THE GP RIDER 本間利彦
1986年の富士スーパースプリ
ントレースは、私は100Rの
イン側でレーシングチームの
人たちと観ていた。
第1ヒートは霧と雨でよく見
えなかったが、第2ヒートは
しっかりと勉強させてもらっ
た。
世界チャンピオンラバードの
走りと本間選手の走りを。
得るものは多かった。
両者はトラクションの処理の
仕方が独特だったが、穴のあ
く程注視していて、極めて得
るものが多かった。
ただ、世界GPライダーたちで
以外だったのは、それぞれが
似た乗り方のようで、全員が
異なった事だった。
本間選手の走らせ方はラバー
ドやケニー(はいなかったが)、
平選手と同系統の乗り方をし
ていた。(非常に細かい所では
差異はある)
相当な勉強になった。
とてつもなく。
レースを観る事。
それはスポーツ競技の観戦と
して楽しめるだけではなく、
選手が「何をどうしてなぜど
うやっているのか」というの
をそのまま見せてくれる事で
もある。
観るだけで、現象は全て吸収
できるのだ。
自分ができるかできないかは
別次元の問題として。
つまり、すべての研究材料を
選手は無償で提供してくれて
いるのだ。
これだからスポーツは面白い。
そして、ロードレースは面白
い。
なお、サーキットでの走法は
サーキット走行限定ではなく、
公道においても、安全を確保
するための技法に満ち溢れて
いる。
まずは、「見る眼」と「理解
する頭」を乗り人本人が自覚
的に高度な知見として有する
事から始まるだろう。

ネット販売アルアルなのだ
れている個体だった。
振り分けてクランク左右
とメインエア導入部に2ス
トオイルが供給される方
式だ。
着されているので、キャ
ブにある2stオイル導入部
のホース接続ニップルが
剥き出しのままになって
いた。
てオイルホース取り回し
も旧方式にする方法だが、
簡易な迅速対策としては
現状のままでキャブの余
分な2stニップルを対策
部品を作って塞ぐ方法が
選択肢としてある。
する。

バイク”博物館”に大感動!
懐かしの名車天国!
来た、ホンダコレクション
ホール!
ここはいいね~。
ホンダの歴史の集大成が一堂
に展示されている。
ちなみにホンダを宗一郎さん
と共に創った藤沢さんは私の
高校の先輩。
ことしも、もう残り11ヵ月
になろうとしている。
時の流れが早い。
あと三日後の2月3日は立春
だ。
今、受験生たちは一番大変
な頃。
受験生だけでなく学校も塾
も、先生たちも大詰めの頃。
妻と二人で実写映画版の『美
味しんぼ』(1996)を観ている。
世間では評価の低い作品だが、
私は好きな作だ。
学生の頃、後輩の実家が持つ
六本木のビルの屋上のペント
ハウスに住まないかと勧めら
れた。
立地条件も物件も場所からし
たら格安賃料も最高だったが、
六本木の街のど真ん中のビル
なのでバイクを駐車する場所
が無いのでやむなく諦めた。
もろにこの映画で山岡士郎が
住んでいるペントハウスのよ
うな物件だった。
映画の中の「山岡さんの家」。
1996年時点の撮影だが、現在
は隅田川の永代橋が見える永
代河岸通りに面したこのペン
トハウスのある建物は取り壊
され、2025年現在はマンショ
ンが建っており、現存しない。
1996年はついこの前のような
気がするが、もう29年も前の
事になる。
当時は私はまだ都内新宿区在
住だった。

昔、友人が一時期貸して
くれていたアドレスV100
は本当に激速のバイク
だった。
には16PSというヤマハの
化け物125スクーターがあ
った。
小柄な車体ながらパーン!
と弾ける良いバイクだっ
た。

とても簡単。
左右袈裟も左右逆袈裟も横切
りも。
まともに切れない人がいると
したら、それは全員が刀の持
ち方と振り方がおかしいから
だよ。
空気ばかり切ってるエア居合
だけやっていると、本当に自
分の動作や刃筋、刃波、運刀
や剣筋、手の内が正しいかど
うかという厳しく自分を見る
眼を失う。
大甘のあたりで自己満足する
からだ。
そうなったら、その人はそこ
でオシマイ。その後の一切の
伸びも成長も深化も無い。
どんなに「高段者」であろう
と御高説を垂れようとも、嘘
は嘘。自分ができなければ嘘。
そして、嘘は発展を停止させ
る。
なぜならば、自己検証や己の
在り方に自ら刃を向ける事を
拒否しているから。
そもそも、それって、武士の
士魂とは全く別物で相容れな
い。自己満足の甘ちゃんの嘘
ものなどは。
切ってみればいい。日本刀で。
ただの据え物斬りではなく、
それまで研修してきた武術の
身体のさばき方で。
当然、片手抜き打ち抜刀斬り
なども入るし、体転させなが
ら斬ったりもやる。
刀で畳表(小林康宏試刀家が
日本の歴史上初めて巻き藁の
代替物として考案)を切る際
も、抜いて構えて前に出て足
を固着止めさせて腕だけ振っ
て斬るなどというのは、それ
は武芸でも試し斬りでも何で
もない。そんな武術は日本の
歴史では存在しない。
日本全国日本中が極めて意味
の無い事をさも抜刀武術であ
るかのようにやっている。
意味ゼロ。
武芸ならば、武術的な動きを
伴いながら斬撃をしないと何
の意味があるのか。
気剣体一致で踏み込みながら
剣は繰り出す。
試斬においても全く同じだ。
刀の切れ味試しの据え物斬り
以外では足止め固着斬りなど
は存在しない。
抜刀しながら斬撃せよ。
体さばきしながら斬撃せよ。
今の時代、あまりにもニセモ
ンが多すぎて呆れ果てる。
大過ぎてというか、ごくごく
一部の刀術者を除いて、全員
が嘘もの刀振りをやっている。
知見性のレベルが低すぎて話
にならない。
る人たちもいるにはいる。
オートバイのスロットルグリ
ップはギュッと握り締めない。
日本刀の手の内と同じく、し
なやかに柔らかく保持する。
ただし、ダートなどではある
程度ハンドル保持をしっかり
しないと手が離れたらすっ飛
ぶ。
だが、ギューッと5指で力任
せにふん掴む事はしない。
締める所は締めて、緩める所
は緩める。
モーターサイクルのハンドル
保持操作法と真剣日本刀刀術
における手の内はかなり共通
する部分がある。
1976年頃には少年たちの間
では「とっつぁんバイク」
とか「トロバイ」と呼ばれ
ていたが、私はこのモデル
は味のある二輪だと思って
いた。
速度だけを求めるのではな
い、という点で。
私は74年製を持っていた。
大学進学の為に手放すという
千歳烏山の2才年上の人から
譲ってもらった。商談交渉の
際にはご自宅に訪問してお父
様も交えて商談をした。有名
な進学校に在籍する人で、家
も厳格な風だった。有名私立
大学附属に通っていたが、別
な大学を受験すると言ってた。
やはりマッハSS350と比べる
と比べ物にならない程遅かっ
た。ヨンフォアも正直いって
遅い二輪だったが。
しかし、25Tは吸排気を弄っ
て、TT100を履かせて、乗り
方次第ではそこそこに走らせ
る事もできる車だった。
ただし、最高速はまるで出な
い。吸排気をいじって出ても
たかが知れていた。
当然、その10数年後の2スト
250のように200km/hオーバ
ーなどは到底不可能。時代な
りの二輪だった。なんせ原初
は1973年設計だから。
それでも、パワーバンドを使
えば峠でも充分2スト程では
ないにせよ、よく走った。
(高校1年)
この個体は気に入っていて、
高校時代は他の車を手放し
ても、これは大学時代に後
輩に請われて譲るまで所有
していた。
なので一時期RZ350とこの
CBと2台持っていた。この
CBの後にはチョイノリ通学
用にセカンドバイクとして
カワサキAR50を新車で購入
した。自分にとって初めて
の新車は発売当年のRZ350
だった。
バイクを買うのは16才の時
からすべて自分の金でまか
なっている。
カフェレーサーというスタイ
ルがまだ国内では殆ど知られ
ていない(ほぼ皆知らない)
時代に、私は英国ロッカーズ
スタイル(タイムリーに英国
で隆盛衰退の数年後)に一つの
憧憬に似た個性の突出性の輝
きを見ていた。
それは、決して「ブーム」や
「流行」という概念とは別次
元の二輪乗りの魂の表現、在
り様として。「抵抗者」とし
てのレジスタンス性に惹かれ
た。
16才の時には英国ロッカーズ
にそれを感じていた。
バイク雑誌で報道さえされな
い時代、洋書で英国ロッカー
ズの存在を知った。
私は馬とピースメーカー以外
は、アメリカンスタイルには
あまり興味は無かった。
オラオラジャイアンみたいな
のは今でも好きではない。
これは個体だけでなく、集団
的地域性においても。
基本、ホンダの25Tはブリテ
ィッシュ・トラディショナル
なスタイルのオートバイだっ
た事だろう。
この英国車のような。
後年、後継機種のホークCB
250Tがバブと称されて珍走
団に愛好されてチンドン屋
仕様に改造されたのは、か
なりマシンの方向性と指向
性が違うと私個人は思える。
CB25Tをここまで改造する所
さんには脱帽だ。
(1970年代当時はニーゴー
ティーと呼ばれていた)
世田谷ベース CB250T
ロードのシチュエーション
によっては、スクーターで
もこういう乗り方はごく普
通。
コーナー手前のフルブレー
キング直前から倒し込みの
体勢を取っておく。

加熱すっから陶器の灰皿の
上にチャージャーを載せて
いる。
バッテリーちゃんを充電。
現在、トリクル維持充電
段階。

バッテリーは繋ぐ時は+から。
外す時は-から。