稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

No.66(昭和62年6月12日)

2019年09月07日 | 長井長正範士の遺文


○人間というのは人と人との間と書くことは皆さんのご承知の通りでありますが、
この間(ま)のとり方が対人関係で大変大事なことと思います。
従って我々はお互いの人間関係を大切にして、修養していかなければなりません。

この修養は人生終る迄修養と心がけ、洋々として死につく。
それまでには日常生活に於いて、憂い、嘆き、悩み、苦しみ、恐れ、驚き、疑い、惑う、等の
幾多の邪念を踏みにじって修養していかなければならない。

ついでに申し上げると、間は国訓で“けん・ま”と言いますが、
この“ま”を使った日常生活の言葉を拾ってみると、居間、欄間、隙間、間に合う、
間に合わせ、間に間に、間延び、間抜け、間引く、間が悪い、間を持たす等、
数え上げればまだまだ澤山ありますが、この間のとり方が如何に大大事か
心に銘記しなければなりません。

剣道に於ける間のとり方のお手本は一刀流であると小川忠太郎先生が仰っています。
一刀流の組太刀の形を修錬しておりますが、私もつくづくそう思います。
そして一刀流をやっておりますと、ひしひしと有難く生き甲斐を感じる今日此頃であります。
これからも益々一刀流組太刀の稽古に精進し
皆さんと共に生きるよろこびを味いたいと思っています。

東大寺の北河原管長は自分が生きているんだというような考えではなく、
私は生きさせて頂いているんだと仰っています。このひと言感銘を受けました。
私も、すべてに感謝報恩の念をもって、
このすばらしい人生を生きさせて頂きたいと思っております。

ちなみに欄間の語源を申し上げておきます。
昔、中国の座敷(客間として上等の部屋)の入口の襖の上の長押(なげし)に
馥郁(ふくいく)として香る蘭の鉢物を置いて飾ったところから、
ここを欄間と言った。従って欄間のある部屋を客間として大事にしていたのです。

○小川忠太郎先生は今の日本剣道形は自然の理法でない。
なぜなら皆が相談して作ったんだからである。
将来これでは駄目だという時代が来たら変えてくれと言われておった。

明治の末に「日本剣道形」が出来てから、いい人が出ていない。
剣道でいいのは古流の形があった時代である。間のお手本が一刀流だと仰った。
小川忠太郎先生にしてこのお言葉あり、恐れ入る次第であります。

私の仕えた吉田誠宏先生も生前たびたび仰っておられました事を思い出します。
降而(くだって)私思いますには、この日本剣道形を古流の形として残しておき
有段者の大人の方に形を研修して貰いたいと思っています。

そして少年には、この辺で新たに基本の形を作ってやるべきだと思います。
少年の試合、試合に明け暮れする昨今、形は稽古の如く、稽古は形の如くと言われるように、
一番大事な少年期にこそ基本の形が望ましい。

中学の1~2年になり一級からすぐ初段を受ける
インスタント時代には余計必要ではないでしょうかが、
少年に突きを危害防止やらさないのに初段を受けるのに旧態依然として
日本剣道形の三本目の突きを課すのはどうかと思うのであります。

然し私は一刀流を前に申し上げましたように17年間やっておりますが、
そのお陰で日本剣道形の大切さも判って来ましたので、
出来れば皆さんも何か一つ古流の形をやって極めて頂きたいと思います。
今の竹刀剣道に一番近いのは我田引水で恐縮ですが
一刀流だと思っておりますので一刀流をお薦め致します。
私が今日あるは一刀流のお陰様だと思ってます。 終り

備考:私の道場では少年用の形として
長正館少年基本の形五本を作りましてずっとやっております。
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