私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

"宇岐士摩理。蘇理多多斯而<ウキシマリ ソリタタシテ>"

2018-11-18 09:51:54 | 日記
 この「11字」について、あの宣長でさへ大変その解釈に苦労したのだそうですが、現代の訳者でも苦労されているらしいのです????
 その中で、河出書房(昭和43年度版)から出た「日本文学全集1」で、訳者の「福永武彦」は次のように訳しておられます。

 ”・・・天浮橋の傍らにある浮洲の上に立ち寄って、下界を打ち眺めたあげく、・・・・・”

 と。そして、彼は次に書かれている

       “竺紫日向之高千穂之久士布流多気<ツクシノ ヒムカノ タカチホノ クシフルタケ>”

 については
 
 “筑紫の日向にある、噴煙絶ゆることのない高千穂の峯に天降った”

 として、久士布流<クシフル>を「噴煙が絶えることが無い」と解釈しております。
 なお、宣長は此の言葉は「霊異<クシ>ぶる」で、<タケ>は「岳」で、そこが霧島山の一部だとしており、火の山で、他にない大変優れていて不思議な峯だと言うことから、「火山活動が激しい霊験あらたかな山だ」と解釈も出来るとしておりますから、そこら辺りを考慮して、福永氏も  「噴煙」 という言葉を、敢て、使って訳したのではないかと想像しておりますが、どうでしょうか???? 

“宇岐士摩理”ですが、これをどう解釈すべきでしょうか???

2018-11-17 11:29:53 | 日記
 邇邇藝命往一行が、苦労に苦労を重ねて、ようやくに、葦原中国への出口である天浮橋に到着されます。そこからです

   “宇岐士摩理。蘇理多多斯而<ウキシマリ ソリタタシテ>”


 と書かれておりますが、これ又、「何が何んだかさっぱり分からず」????その意味する所をと、又、宣長先生にです。でも、先生もですが、

            “此ノ語甚心得難し”

 としております。それほど、この11文字は難解な語句なのだそうです。そこで、宣長先生は、その解決の糸口を「日本書紀」から引きづり出しております。そして。彼は言います。

  “宇岐士摩<ウキジマ>は、地の堅まらずて、浮て泥<ヒジ>の如くなる故に、(蘇理<ソリ>は橇で)此ノ物に   乗て、とほり賜ふなり。多多斯<タタシ>は、立之に同くて、橇に乗て発<タタ>し行く意なり・・・”

 とも解釈できるのだけれども、

 "・・・・そもなほさだかにも思ヒ得ず・・・・・なほよく考ふべきことなり”

 として、なかなか解釈するのに骨が折れると書いておられます。それくらい簡単には解釈できない場所でもあるのです。

 

天浮橋は各地に・・・

2018-11-16 09:42:46 | 日記
 邇邇藝命一行は「八重多那雲」の中を、「伊都<イツ>」、ものすごい勢いで、闇雲に、あちらこちらと捜しながら進みます。そうしてようやく出口を見つけたのです。そこが、どこにある天浮橋が知る由もなしにです。葦原中国への出口さへ分かれば、そこが何処にある出口でもかまわなかったのです。
 この「伊都<イツ>」ですが、念のためにと日本書紀を見てみますと、そこには

             “稜威”

 と書いて、<イツ>と読ませております。辞書によると<リョウイ>で、意味するところは同じですが、どうして、日本書紀では、これを<イツ>と読ましたのかは分かりませんが。

 まあ、そこら辺り一寸先も見えないくらいに立ちこめた雲に、邇邇藝命に付き添っていた、あの面勝<オモカツ>な天宇受売神も、さぞ、うろたえたのではないかと面白くその顔等を想像しながら読んでおります。

“知和岐弖”ようやくに・・・・

2018-11-15 11:12:30 | 日記
 葦原中国への出口に到着します。そこが

          “天浮橋<アマノウキハシ>

 です。
 御存じ!!!イザナギ・イザナミの二神が御立ちになられたのも天浮橋ですが、此の橋は天と地を繋ぐ神達が上り降りするために架けられた橋なのですが一ヶ所にだけ架けられていたのではありません。何ヶ所かにあったのだそうです???。
 さて、この橋はどれくらいの大きさがあったかと言いますと、丹後国の風土記によるとして、

     “長サ二千二百二十九丈、広所十丈以上二十丈以下・・・”
 
 として、それが、例の天橋立として今に残っていると言われている、と説明がありますが???そうすると、邇邇藝命達が、漸く、に辿りついた橋は、あのイザナギ達の立った橋も建雷神命の通った橋とは、また、違った橋なのだと思います。その理由は・・・・・

 

          

さて、漸く、術後一週間の経過です・・・

2018-11-14 09:14:20 | 日記
 山神様の嵐も一週間が経ち、どうにか、吾身辺から通り過ぎました。そこで、朝からパソコンの前です。という訳ではないのですが・・・

 さて、あの邇邇藝命ですが、天児屋命等を随えて高天原を出発されて、葦原中国に天降りなさいます。それ以前に高天原から建御雷神など大勢の神々が葦原中国に天降った際には出逢わなかったのですが、どうした訳か分からないのですが、俄かに、この場合には、
             “八重多那雲”
が辺り一面に

              “伊都能知和岐知和岐弖”

 <イツノ チワキ チワキテ>と読んでおりますが、<イツ>とは「、厳島神社の「厳<イツ>」で、勢いが激しい鋭い様子を言います。<チワキ>は「道別ミチワケ>」で、往く道を拓きながら進む事です。
 要するに、此の度の天降りは、どうしたことか、その行く先を暗示しているが如くに、厚い雲が辺りを覆い尽くして何処をどう進んだらよいか分からず、あちこちと道を探しながら天降ったのです。
 それにしても、この一行には猨田毘古神の道案内者がいたのにもかかわらずですが、それほど“八重多那雲”というのは「一寸先は闇」通りの厚い雲だったんでしょう。その雲を“押分<オシワケ>て進んだのです。そして、漸くに、到着できた場所は、目的地「オホクニの出雲国」ではなかったのです。