稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

全日本剣道道場連盟の発足と看板

2021年09月13日 | 剣道・剣術


2017年7月に閉館した長正館(現在も稽古は存続中)には、
“全日本剣道道場連盟本部”の看板が掲げてあって、長らく「なぜなんだ?」と不思議に思っていた。

以下は、今年7月に亡くなった井上勝由先生からお聞きした話。

全日本剣道道場連盟は、昭和36年から37年にかけ、大阪にて、
長井長正先生の師である吉田誠宏先生が全国の有志に声をかけ創立に向けて尽力した。
吉田誠宏先生の右腕として事務をされていたのが長井長正先生で、そのお手伝いを井上勝由先生がされていた。

吉田誠宏先生が亡くなられた後、吉田誠宏先生の志を継ぎ、
長井長正先生が大阪府剣道道場連盟の結成と運営に尽力された。(事務的には井上勝由先生が中心となっていた)
その後、長井長正先生は長正館を立ち上げられ、長井長正先生が亡くなられたあと井上勝由先生があとを引き継いだ。

大麻勇次先生は明治20年生まれで武専(大日本武徳会武道専門学校)では吉田誠宏先生(明治22年生まれ)の先輩にあたる。
発足の委員長は大麻勇次先生だが、実際に尽力したのは委員の吉田誠宏先生だった。
そして大麻勇次先生は全日本剣道道場連盟の初代会長に就任された。
その後、組織の中で、大麻勇次先生や小澤丘先生(明治33年生まれ)などと意見の食い違いがあって、
吉田誠宏先生は全日本剣道道場連盟と距離をおかれたらしい。

写真の「全日本剣道道場連盟本部」の看板は吉田誠宏先生の自筆で、
東大阪市善根寺の聖和道場(吉田誠宏先生のご自宅にあった道場)から長正館に移され、2017年7月まで道場に掛けてあった。
つまり、全日本剣道道場連盟の発足時は、東大阪市善根寺(旧枚岡市(ひらおかし)善根寺)の聖和道場に本部があったということになる。
看板は、現在、長正館の三代目館長である粕井が奈良の自宅に保管している。
長正館の道場を閉鎖する際に、捨てるに捨てられず、粕井が自宅に持ち帰ったというのが本当のところである。


(長正館の資料箱から出て来た封筒)


(全日本剣道道場連盟発足時の連盟規約)



この連盟規約には、本部は大阪の聖和道場とある。


(連盟への参加申込書に書かれた面々)

この時の集合場所は吉田誠宏先生の聖和道場である。

昭和38年6月20日の「全道連発第一号」の報告書には、事務連絡所は岐阜の双柳館浅川道場になっているので、
吉田誠宏先生は、この時点で全日本剣道道場連盟と距離を置かれたものと推測する。


(のちほど改訂された連盟規約)


(吉田誠宏先生は監事となり、大阪地区委員は未定になっている)

連盟規約は改訂された。吉田誠宏先生は監事という脇役に追いやられている。
近畿地区の責任者が未定になっているのが如実に混乱を現わしていると思う。
吉田誠宏先生が連盟と距離を置かれ、あわてて連盟規約を改訂したのだろうか?
全日本剣道道場連盟の歴史の表には出てこない長正館の裏話である。

【参考1】吉田誠宏先生について
https://blog.goo.ne.jp/kendokun/d/20181116/

【参考2】「水平の行者 栗須七郎」吉田誠宏のこと
https://blog.goo.ne.jp/kendokun/d/20190825/
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