命は珍彦に椎を船に索納<ヒキイレ>て椎の篙<サオ>授け、名前も「椎根津彦<シヒネズヒコ>」と呼んで、それからの海路の案内者としたのです。
そこから筑紫の国の菟狭<ウサ>に至ります。そこの国造「菟狭津彦ウサツヒコ>」とその妹「菟狭津媛」が命を、菟狭の川上に
“一柱騰宮<アシヒトツアガリノミヤ>”
を造って、そこで“而奉饗焉<ミアヘ タテマツル>、饗応します。
この「一柱騰宮」を江戸末期の萬延年間に出版された「大日本国開闢由来記」には、次の様に図示しておりますので見てください。
そこから筑紫の国の菟狭<ウサ>に至ります。そこの国造「菟狭津彦ウサツヒコ>」とその妹「菟狭津媛」が命を、菟狭の川上に
“一柱騰宮<アシヒトツアガリノミヤ>”
を造って、そこで“而奉饗焉<ミアヘ タテマツル>、饗応します。
この「一柱騰宮」を江戸末期の萬延年間に出版された「大日本国開闢由来記」には、次の様に図示しておりますので見てください。