一昨日、仕事で三原市本郷町に出たので、
帰りのルートは古代山陽道を通って三原
市内に戻った。
古代山陽道は、律令体制の確立と共に
租税徴収のために大和政権が整備した
官道のうちの一つで、街道には約10乃至
16kmごとに駅家(うまや)が設置され、
兵部省の管轄下に置かれた。
今回は五畿七道のうち、中国(なかつ
くに)の古代山陽道を行く。
大和言葉では「影面の道(かげとものみち)」
と呼ばれた。中国山地の南の陽当たり面を
陽と呼び、北部は背面の道(そとものみち)
と呼んだ現在の山陰道にあたる。
古代方位は、南北を「日横(ひよこ)」と
称し、東西を「日縦(ひたて)」と称した。
山陽道というのは漢語読みであり、古代
において山陽道は「かげとものみち」と
呼ばれていた。
七道のうち、東海道、東山道、北陸道、
山陰道、南海道、西海道の駅家ごとに
10乃至10疋程の馬を置くことが義務付け
られたが、山陽道の特徴的な面として、
山陽道のみは馬を20疋置くことが決められ
ていた。
古代山陽道の現三原地域のルート
現在の三原市地域を通る古代山陽道は
内陸の山間部を通っていた。
それは、陸路である古代山陽道が開通
した頃から後約1千年後頃まで、現在の
三原地域に陸地はなく、急峻な山が海洋
にせり出した地形だったからだ。
中世末期まで現在の三原市の市街地全域
はすべて海の中だった。
大和朝廷時代には海路が発達しており、
畿内から西に進むには瀬戸内海航路を
とり、古代から栄えた尾道の関を抜け
て、長井の浦で補水して南西に進路を
取り西進した。ただし、これは政治的な
移動や軍事作戦において。納税では車船
の利用は禁止されていた。
海路の古代航路は現三原市の湾内には
入らない。
だが、湾の奥地には突き出した山が二つ
あり、中世に毛利家は中世からここを拠点
とし、山頂に「高山城(たかやまじょう)」
および「新高山城(にいたかやまじょう)」
を築いた。
毛利は小早川家(鎌倉御家人相模国土肥実平
の末裔)の家を世襲し、毛利一族が小早川
を名乗るようになった。家を乗っ取ったと
いえる。歴史を見ると家督簒奪に関する
凄惨な事象がみられる。
その毛利一門小早川家が、戦国時代末期に
湾内の入り口付近に海上の大小の小島を
つなぎ、埋め立て事業により築城したのが
三原城だ。
完成をみたのは慶長年間の福島正則入国
治世時代で、現在の山口県に押しやられた
毛利一門は三原城を手放した。
毛利一門小早川隆景は三原城を愛し、四国
進出の際の軍功で伊予国の領主となった後
も九州北部の領主となった後も、三原城を
本城としたという。
地形的に山岳が屹立して海に突き出した
場所でただの断崖の海岸線にすぎなかった
三原は、古代にあっては辺鄙この上ない
場所であり、人の住むような所ではなかっ
たが、瀬戸内海水軍と連携もしくは隷属
させて手下(てか)に置いた場合、軍港と
しては最良の地形と場所として機能した。
毛利はそこに目を付けた。
だが、当時、湾の入り口部(現三原城=
三原駅地点)には新高山城と同じく海岸に
せり出した桜山という山の山頂には尾道
地域を支配していた杉原山名氏の桜山城
があり、毛利は手を出せなかった。備後の
武将山名氏滅亡の後に毛利小早川家は
現三原を手に入れるのである。
杉原山名氏桜山城の桜山と毛利小早川
三原城。三原駅にて撮影。
桜山のふもとまでが海だった。現三原城
は海上に築城された。
桜山の頂上には曲輪跡の土塁や井戸など
城の遺構が残っている。
三原城築城後は、毛利は桜山城を後詰の
砦として整備して後方に備え、三原城の
軍事的防備を鉄壁に固めた。
(桜山頂上の遺構)
(海に浮かぶ三原城の古写真)
この図を見れば右の対岸(現三原市貝野)
などから当時の三原地区の
海岸線の状態が判る。三原城築城までは
このような海にせり出し屹立した山と広がる
海があるだけの土地だった。
現三原城がある場所は、前面を海、後ろ手
三方を屏風のような急峻な山に囲まれていて、
水軍を中心とした軍事拠点としてはうって
つけの場所だった。
三原城が築城された400年後の現在でも
三原から外に出る(というより、外から
三原に入る)ルートは自動車でも難所で
あり、ほんのつい数十年前までは、自動車
がまともに通れるような道も整備されて
いなかったのである。
(現在の三原市太郎谷)
かつては尾道に抜ける唯一の陸路だった。
ここを路線バスが走っていた。
この道は、現在から20年ほど前までは
尾道-三原ルートの内陸部幹道として使わ
れていた。
三原とは、陸路は東・北・西ともに、この
ような道を通らなければたどりつけない
場所であるのだ。
逆を返せば、そのような地形だったから
こそ、水軍城築城に絶好の地だったのだ。
三原から外に出る陸路は車が断崖絶壁に
転落しそうな道幅の狭い片道一車線しか
昭和時代においても存在しなかった。
ところどころ車避けの地帯が建設されて
はいたが、獣道のような山道の峠で、
車は離合できず、バスなどが来たら、
くねくねの山道を車避けまでバック
して戻るという危険な道路しか存在
しなかったのである。
東にも、北にも、西に向けても、三原に
通じる道路はつい先ごろまでそれだった。
海沿いの国道が開通したのは昭和30年
頃のことである。ほんのこの前まで、
現三原地区は古代街道開通から1千500年
の長きに渡り「陸の孤島」だったのである。
いや、陸地といっても平野部の「原」
はない。現在の地名の三原の場所は全部
海に突き出した山林の山間部だけだった。
小早川隆景の築城開始と福島正則の築城
整備完成、城下町の一大開発により、
海の上に都市が出現した。それが三原だ。
今でいうと、東京お台場埋め立て臨海副
都心を想像してもらえばイメージしやすい
かもしれない。戦国末期当時は、最先端の
未来都市のような景観だったことだろう。
室町戦国時代末期の築城までは三原は
このような地形だった(類似地形画像)。
これは地質学的な面からも三原市行政
サイドも図示しているところである。
だが、多くの場合は、公的機関も三原の
名を「三つの原が合わさった場所」などと
文献史学的、考古学的な根拠のない伝承を
公式見解としている。
三原に原などはない。原が登場したのは
築城埋め立て開発以降のことだ。
中世最末期までは現在の三原地区は海
だったのである。
現在の糸崎の海辺。
クリックで拡大
三原城築城前の地点はこの現在の糸崎の
ような様子だった筈だ。
このような場所でどうやって刀など造る
というのだろう。
現在もなお「古三原は現在の三原で製作
され」と断定している刀屋や日本刀
関係者がほとんどだが、疑問は大きい。
土地なくば人は住めない。
ただし、当時は陸路よりも海路が発達して
いたから、古代から補水地として存在した
糸崎(糸崎←井戸崎←長井の浦)に刀工
正家がいた可能性はある。
だが、文献的あるいは考古学的な史料は
一切存在しない。(伝承としての記録は
広島藩の記録に「二代目正家は因島に住」
との旨の記載は見られる)
「三原」という地名が史上初登場するの
は足利尊氏の書状によるもので、これとて
現在の三原城がある場所であるかどうか
は状況資料としては疑わしく、デルタ化
していた現沼田(ぬた/渟田←ヒスイ
および古代製鉄と関係ある文字使用)川の
流域付近の事かは定かではない。
渟田の現地区名沼田。中世には南部で
市が開かれていた(現「元市」)。
現三原城からはかなり内陸部であり、
毛利小早川氏の高山城のふもとの狭い平野
地域だ。南部は渟田川から海が形成されて
いて、デルタ地帯となっていた。
規模の違いはあるが、釧路平原のような
様子だったことだろう。
その小早川氏が居城とした現三原市本郷町
にある高山城の山肌を帰路ととり、走行
してみた。
現在は本郷北という地名の住宅街になって
いる。
高山城の山の住宅街から下界を見下ろす。
下に見える住宅地は、中世まではすべて
海もしくは人は住めないデルタ地帯だった。
現在の海岸線からかなりの内陸部だが、
ここもすべて中世末期には湾内だった。
今でも潮が上ると、高山城の下まで沼田川
を海水が逆流して押し寄せる。
つまり、潮位から判断して、ここらあたり
までが本来の海岸線であったことを如実に
物語っている。
三原城から内陸約12キロ地点。
右の山が高山城、左の山が新高山城である。
この山頂が毛利小早川の拠点城だった。
高山城の山を下って古代山陽道(江戸期の
旧山陽道とはルートが異なる)に出た。
高山城を東に下ると古代駅家(うまや)
があった「真良(しんら)」という場所に
出る。現在でも大字名は「真良」と命名
されている。大和朝廷時代の地名がその
まま残っているようだ。
真良には高山城と同じような山がある。
岩山だ。
撮影場所はこの地点。
ここから駅家があった地域まで北上する。
このあたりの先に駅家があったことだろう。
馬を養うには草原が必要だ。
ここは古代には大草原だったのではなかろう
か。三原城下がすっぽりと入るほどの平地、
まさに「原」が存在する。
ここを少し北上した大字名が真良、字名が
馬井谷という場所が古代駅家があった該当
ポイントとされている。ただ、そこには馬
を20頭余を飼育する広大な平地はないので、
少し南下したこのあたりが放牧地区ではなか
ろうか。厩舎のみでは馬は飼えないからだ。
ところで、真良(しんら)という名称を
聴いてなにか感じないだろうか。
シンラとは新羅に通じるのではないか。
この地を「邪馬台国」とする説を発表
している人もいるが、ここは古代街道の
ただの駅家とするだけでは余りある古代
遺跡が周辺には散見できるのだ。
古墳群地帯は、古代在地勢力が権勢を
振るった場所といえる。
この吉備国と安芸国の国堺では、それが
本郷古墳群にあたる。
大和、吉備、出雲、筑紫という古代豪族
(王権)はそのまま地名=氏族を表し
たが、ここ吉備の西端は、ヤマトと
何らかの関係があった古代豪族がこの地
に根を張っており、多くの古墳が存在し、
鉄器、鉄剣も出土されている。
まだ発見されていない西方第五の部族
ではなく、この地に根を張った勢力は
吉備一族だった可能性も否定できない。
権力者がいるところ必ず鉄器あり。
そして、ここ三原市高坂町真良(しんら)
は、古代製鉄の原材料だった赤色褐鉄鉱
の原料の宝庫だった。
さらに、現在のところ、日本最古の
製鉄炉遺跡(製錬炉かもしれない)は
三原市内のこの古代山陽道沿いの小丸
遺跡から発掘されている。
弥生時代のものとの説もあるが、一緒に
出土した周辺出土品が6世紀のものなので、
時代を下げる説が有力視されている。
しかし、中世の刀鍛冶がポッと降って
湧いたことがないように、鉄器生産の
技術と技術者は超古代から連綿と続いて
いた筈だ。
中世刀鍛冶をどんどん紐解いていくと、
ルーツは当然弥生製鉄技術者時代まで
遡ることだろう。
律令制完備の後は、日本国内の鉄剣鉄刀
製造はすべて「官製」とされた一時期が
あったが、弥生から続く古代にあっては、
勝手な民生鉄生産はなされずに、やはり
権力者が全掌握したことだっただろう。
鳥肌が立つほどに、古代製鉄原料の
お宝の山がここ三原市高坂町だ。
この赤土はすべて古代様式のベンガラと
密接関係にある古代製鉄原料となる。
ここを古代権力者が押さえない手はない。
故に、この真良地区周辺にその地方統治
の派遣者として、在地支配者の側面を
持った部族の古墳群が形成されるに至っ
たのではなかろうか。
吉備中央の部族の鉄器産出の資源確保
地帯と設定すると同時に、吉備国の
権益確保のための統治の地方出先機関の
ような役目を負った一族がこの地を支配
したのではなかろうかと私は推察する。
つきつめると、王(在地勢力であろうと)
あるところに必ず鐵ありということが
見えてくる。
金気(かねけ)のあるソブが普通に流れ
出している。(三原市高坂町国民休暇村にて)
シンラとは古代韓鍛冶(からかぬち)と
の関連を想像させる。
ヤマト王権の各地制覇は最先端技術で
ある産鉄をめぐる抗争であった。
その勢力抗争の境界線が出雲(出雲国譲り)
であり、吉備(浦島伝説の温羅=ウラ
との戦い)であった。
ここ吉備の最西端の地域は、その両者
の中央部を貫くライン上に位置する。
ヤマトが鉄を巡って各地の王権と紛争
(あるいは政治的な傀儡化のための懐柔
作戦)を繰り返したのは、とりもなおさず、
鉄資源と製鉄技術の取り込みが主目的
だったことだろう。
鉄器を手中にするということは、最先端
の強力な武器を手に入れるという
ことだけではなく、農業生産性を飛躍的
に拡大させられることになる。
ヤマトが狙ったのはそれだろう。
そして、図式としては、全国各地の「ヤマト
成立以前の部族」こそが先進産鉄技術と
集団を持っており、銅剣しか持たない後進
部族であったヤマトはそれらを掌中に収める
ことで、当初は連合王権ヤマトであったのが、
やがて大和朝廷として国内統一していった
ことだろう。
まさに「鐵」という字のごとく、「王は金
(かね=てつ)哉(なり)」を実現したのが
大和朝廷だった。
そして、大和の王は大王(おおきみ)と
なって、唯一絶対の天皇と変化していった
のである。
連合政権だったヤマト政権は、やがて鉄と
稲を制し、単なる西欧型の「王室」では
ない(王は別家でも継承できる)、血脈
主義的な日本固有の「大王(おおきみ)」
を形成してきたのだ。そして、剣と玉と
鏡は大王の証である神器とされた。
日本の皇室が刀剣と稲作とは切っても
切れない関係にあることは、古代の
王権成立以前からの権力と鉄と穀物の
関係の歴史性を示している。
是非の判断などを遥かに超えた、超古代
からの日本の歴史そのものを皇室の存在
にみることができるのである。
日本の歴史は、鉄(鍛冶)の歴史抜きに
しては見ることができない。
古代山陽道を右に折れ、現在の三原城下へ。
もしかすると、ここが「元三原(柞原)」
であったかもしれない。
あるいは、名称不詳の謎の駅家があった
久井エリアがそうかもしれない。
久は柞原(みはら)の柞(く)につな
がり、井は水源につながる。
久井は牛取引の「杭」であるとする伝承
は後世の付会ではなかろうか。
久井は松林山林に囲まれ、流速の速い
川(芦田川上流)が山間を流れる。
それはとりもなおさず、木炭製鉄に適し
た環境なのだ。
だが、三原市北部のこのあたりのエリアは、
駅家名不明の地区も、ここ真良地区も、
学術的には古代産鉄研究の視点からの
メスが一切入れられていない空白地帯と
なっている。
これは、「駅家名不明」とされる謎の
地点が現三原の北部山間部を越えた地点
(真良=しんらと者渡=うつどの中間地点)
という謎の場所とこの真良の地区の関連に
おいても、非常に古代史の学術研究の宝が
眠っている宝庫の地帯と思えるが、なぜか、
一切学問的な研究はされていない。
それどころか、本郷古墳群の発掘研究に
おいても、古墳単体での研究という域を
脱しておらず、古代山陽道が結ぶこれらの
地域の総合的な古代権力史、古代統制史と
いう観点からの学術研究もみられない。
この周辺地域に残る「ちんこんかん」と
いう古代鍛冶と関与したと思われる奇祭を
民俗学的見地から紐解くといったような
アプローチとの提携を文献史学や考古学
は拒否している。
各分野の学術的研究が手を取り合えば、
かなりのアカデミックな研究の発展が望める
ことは目に見えているが、手付かずのようだ。
視界における目に見えぬ何らかの阻害要因が
学術界にはあるのだろう。
撮影地点から東を望む。現三原市街に続く道。
古代には存在しなかった。これは近世に整備
された西国街道にあたる道路だ。
なぜ古代山陽道という古代のアプローチ
限定ではなく、中世との話を絡めるかと
いうと、日本刀の刀鍛冶は古代末期(平安
最末期)にポッと突然に「湾刀製造者」と
して登場した存在ではなく、当然にして、
古代初期から続く鉄器製造従事者の流れで
冶金加工技術職としてあったという認識
が私にあるからだ。
だから、鉄をめぐる古代街道への視的な
接点も、細切れに古代は古代とするのでは
なく、中世の時代状況との連綿性の上に
立って捉えざるを得ないという意識が働い
ているからである。
この古代山陽道めぐりに関連して、次回は
「日本刀」成立以前の古代刀工について
書いてみたい。古代王権の兵部省との関連
あたりを。
(余話)
三原市の山に生えるカネクサ。金属鉱脈の
存在する山に生える。
弘法大師の諸国行脚は、犬を連れていたと
の伝承からも鉄資源確保の命を受けた鐵鉱脈
探しだった可能性もある。鉄鉱脈探しで「ここ
掘れワンワン」で掘ったら各地に温泉が出て
きてしまったというのが案外実際のところ
ではなかろうか。