私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

兄媛と黒日売

2015-08-23 14:27:56 | 日記

 兄j媛と黒日売の生きた時代の差は、何百年という、長い期間ではありません、長くてもその差は、せいぜい2、30年ぐらいだと思われます。兄媛は応神天皇、黒日売は仁徳天皇の想い人です。応神と仁徳は親子です。それなのに、この黒日売一族への処遇の記述についての記紀の差はどうして生まれたのでしょうか?
 それについて、本居宣長は、「古事記伝」の中で、

 「書紀の仁徳の巻に、“桑田の玖賀媛を仁徳が娶ろうとしたのですが大后の御妬の為に彼女の国である桑田(丹波にある)に帰した。”という記事が見える。そんことから、玖賀媛と応神の兄媛の史実が入り混じって、また、 「玖賀}と「黒}もよく似ている。その辺りからも、この二つが一緒になって古事記の黒日売の事が新しい史実として取り上げられたのではないだろうか。」

 と書かれております。
 と、いうことは 書紀の記述が本当で、それらから類推される事として、古事記の黒日売の記事が生まれたのではないでしょうか。だから、黒日売一族への恩賞等はなく、記述出来なかったというのが真の理由かもしれません???。それと、「吉備海部直」と天皇の皇子の子孫という身分の差がそうさせたのかも知れません。

        古事記読む 残暑に涼し 風の来て。

        黒と玖賀 溶け合う今日の 残暑かな 


[多怒斯久母阿流迦]の黒日売と兄媛

2015-08-22 09:47:27 | 日記

 「多怒斯久母阿流迦」。これを<タノスクモアルカ>(楽しくもあるか)です。「なんて楽しいことだろうか」という意味になります。
 『迦』は詠嘆・感動を表す助詞「か」です。

 余程、黒日売と二人して菘菜を摘んだ山縣の出会いが嬉しかったのでしょう。「多怒斯久母」です。読めばただ「楽しい」というだけのものですが、今まで経験されたことがないような初めての体験だったのでしょうか、あたかも、子供のように何もかも忘れて一心に摘んでいる己の姿に天皇自身が感動している様子が目に浮かぶようです。

 だが、それから以降、この二人はどうなったかは古事記には何も書かれておりません。何日間、黒日売の館のある山方に留まっていたのか。その父である吉備海部直がどのように饗応したのか。そしてどんな恩賞を頂いたのか。また、黒日売のその後の処遇はどうなったかなど、日本書紀にあるような兄媛に対してなされた応神天皇のような詳しい処遇の記載はありません。

 これだけからは、その時の天皇と黒日売とその周りの人々(吉備海部直)の動きは一切分かりません。ただ、「多怒斯久母阿流迦」という8文字からしか想像するだけてす。1~2ヶ月ぐらいは此の地に留まっておられたのではないか???そして、饗応した周りの人達にもそれなりの恩賞が与えられたのではないかと思われますが、書紀にある御友別,兄媛等の吉備津彦一族に与えられたような具体的なものは一切ありません。此の御友別。兄媛の事は応神天皇の時代のことですから、この御友別の子息などが、又、此の仁徳天皇に対しても、本当ならその饗応にあたってもおかしくはないと思えるのですが、そこら辺りのことについも、記紀には、一切触れてはおりません。永遠の謎になっているのです。ここら辺りの記述の差を探しながらを読むのも、また、楽しさがありますよね。


天皇は歌います

2015-08-21 15:46:09 | 日記

 無心に菘菜を摘む嬢子の側に寄って、ご自分も一緒に摘みます。自然とその口からお歌が流れます。

 ”夜麻賀多邇<ヤマガタニ> 麻祁流阿袁那母<マケルアオナモ> 岐備比登登<キビヒトト>
 等母邇斯都米婆<トモニシツメバ> 多怒斯久母阿流迦<タヌシクモアルカ>”

  現代語訳は「山縣に 蒔ける菘菜(アオナ)も 吉備人と 共に摘めば 楽しくもあるか」です。

 「山縣」は山の畠です。縣は「アガタ」で上田(あがりた)で、「畠」を意味します。「菘菜」は「アオナ」と読ましております。本居宣長は、これは「蕪菁」「蔓菁」のことで、「かぶら」だとしております。自然に生えている青菜ではなく、栽培している蕪です。自然に生えている春の七草の「すずな
」ではありません。その頃ようやく、その「すずな」を改良して、野菜として食せるように改良して作った新種の野菜だったのでしょう。 そのような大変珍しいものを、わざわざ自分の為に、“大御羹”として食膳に供えるために自ら採ってくれているのです。感激が一入だったことに違いがありません。それも自分が以前から恋焦がれている麗しの黒日売と一緒に摘めるのです。その喜びの心が、歌として、その口から飛び出してくるのも当然でしょう。

 そのような仁徳天皇の心になって、もい一度この歌を口に出して読んでみて下さい。

   “山縣に 蒔ける菘菜(アオナ)も 岐備比登登 共にし摘めば 多怒斯久母阿流迦”


風鈴の音のなき吉備の残暑かな

2015-08-20 10:05:31 | 日記

 記録破りの今年の夏でした。クーラーとかいう文明の力を借りて、部屋の中で過ごすことが多く、どうにか熱中症にも罹らず、立秋も知らぬ間に過ぎ去っておりました。20日を迎え、今年の夏を一寸振り返ってみました。「打ち水」とか「縁台」はとっくの昔に頭の中から消え去っております。まして、昔日の真夏の風物詩であった「風鈴」なんてものはどの家からもその姿を消して見ることすらできません。「それが現代だ」と、簡単にも割り切ることも80歳の年寄りにはできません。

 どうしたことか訳もあるわけではありませんが、8月の20日になって、明け方、ふと、私の頭の中に、その風鈴という言葉が出てきたのです。
 「ああ、今年はすっかり忘れていた」
 と、早速、机の引き出しを探しました。何時であったかははっきりと覚えていないのですが何処かで買ったことがある南部鉄製の風鈴が、2つ、角の方に隠れるように置いてありました。10日の菊ではないのですが、遅まきながらに窓辺に吊るしました。生憎、今は風のありません。その短冊が小憎らしそうに、だらりと吊り下がっております。

  

   風鈴の 音聞こえぬぞ 涼風よ そよろとでも来 吾窓辺には
   窓辺にも 風鈴下げて、待ちし風 どこ吹く風と そよろともなし

 またまた駄歌を、お笑いくだし
 


山縣の天皇と黒日売

2015-08-19 10:04:23 | 日記

 山縣で一心に摘む嬢子<オトメ>「黒日売」の何とも可憐な、天女かとまがう如くの姿を、その辺りののどかなる景色の中に眺めておいでであられた天皇は、その歩を、そっと黒日売の傍まで、忍ばせながら近寄ります。そして、「アッ」と気付いたその嬢子の側に無言で腰をおろします。周りには誰もいません。黒日売と天皇のみです。遠くの山々は高からず低からず、ウグイスもそこら辺りに優しく声を響かせております。そして、花の香さえもほんのりとやさしく二人を包みこんでおります。
 この場面を、古事記には

 “天皇至坐其嬢子之採菘処”

 と、11字で持って書き現わしております。余分な物は一切省いて、二人の間に繰り広げられようとしている次への時空をも暗示しているのような書きぶりです。その時は、多分数十秒というごく短かな時間だとは思いますが、静なるものの中にわずかなる動も見当たりません。聖なる時です。それは永遠の長さのようにも思われます。