「御友別<ミトモワケ>」
という日本書紀にのみに書かれている吉備国の大王ですが、歴史の中に表れたのはこの時だけで、歴史上でも謎の人物になっております。四世紀の初め頃の人で、兄媛の兄です。彼は相当強大な勢力を持つ吉備地方を支配していた王国を形成していたはずです。それを指し示す物として、他の地域ではあまりその例が見えないのですが、吉備独自の独特の土製品がこの時代だけに出土しております。
それが
「分銅形土製品」
です。
この土製品は、現在の所、全国から800例ほど出土していますが、その内、岡山市高松にある津寺遺跡、加茂政所遺跡からの出土が最も多く70点ほどです。この土製品の用途については、いまだはっきりとした説はありませんが、おそらく、銅鐸と一緒で、祭りの時に使った吉備地方独特の呪術的な道具に一種だったのではと考えられています。
このようなこの地方独特な文明を持つ強大で、倭と肩を並べるほどの、吉備王国の国王です。当然、そのお墓も大きくなければなりません。これはまだ定説とはなっておりませんが考えられる事はただ一つです。もうお分かりですね!!!
そうです。
”造山古墳”
です。「このお墓がそうだ。」とするのが、高松地区の人々の一般的な考え方です。その造山古墳を!!
今初夏です。一番見ごたえのある風景が辺りを席捲しております。コロナも、一応、一休みとか???今が見ごろです。一度お訪ねしてみてはいかがでしょうか
という日本書紀にのみに書かれている吉備国の大王ですが、歴史の中に表れたのはこの時だけで、歴史上でも謎の人物になっております。四世紀の初め頃の人で、兄媛の兄です。彼は相当強大な勢力を持つ吉備地方を支配していた王国を形成していたはずです。それを指し示す物として、他の地域ではあまりその例が見えないのですが、吉備独自の独特の土製品がこの時代だけに出土しております。
それが
「分銅形土製品」
です。
この土製品は、現在の所、全国から800例ほど出土していますが、その内、岡山市高松にある津寺遺跡、加茂政所遺跡からの出土が最も多く70点ほどです。この土製品の用途については、いまだはっきりとした説はありませんが、おそらく、銅鐸と一緒で、祭りの時に使った吉備地方独特の呪術的な道具に一種だったのではと考えられています。
このようなこの地方独特な文明を持つ強大で、倭と肩を並べるほどの、吉備王国の国王です。当然、そのお墓も大きくなければなりません。これはまだ定説とはなっておりませんが考えられる事はただ一つです。もうお分かりですね!!!
そうです。
”造山古墳”
です。「このお墓がそうだ。」とするのが、高松地区の人々の一般的な考え方です。その造山古墳を!!
今初夏です。一番見ごたえのある風景が辺りを席捲しております。コロナも、一応、一休みとか???今が見ごろです。一度お訪ねしてみてはいかがでしょうか