「サケツシマ」に到着された仁徳天皇は、早速、愛しい黒日売にお会いになられます。そこを
“黒日売令大坐其国之山方地而<クロヒメ ソノクニノ ヤマガタノトコロニ オマシマサシメテ>”
と書いております。これを「クロヒメは山方という地(ところ)に“令大坐<オホマシマサシメテ>”おすみになっていらっしゃって。」と訳せばいいと思います。
さて、問題は「山方地」ですが、この「地」について、宣長は「ところ」と読むとしております。「山方というところ」という意味になります。しかし、吉備には「山方<ヤマガタ>」というトコロはありません。久漏邪夜<クロザキ>のあるサケツ島のどこかにあったはずです。そこを私は一人、黒日売の親(吉備海部直)は仁徳天皇が自分の娘に逢いに来るという情報を察知して、予め、クロザキの近くにある、現在の『山手』辺りに、特別な別荘を造り、そこに招きいれようとしていたのではないかと想像しております。
古代に「山方」と呼ばれていた場所について、宣長は場所は特定してはおりませんが、吉備の何処かの地名だと言っております。私は、現在の「山手」ではないかと思っています。
古代には、手向山<タムケヤマ>、手綱<タヅナ>、掌<タナゴコロ>など「手」を「タ」と読ましております。すると、山方<ヤマガタ>の「タ」を、時代的には不明ですが多分鎌倉あたりから、「テ」に読みかえて、「ヤマガテ」。それが、更につまって、「ヤマテ」になり、「山手」と記されたのだと思います。なお、時代的には100年以上も差異がありますが、現在「こうもり塚古墳」と呼ばれていますが、私が子供の時には、「くろひめ塚古墳」と呼ばれていたのも、この地に黒日売がいたからではないか思います。
また、奈良時代に備中国分寺が、此の地に建てられますが、この黒日売の故事があったからこそ、選ばれたのではないでしょうか。
これが私が「山方が山手だ」とする理由です。