太政官日誌は、明治新政府が京都で慶応4年2月に創刊し、以後明治10年1月に廃刊されるまで1,177号が発刊されました。現在の官報の前身にあたります。官報は明治16年に創刊されています。
発刊理由は新政府の政策や布告、動静など政府の統治にとって必要な情報を各行政機関などに周知するためです。創刊時は500部程度印刷され、諸国裁判所(当時の地方行政機関)や各藩留守居などへ配布されました。最終的には7,000部近く印刷されています。
当初は京都の業者により和紙で木版印刷していましたが、印刷局設置後の明治5年10月からは洋紙による活版印刷になりました。
(ここまでは昭和18年発行の「内閣印刷局70年史」によります)
太政官日誌が廃刊になった明治10年1月は西南の役の勃発寸前ですが、関係があるかどうかはわかりません。
太政官日誌は政府の刊行物であり、当時の権力の側の史料です。また日誌に記載されている個々の史料は写しになります。それを踏まえて読んでいると、明治初期の日本の近代化への胎動や困難が身近に感じられ、歴史への興味がそそられます。
私は歴史については素人であり、原本史料に当たったこともありません。もちろん崩し字も読めず、明治の難しい読み方もなかなかわかりません。しかし読んでいると大体の意味がとれ、時代の息吹を感じることが出来ます。
そこで近いうちに、太政官日誌から幾つかピックアップして記事を紹介しようかという、大それた思いを持っています。どうなるかはわかりませんが。
太政官日誌は、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで公開されており、関心のある方はそれをご覧頂ければと思います。
「太政官日誌 第一」表紙見返し
五箇条の御誓文の記事の一部
第一条は簡単に言えば、政府が勝手に決めないで、会議を開いてみんなの意見で決めましょう、ということです。まあ政情不穏な時節でしたから、各藩のガス抜きの面もあったと思います。
明治時代ですから、難しい言葉が多いですね。
涼しくなりました。お体御大切に。
でもちっとも分からない?
難しい言葉…