先に書きましたが、書紀では吉備の美女は「兄媛」です。彼女は天皇家のDNAを受け継いだ上層の姫君でした。彼女の父親は「吉備武彦命」です。しかし、古事記に書かれている石之日売命の嫉妬を諸に受けた吉備の美女は「黒媛」です。彼女は吉備海部直の娘です。その彼女のお墓だと言い伝えられていた古墳が、備中国分寺の側にある「こうもり塚古墳」です。[この古墳については、葛原克人氏の「吉備考古論考集に詳しく報告されております。]
「こうもり塚」古墳は、一時「黒姫古墳」だとされたことがありますが、この古墳の造られた時代が6世紀後半だということが分かり、仁徳天皇の活躍した時代(4世紀後半~5世紀前半)と100年もの差がりますから、何時しか、この古墳の名前「くろひめ」が消えてしまい、今では、案内板まで、完全に「こうもり」に変ってしまっております。なお、吉備線の東総社駅の案内板に「黒姫塚」という文字が今でも残っております。
昔話の世界では、100年くらいの時の差なんて、どうでもいいと思って作られたのでしょうが、それも古代のロマンとしてみなさんに伝えられることもいいのではないでしょうか。
こうもり塚の石室です。
「こうもり塚」古墳は、一時「黒姫古墳」だとされたことがありますが、この古墳の造られた時代が6世紀後半だということが分かり、仁徳天皇の活躍した時代(4世紀後半~5世紀前半)と100年もの差がりますから、何時しか、この古墳の名前「くろひめ」が消えてしまい、今では、案内板まで、完全に「こうもり」に変ってしまっております。なお、吉備線の東総社駅の案内板に「黒姫塚」という文字が今でも残っております。
昔話の世界では、100年くらいの時の差なんて、どうでもいいと思って作られたのでしょうが、それも古代のロマンとしてみなさんに伝えられることもいいのではないでしょうか。
こうもり塚の石室です。