私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

笠沙之御前

2018-11-25 10:41:56 | 日記
 <カササノミサキ>と読みます。この場所も何処にあるのか、未だ、よく分からないのですが、宣長は、鹿児島県川邊郡の西岸の何処かだと推測されております。そうすると、その場所からは、決して、「朝鮮半島=韓国」は見えないばかりでなく、行くことすら考えられない場所ですから、「カラクニ」は日本書紀にある「空国」が正しいのではないかと思います。
 そんな一日中、日当たりの良い所が、邇邇藝命には大変気にいって、そこに

     “於底津石根。宮柱布斗斯理。於高天原冰橡多迦斯理而。坐也”

 たのです。
 <ソコツイハネニ ミヤバシラ フトシリ タカマノハラニ ヒギ タカシリテ マシマシキ>と読んでいます。
 「地の底にまで深く太い柱を立てて、高天原に届くばかりに高い千木を乗せた屋根を築いて、そこに住んだのです。
 なお、「斯理<シリ>」とは「知<シリ>」や「敷<シク>」で、「どっしりとして、シリにシクように、その場に坐す」という意味があるのだそうです。

 なお、これと全く同じ文章は、あのオホクニがスサノヲの娘「須世理毘売」と一緒に「宇迦能山」の山本に宮殿を建てた時にも、また、オホクニがお隠れになる神殿を出雲に建てる時にも、この表現と同じ文が見えます。言わずもがなですが・・・

韓国(2)

2018-11-24 13:33:33 | 日記
 邇邇藝命が言った「韓国<カラクニ>」についてですが、日本書紀の記述などから「空国(からくに)」だと宣長の説明があります。すると、現在の韓国ではなく、九州の一部らしいのです。そん場所を「大隅国の一部」ではないかとしております。
 でも、現在の学者は、
 「のの地は韓国に向ひ・・・・・」
 と訳しております。そして此の「韓国」に註を付けて「外国に向かって」としております。当然、朝鮮半島を指しているように思うのですが。中には
 「海を隔てて韓国<カラクニ>を望み、笠沙の岬を正面に見て・・・」
と、訳している人もおります。

 さて、兎に角。邇邇藝命達たどうにか葦原中国に到着されます。

        “朝日之直刺国。夕日之日照国也”

 「朝日も直接当り、その上、夕日も照り輝くよい所だ」
 と言われたのです。これを普通に考えれば、今まで住んでいた高天原は、アマテラスの住まいする所で、何時も光り輝いて、日陰など無い所だったのです。その土地と、全く、同じように朝日も夕日も何時も当たる処だったのでしょうか、それを
 
        “此地甚吉地詔而<ココゾ イト ヨキトコロナリ ト ノリタマヒテ>”

 と書いております。余程その土地が気に入ったのでしょうか???でもそこは出雲では無いのですから、出雲より良い土地と思われたのでしょうかね。此処ら辺りは永遠の迷宮な部分です。

 

韓国とは

2018-11-23 12:04:12 | 日記
 邇邇藝命一行は厚い雲に覆われて苦労して、漸くに、「高千穂之久士布流多気<タカチホノクシフルタケ>に到着したのです。そこで、ニニギは一行の者たちに言います。

         “於是詔之此地者向韓国真来笠沙之御前而”
          
 と。これを古事記では、

         <ソジシノ カラクニヲ カカサノミサキニ マギ トホリテ>

 と読ましております。でも、「待ってくださいよ」と言わなければなりません。だって、此の中に、<ソジシ>何て字は何処にも見えません。それについて、宣長先生は言います。本当は

        “於是膂肉韓国真来通笠沙之御前而詔之・・・”

 とあるべきだが、本文から「膂」の字が抜け落ち、その上、「肉」という字が「内」に誤って写されたのだとしてあります。
 その理由として「日本書紀から類推しておられます。そうした上で、此処に書かれている“韓国”も、本当は日本書紀の一書にある、“膂肉之空国、自頓丘覓国行去<ソジシノ カラクニヲ ヒタオヨリ クニマギトホリテ>”にある“空国”だとしております。
 そうした上で、この韓国についても
 「何もない荒芒とした不毛の土地を言い、膂とは背骨のことで肉のない不穀の場所を意味する。」
 と、説明がありまり、その指す所は熊襲国であるとしておっれます。
  なかなか難しいですね。そこら辺りも古事記の面白いところでしょうかね?????

邇邇藝命のお姿は

2018-11-20 14:37:35 | 日記
 「おめえが もっとるという本じゃが 大日本国開闢由来記にゃあ あのミミギノミコトの絵が けえてあるはずじゃが・・・」
 という問い合わせがありました。その1巻を見ますと、国芳の瓊瓊杵尊がありました。その絵をどうぞ!!!!

               

 こんなお姿に描かれて有りました。こんな恰好をして高天原でも生活しておいでだったのでしょうか。
 なお、世界文化社から出ている古事記の挿絵に書かれている安田靫彦の邇邇藝命の絵も一緒に見てください。江戸と昭和の違いです。どうでしょうか??

               

亦、ここで一服・・・

2018-11-20 09:56:50 | 日記
 古事記の邇邇藝命の天降りを書いているのですが、一体、この時、葦原中国に一緒に天降った神様たちは何人くらいだったのでしょうか???五人の名前は分かったいたのですが、いろいろと捜したのですが、よくは分かりません。・・・・もしかしたらと思い、またまた自慢話になるのですが、私の持っている本、安政年間に出た本ですが

            「大日本国開闢由来記」

 にでもと思いページを捲ってみました。「ありました。ありました。」
 此の本は例の歌川国芳之挿絵で有名ですが、その絵を見て下さい。

                  

  相当な数の付人と一緒に天降っておることが分かります。このような大団体の一群が、突然、天から降って湧いてきたのです。さて、その日向の高千穂の『久士布流多気』ですが、そこら辺り住んでいた人達は大変驚いたことでしょうに。まさか宇宙人とは思わなかったでしょうが??????