私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

“千引石擎手末”の神様です。

2018-07-23 09:34:10 | 日記
 「誰ぞに 相談する子は、事代主神の外にはいないのですかか」
と、オホクニに尋ねます。すると

   “建御名方神<タケミナカタノカミ>”

 の名が挙がります。この神様は大層な力自慢の神様です。その有様を古事記では

           “千引石擎手末”

 と書いて、<テビキイワヲ タナスヱニ ササゲ>と、と読んでいます。
 あのイザナミでも越えることができないような天を突くばかりの、千人でひっぱてようやく動かすこが出来るような巨大なる石をです。それをこの神様は、あろうことか、そのその“手先”ですから手の指の先に

             “擎”

 「ささげて」です。手の指の先に軽々と載せて持ち来たのです。自分がどの位力持ちかを、建御雷神に示し、己の優位性を誇示したのです。おいそれとあなたのご命令には従わないと云う事を暗に指示したのです。北朝鮮のやり方に似ていますよね????
 それを古事記では

             “忍忍<シヌビ シヌビ>”

 と有ります。
 「我々イズモの国に何ら相談もなく、勝手にそちらで決めて来たのじゃないか。おいそれとは、あなた方の言うとおりにななりませんよ。」 
 何処までも反抗的な神様です。さあ、どうなることでしょうか??????
  

  「

千引石とは

2018-07-22 10:41:42 | 日記
  千引石とは人が千人で引っ張ってようやく移動させることができるような大きな石です。この言葉は万葉集の中に見えます。大伴家持のうたです。

         “我が恋は 千引きの石を 七ばかり
                        首に掛けるも 神のまみまに”

 万葉集の歌を読んでも、又、古事記を読むのと同じくらい、大変、楽しいですよね!!!!

建御日方神は

2018-07-21 09:33:10 | 日記
 事代主神の弟君です。なお、この神様の名前は、どうしたことか分からないのですが、オホクニのお子様としてはそれまでは何処にも書かれてはいない名前ですが、此処で初めて見る名前です。

 この神様は相当な力持ちの神様と見えて 

         ”千引石<チビキイワ>”

 例のイザナミが自分の醜い身を見られたことに対して「二度と再び、あの世へ生かして帰すものか」と怒髪天を突き、逃げるイザナギを鬼の黄泉軍に追いかさせます。しかし、屈強な黄泉軍の厳しい追跡をかいくぐって、ようやく其の鬼どもを退けて黄泉の国と常世の国の境にある「黄泉比良坂」に到達します。しかし、それでもなおイザナミは追いかけて来ます。しかたありません、イザナギはそこに巨大な石を立て懸けて、イザナミとの遠久の別れをします。その時に、この坂に立て懸けたのが「千引石」です。

  その石が再び此処に登場してくるのです。それを持ちだしたのが

        “建御日方神”

です、あの「天手力神<アメノタジカラノカミ>」と比べて、どちらが力持ちなのでしょうかね?????どのくらいの力持ちか。それはまた明日に・・・・

建御名方<タケミナカタ>と建日方<タケヒカタ>

2018-07-20 08:45:42 | 日記
 事代主神がお隠れになったその後、アマテラスの使者「建御雷神」は、再び、オホクニに

 「貴方様には事代主神の他に、この国の統治についてお尋ねしなくてはならない御子はいらっしゃいませんか?」

 と聞きます。すると、オホクニは言います。

       “亦我子有建御名方神.除此者無也”

 と。<マタ アガコ タケミナカタノカミ アリ。コレヲオキテハナシ>です。

 この「建御名方」ですが、この神の名前とよく似た名前の神が吉備国にもおられます。それはイザナギが生んだ吉備の児島の、亦の名です。

         “建日方別<カケヒカタノワケ>”

 です。
 なお、この神様をお祭している場所は、詳しくは調べてはないのですが、私が知っている範囲ですが、吉備津神社の中の「岩山宮」にお祭してあるだけです。この神様の御神体は「岩」で??、誰もが目にすることはできません。

                 

高円宮典子さま(天皇家)と出雲大社

2018-07-19 09:19:32 | 日記
  「日本書紀」を読んで居ると、二代綏靖<スイゼイ>天皇と三代安寧天皇のそれぞれの母(神武天皇の妃)は事代主神の娘「蹈鞴五十鈴媛」と「五十鈴依姫」です。出雲の国からお嫁入りされています。天皇家と出雲とは太古に於いては、このように大変関係が深かかったと云う事を物語っております。その後、その関係がいつまで続いていたのかは分からないのですが、今回の高円宮辞典子様と出雲大社の千家国麿さまとのご結婚は、それは単なる偶然ではなく、遠い二千年以上も昔から、弥生の昔からですが、繋がっていた日本の伝統的な歴史的な回帰の一事象でもあるといわなくてはならない、慶事なことなのです。左右の主義を問わず、日本国民全体でお祝いして上げなくてはならない事だと思います。
 このようにトインビーではないのですが、歴史は何時かは繰り返えされます。その歴史的事実が、現代にいたって、再び、実証されたのですから、そこら辺りからも日本人としての誇りが、何か、浮き立つのではないかと思われます。

 古い物を読んでおりますと
   「そげえな いらんことを ようも、ようも おめえちィたなあ」
 と、お笑いになられる様なことが頭に浮かんできます。このような意味での、お二人の御結婚については、誰でもは言われないとは思いますが。事代主神の事を書いていて思い付きました。お笑いください。!!!!