兄j媛と黒日売の生きた時代の差は、何百年という、長い期間ではありません、長くてもその差は、せいぜい2、30年ぐらいだと思われます。兄媛は応神天皇、黒日売は仁徳天皇の想い人です。応神と仁徳は親子です。それなのに、この黒日売一族への処遇の記述についての記紀の差はどうして生まれたのでしょうか?
それについて、本居宣長は、「古事記伝」の中で、
「書紀の仁徳の巻に、“桑田の玖賀媛を仁徳が娶ろうとしたのですが大后の御妬の為に彼女の国である桑田(丹波にある)に帰した。”という記事が見える。そんことから、玖賀媛と応神の兄媛の史実が入り混じって、また、 「玖賀}と「黒}もよく似ている。その辺りからも、この二つが一緒になって古事記の黒日売の事が新しい史実として取り上げられたのではないだろうか。」
と書かれております。
と、いうことは 書紀の記述が本当で、それらから類推される事として、古事記の黒日売の記事が生まれたのではないでしょうか。だから、黒日売一族への恩賞等はなく、記述出来なかったというのが真の理由かもしれません???。それと、「吉備海部直」と天皇の皇子の子孫という身分の差がそうさせたのかも知れません。
古事記読む 残暑に涼し 風の来て。
黒と玖賀 溶け合う今日の 残暑かな