田園都市の風景から

筑後地方を中心とした情報や、昭和時代の生活の記憶、その時々に思うことなどを綴っていきます。

菜の花と川の記憶

2016年03月12日 | 季節の花巡り

 晴れの日ですが、空は霞んで青空が見えません。菜の花の満開が近いのではと筑後川に行きました。今年の菜の花は大分少ないですね。でも菜の花摘みに来ている方がいました。

 こちらでは筑後川は菜の花の名所で、コマーシャルの撮影が行われたこともあります。例年、河川敷には菜の花の絨毯が広がります。

 しばらく前の新聞で、河川事務所が河川敷から菜の花をなくすようにしている、という報道がされていました。

 

  菜の花が枯れて腐植土化するとミミズが繁殖します。するとミミズを捕食するモグラが増え、河川敷にモグラのトンネルがあちこち出来るようになります。堤防が弱体化し、治水上困るというわけです。確かに河川敷を歩いていると、細かい土の粒子が盛り上がったモグラの穴らしきものが、あちらこちらにあります。

 河川敷の菜の花畑は春の風物詩で多くの人が訪れていましたが、洪水を防ぐためには仕方ないのかなと思います。しかし、同じような記事を20年ほど前にも読んだ記憶がありますから、また元の木阿弥になるかもしれません。

 

 私は菜の花が大好きです。野の花ですが、その甘い香りをかぐと春が来たと嬉しくなります。若い頃から、春には玄関に菜の花を活けていました。細かい花びらが舞い散るのが難点で、まだ蕾の花を花瓶に挿したり、その前に茎を火であぶったりと工夫したものです。

 高校生の春、筑後川に遊びに行った帰りに、菜の花を摘んでバスに乗りました。街中で降りる時に、若い運転手が菜の花の束を手にした私を見て微笑んだ思い出があります。

  

 菜の花の向こうは神代橋です。すぐ下流で橋の架け替え工事があっています。

  

  橋のたもとに「史蹟 神代浮橋之跡」の碑が立っています。

 文永11年、元・高麗の連合軍が日本に襲来しました。俗にいう元寇です。時の執権北条時宗は薩摩など南九州の御家人にも出兵を命じます。その時、当地の神代氏は筑後川に船を浮かべ、博多に急ぐ諸軍の通行を容易にしました。それが元寇史蹟、神代の浮橋跡です。

   

 久留米市の観興寺縁起(鎌倉後期 国指定重文)にその様子が描かれています。説明碑文からの写真なので不鮮明ですが掲げておきます。ここは後に薩摩街道となる交通の要衝でした。

 

  筑後川そばにある筑後川防災施設「久留米ウス」に、楠の巨木の根っ子が置かれています。昭和28年の筑後川大水害の時に、50キロ近く上流の日田市付近から流れ着いたものです。川底から掘り出され、災害の記憶を残すためにここに置かれています。

 

  当時私は4歳でしたが、母に連れられて見に行きました。久留米大橋付近の国道3号が寸断されて、道路があったところを小舟が行き来していました。

 

 

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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
菜の花 (tyako)
2016-03-12 09:04:47
菜の花が大好きな私は、この時季になるとワクワクしてしまいます。
今年も菜の花を見に出かけるつもりです。
春を感じさせていただきました。

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Unknown (京都で定年後生活)
2016-03-12 11:18:13
こんにちは
一面の菜の花とてもきれいです。
昔はよく見かけた光景ですが、最近はとんと少なくなりました。
こういう画像を拝見すると幼い頃に見た、畑一面の菜の花を思い出します。
いつまでも残しておいてほしい景色です。
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tyako様 (九州より)
2016-03-12 16:47:07
こんにちは。
菜の花は若いころから好きでした。あの甘い香りをかぐと春を実感します。
花瓶に挿すと、花が散るからと母は好みませんでした。
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京都で定年後生活様 (九州より)
2016-03-12 16:53:56
こんにちは。
今は菜の花の絨毯を見られるのは河川敷ですね。
昔は菜の花のほかに、レンゲ畑も春の風物詩でした。復活の声もあるようです。
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