ではなく、
東京弁・横浜弁だ。
絶対に「さ」「じゃん」を使
わなかった大阪人でさえ使い
始めている。
東京横浜方言を日常会話で使
っていて、東京生まれ横浜育
ちの人間からすると妙な感じ
がとてもする。

最近の現象として逆に東京横
浜人が関西弁であ
る「めっち
ゃ(すごく)」を
多用し始め
ている。

広島弁でいうところの「ぶち」
にあたる(笑
意味は very だ。
そのうち、東京横浜人も「~
やん(東京横浜弁での「じ
ん」に相当)」を使い始める

のだろうか。

ギャグネタ的な大阪人特有の
言い回しの断定の後に続ける
「しらんけど」は最近東日本
の人たちにも面白がられて、
ネタとしてよく使われている。
ただ、イントネーションが
東日本の人たちは本場本物の
大阪の人たちとはまるで違う。
それ紛い物(笑
東日本の人たちは「シランケ
ド」を平坦に標準語のような
イントネーションで「ド」に
アクセントを置いて言うが、
真大阪人は「ケ」の部分が高
音になり「ド」で下がる。
そして、使い方としては強烈
な断定の後にサラリとサクッ
と続けて無責任性を出してと
ぼける時に使う。「これは日
本一やで!知らんけど」とい
うように。強烈な断定の後に
ボソッと呟くように言うのが
真大阪弁での「しらんけど」
の使い方だ。
「ほんまにそうかどうかあて
が知るかいな」というニュア
ンスを含んでいる。
東京弁でいうならば「んな
こたぁ知ったこっちゃねえ」
というニュアンスだ。
自分で断定しておきながら、
なんという薄らとぼけ方(笑
歴史的に人の海の中で揉まれ
た逃げ口上を確保しておく大
阪人特有の言語文化と思想性
が現れた一事例だろう。マジ
モードで返されて突っ込まれ
たら「知らんけど言うたやん
か」という逃げる回路を作っ
ておく、というような。
標準語で言うところの「それ
が定かであるかは、詳しくは
わたくしは存じ上げませんが」
ともかなり違う意味合いと思
惟を含んだ言い回しが大阪の
人たちが使う「しらんけど」
だ。
「せやかて、知らんけど言う
さかい、まぁええか」と言わ
れたほうも受け取る回路形成
でもあり、人間関係に鷹揚さ
と懐の深さを生んで、いらぬ
軋轢を避ける緩衝の役目も大
阪での「しらんけど」は効力
を出している。薄らとぼけた
言い回しだが、「活きた言葉」
として現在も存在している。
方言は単語が別地方とは別物
であるのと同時にイントネー
ションが標準語とは異なる変
化を見せるケースが多く、意
味合いも独自の真意が存する
場合が多いので、言語を使用
する際には注意が必要だ。

ちなみに、広島県福山市在住
の私の叔母が昭和30年代前半
に高校の修学旅行で完成した
ばかりの東京タワーに行った
時、「アンタラハヨゥコケー
キテェヘタリンヒャ~」と言
ったら引率の教師から「頼む
からここに来てまでフランス
語話さんでくれ」と言われた
らしい。
(貴方たち、早くここに来て
おかけなさいな)という意味
だが、東京在地の人たちには
解せないだろう。