以下はすべて私の私的な好み
の感想であり、特定個人を非
難していることではないこと
を御承知おきください。
刀は研磨によって大きく表情
を変える。
研ぎ師いかんによって全く別
な刀になってしまうといって
も過言ではない。
ところが、最近流行りの研ぎ
ではどの刀も同じに見えてし
まうことがある。
それは一様に同じような化粧
をしているからだ。
女性の化粧にも流行りすたり
があり、今の若い女性は皆同
じような顔に見えるのも没個
性的な同じ化粧をしているか
らだろう。
メディアに登場する芸能人で
も、ナチュラルメイクで素顔
美人という人は少ない。
刀の研磨についてひとつの例。
(研磨前)
確かに薄錆も出ているし刃も
眠くぼやけている感じはする。
しかし十分良い研ぎがなされ
ている。
(研磨後)
しゃっきりとしたが、いわゆる
最近多い研ぎである。やたら刃
を白く化粧して刃取りしている。
刃文である刃と地の境目も白い
刃取りにより大きく変えて、あ
たかも白い部分が刃であるかの
ようにしてしまい、本来の刃文
とは大きく異なっている。横手
下の山から谷に向かい次の二山
の刃の山は完全に一山として白
くさせられている。総体として
ただ白いだけで柔らかさに欠け、
品がない。
(研磨前)
横手下の物打部分の緩やかな
谷の上の地部分にはうっすら
と斑紋状の「映り」という鋼
の変化が見られる。この刀の
見所だ。この刀は全体に亘り
こうした熱処理による鋼の変
化が表れているのが作者の技
量の見所で、優刀だと感じる。
(研磨後)
ノッペリと研いでしまっている。
ほとんど地の鋼の変化が見えな
くなってしまった。
まるで新作現代刀の居合研ぎの
ようになってしまった。
いわゆるこれが今どこにでもあ
る普通の研ぎだ。
どうだろう。
例え薄錆が出ていようとも、研
磨前の古い研ぎ師の仕事の方が
刀の良い部分を引き出して気品
があると思えるのは私だけだろ
うか。
第一、新研磨は研ぎ師の名は不
明だが、南北朝時代の太刀をこ
のような新作刀の流行研ぎのよ
うなつまらない研ぎでノッペリ
とさせてしまうのは、さすがに
興ざめする。
日本刀は研ぎによって大きく姿
を変える。
やはり職方の技術とセンスの問
題というのは選ぶ側にとって大
きな問題のような気がする。
ある刀工の弟子が私に言った。
「刀鍛冶だけでなく絵心のない
日本刀職方はダメなもんよ」
絵心がない研ぎ師もその中に入
る。絵が描けない、絵画を解さ
ない研ぎ師は風雅古雅を解さな
いので、仕事において、どうし
ても山水画のような雅味とは
無縁になる。墨と筆によるか
すれや強弱による静寂感と躍
動感を表現できずに、マジック
ペンで線を描いたような研ぎを
やろうとする。
最近流行りのやたら刃を必要以
上に白くする研ぎは、ふんわり
とした柔らかさもなく、とても
無機的だ。
映画『オイディプスの刃』で
こんなシーンがあった。
ある老齢の研ぎ師がいた。
そこに名刀の研ぎ依頼が来た。
精魂込めて研ぎあげて渡すと、
刀剣商は「まったく違う刀や。
刀すり替えてニセモノつかま
せて、どないしてくれますね
ん」と詰め寄る。
研ぎ師は言う。
「わてが研ぐとこの刀はこう
なりまんねん」
すると刀剣商はさらにクレー
ムをつける。
研ぎ師は言う。「ほなら、わ
てがその刀の代金弁償しまひょ」
後日、刀剣商は別な研ぎ師に
研ぎ直させ、老研ぎ師から巻
きあげた札束を持って詫びに
来る。数千万円の札束だ。
「別な先生に研ぎに出したら、
間違いなく同じ刀でした。す
んません。このお金はお返し
します」
老研ぎ師は無言で札束を受け
取り、黙ったまま火の中に投
げ込む。
一人無表情で炎を見つめる研
ぎ師。
そして、やがて無念の思いを
抱いたまま老研ぎ師は死んで
いく。
幼かった研ぎ師の孫は成人し、
祖父の無念を晴らすためにそ
の刀の次なる研ぎをめぐって
重大な事件に関与していく。
その南北朝時代の備中青江次吉
という太刀は、その間、瀬戸内
海に浮かぶ島に住む裕福な愛刀
家の一家に倒錯した愛欲と肉欲
とをもたらし、肉親の愛を得よ
うとするオイディプス(エディ
プス)によって凄惨な事件を
引き起こそうとしていた。
愛刀家の美しい夫人は香水を
作る調香師だった。彼女をめぐ
り妹と三人の息子、そして名刀
を研ぎに来た青年研ぎ師が人間
の業のるつぼに身を落としても
がいていく。
しかし、名刀青江次吉を保護
したいために、愛刀家である
主人はある選択をした。そこ
には家族愛を超える戦慄の感
性が働いていたのだ。
記憶がなくなっていた愛刀家
の次男は、成人した後、老研
ぎ師の孫と知らずに自分を慕
う若者と出会う。そして、さ
らなるオイディプスの刃が
兄弟たちに悲しい運命を運ん
でくるのだった。
という内容なのだが、老研ぎ
師と金の亡者の刀剣商とのや
りとりは、孤高のサムライの
ような老研ぎ師の矜持(きょ
うじ)がひしひしと伝わる
シーンだった。
この映画は日本文学、芸術、
心理学、そして日本刀を好
む人は見逃せない秀作だ。
主演は『ヒポクラテスたち』
で檜舞台に登場した古尾谷雅
人だ。
残念ながら、この作品のずっ
と後に自殺した。
愛刀家は田村高廣が演じ、青
年研ぎ師は若き日の渡辺裕之
が扮する。
まるで三島文学を見るような
出来上がりの秀逸な映画作品
となっている。
私は自己ライブラリーの中で
も『七人の侍』、『ワイルド
ギース』と並んで三本柱の一
作として秘蔵版としている。
研ぎ師は仕事で選びたい。
因みに、私の手持ちの刀を過
日京都の研ぎ師に研ぎに出し
たが、十二分に刀の持ち味を
引き出す満足のいく研ぎだっ
た。
研磨という表現を通して、研
ぎ師の人間が見えるようだっ
た。
透明感のある静寂の中に、ひ
とすじの光の揺曳が漂うよう
な、静かで落ち着いた研ぎだ
った。
研ぎあげられた作品の刀を眺
めていると、心の中で庭先の
獅子脅しが静寂を厳かに、そ
れでいて慎ましく破るように
小さくコンと響く、そんな
研ぎだった。
私は先ほど、何の説明もしな
いまま上の研ぎ前と研ぎ後の
画像を友人に見せた。
日本刀に詳しくない友人は、
研ぎ上がりの方の画像を指し
て私にぽつりと言った。
「模擬刀みたい」
私もそう思う。
映画『オイディプスの刃』に
ついてのレビューコラムは、
こちら(2007年1月28日)
小説『オイディプスの刃』に
ついてのレビューコラムは、
こちら(2007年7月3日)
(両方とも「さるさる日記」
閉鎖に伴い落ちていましたが、
急きょ保存してある過去ログ
をアップしました。
私の内的感受をつづっていま
すので、よろしかったらご覧
ください)