私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

おいおい、また ちごおとるでえ・・・

2019-10-21 06:24:10 | 日記
 ・・・・とのご指摘をいただきました。
 それは「富登<ホト>」についてです。この言葉が「古事記」で最初に使われたのが、「多多良伊須気余理比売の段だ」と書いたのですが、その<ホト>が、それより前にも使われて書かれているとのご指摘です。
 早速、開いてみました。あのイザナミが“火之迦具土神<ヒノカグヅチノカミ>”を生んだとき

     “因生此子美蕃登見炙而病臥在”

 とあります。
 この「美蕃登<ミホト>」が古事記における最初の<ホト>だとのご指摘でした。「蕃」と「富」の字の違いはありますが意味は同じなのだとのことでした。

 どうでもいいようなことですが、「それも、まあ、有りか」と思って取り上げてみましたが????

 なお、これも蛇足ですが、昨日書いた「多多良伊須気余理比売」は、初めは

     “富登多多良伊須須岐比売<ホトタタライススギヒメ>”

 でしたが、<ホト>というのが悪いので改名したのだと補足説明がしてあります。

多多良伊須気余理比売<タタライスキヨリヒメ>”

2019-10-20 08:21:17 | 日記
  “多多良伊須気余理比売<タタライスキヨリヒメ>”

 ジンムの大后<オホキサキ>です。この后について(日本書紀では蹈鞴五十鈴媛<タタライスズヒメ>)古事記にはその由来が詳しき記述されています。それを少し・・・・・

 ある時「大久米命」はニンムのための后選びに奔走します。その結果。この葦原の国にいる由緒正しく、しかも、美人なる女性はいないかと思って探していましたところ
      「神の御子である媛女<オトメ>」
 がおると聞きます。
 この女性のルーツは、「三島湟咋<ミシマノミゾクヒノムスメ>の女」“勢夜陀多良比売<セヤタタラヒメ>”は“容姿麗美<カホヨキ>”と云う噂を何処からか聞きだした美和の
     「大物主神」
 はこの女性をどうにかして自分の妻にと考えられたのでしょうか、その方法が誠に面白いと云いましょうか大変変わった方法でこの女性に近付きます。
 現代によく新聞紙などに
 「携帯で女高校生の股間を写して捕まってった男性がいる」
との報道を見ることがしばしばあるのですが、それより以上にドエッチと言いましょうか、誠に此処に書くのも憚れるような方法で、「大物主神」は「勢夜陀多良比売」に近寄ります。
 今では水洗便所ですからそんなことはできませんが、この比売が大便所に入った時を狙って、便所の汲み取り口から、わざわざ“丹塗矢”に変身して忍びこみ、彼女がしゃがんで一物を出す前に、彼女の
   
       “突其美人之富登”

 と書かれています。
 これが古事記における「富登」と言う言葉が出てくる始めです。此の事件がきっかけとなり「多多良伊須気余理比売」が誕生するのです。



もう少々「安寧」について

2019-10-17 06:23:05 | 日記
 「安寧」と簡単に書いてはいますが、これは「漢様の御諡<ミナ>」です。正式には

    “師木津日子玉手見命<シビツヒコ タマデミノミコト>”

 ですが、この天皇の御陵は「古事記」によりますと、

           “畝火山之美富登”

 にあり。と書かれております。
 この「美富登<ミホト>」について、今日もまた少々の脱線ですが、書いてみます。
 ここにも見られますが、古事記に登場するこの「富登」ですが、これは何を意味されているかと思われますか?????

 この字が、最初に、古事記に登場するのは、先に上げた「ジンム」の妃選びの段です。重複しますが、もう一度、その「富登<ホト>」を覗いてみます。

     “然更求為大后之美人時”
   <シカレドモ サラニ オホキザキ トセム オトメヲ マギタマフトキ>

 と、例のジンムの后選びの役目をしたのが天孫降臨の時に付き添ってきた「大久米命」です。その后選びでは、当時の社会で、誰でもそこら辺りにいる美人であれば国人であっても誰でもよかったと云う訳にはいきません。一番大切なことは「家柄」、あの高天原の血筋を引く女性でなくては駄目だったのです。そのような女性がこの葦原の水穂の国にいないかと彼「大久米命」は捜していました。そのお眼鏡にかなった女性が

   “多多良伊須気余理比売<タタイスキラヨリヒメ>”
 
 です。この人はいかなる女性か。亦明日にでも・・・・・

災害に遭われたか方々の速い復興を願う・・・

2019-10-16 06:28:30 | 日記
                

 この安寧陵の写真ですが、「此処からは昭和12年頃の世相は何も見えない。」と書いたのですが、それはうかつでした。先ず、その写真の掲載されている本を見てください。

                

 です。次に、これはこの記念帖に記載されている序文ですが、これもどうぞ!!!!!

                

 ここに書かれている文章を読んで驚きました。昭和12年です。「支那事変」が起きた年の4月に出版された本です。それを見ると、その写真そのものの中には見えない世相が、本そのものの中に相当強く描き出されております。其の文章です。

 “・・・皇統天地と共に肇り連綿として窮無く、建国の悠久なること万国に秀で て・・・・・・・臣子たる者敬始尊本の念・・・”

 と。
 「何と厳めしい言葉が並んでいることよ!!」と、驚きながら読みました。この人が「欠史八代」なんて言葉を聞こうものなら何と云うでしょうかね??? 
 「もし、この本が今の世に出たとしたら世間はどう反応するのでしょうかね。名古屋辺はどうでしょうかね???」
 と云う思いで久しぶりにこの本を捲ってみた感想を書いてみました。
 時代の変遷と云うか、人の世の流れと云うか、先日の台風19号をも含めてこの世の中は「複雑怪奇」としか言いようのないものなのでしょうか?????。

 それにしても災害に遭われた多くの人達の早い復興は願わずにはおれ、おられ?????ません。

古い安寧天皇陵の写真です。

2019-10-15 07:38:25 | 日記
 今から80年ほど前の「安寧天皇陵」の古い写真です。

                

 その場の情景は今と殆ど変わってはいないように見えますがどうでしょうか。太平洋戦争前の軍部が威張っていて、言論が統制されていた世相の中で作られたものです。しかし、この写真ではそのような社会情勢までは写すことができないは当り前ですが。
 でも、このような写真を見ることによって、「平和とは何か」ということを、また、考えさせるこのとも出来る十分な古い資料でもあると考えられますが・・・・・・
   ご批判をどうぞ。(カラーではないのですが!!!!!!!)