私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

御友別・・・

2020-05-25 09:47:50 | 日記
               「御友別<ミトモワケ>」

 という日本書紀にのみに書かれている吉備国の大王ですが、歴史の中に表れたのはこの時だけで、歴史上でも謎の人物になっております。四世紀の初め頃の人で、兄媛の兄です。彼は相当強大な勢力を持つ吉備地方を支配していた王国を形成していたはずです。それを指し示す物として、他の地域ではあまりその例が見えないのですが、吉備独自の独特の土製品がこの時代だけに出土しております。
 それが
       

                     「分銅形土製品」
 です。
 この土製品は、現在の所、全国から800例ほど出土していますが、その内、岡山市高松にある津寺遺跡、加茂政所遺跡からの出土が最も多く70点ほどです。この土製品の用途については、いまだはっきりとした説はありませんが、おそらく、銅鐸と一緒で、祭りの時に使った吉備地方独特の呪術的な道具に一種だったのではと考えられています。
 このようなこの地方独特な文明を持つ強大で、倭と肩を並べるほどの、吉備王国の国王です。当然、そのお墓も大きくなければなりません。これはまだ定説とはなっておりませんが考えられる事はただ一つです。もうお分かりですね!!!

  そうです。

                   ”造山古墳”

 です。「このお墓がそうだ。」とするのが、高松地区の人々の一般的な考え方です。その造山古墳を!!

    

    

 今初夏です。一番見ごたえのある風景が辺りを席捲しております。コロナも、一応、一休みとか???今が見ごろです。一度お訪ねしてみてはいかがでしょうか

「ちょっと待ちなよ!」と・・・

2020-05-24 10:38:11 | 日記
 昨日、私は「鴨別の波区芸県」が備後か美作ではないかと書いたのですが、これまた大いなる反論が届きました。
 「御友別の弟鴨別を封じた波区芸縣は笠岡付近にあった。」いわれるのです。鴨別の「鴨」も鴨方の地名がこの地方にあり、また、日本書紀に「波区芸県を封じた鴨別は笠臣の始祖なり」とあり、これは笠岡そのものの名の本になったと考えられ所以だ。この笠岡を置いてほかの土地とは考えられのだと!!!
 私は欽明天皇の時、今の真庭市辺りに置かれた「白猪屯倉」あたりではないかと推理していたので、その辺りに「波区芸県」と、長い間考えていたのですが・・・波区芸県<ハクキアガタ>の「ハク」が「白猪」と何らかの関係があったのではないかと??????

            とんだ大失敗をしておったのです????!!!!???

オウジンの御友別への褒賞

2020-05-23 09:48:41 | 日記
 天皇は御友別達の饗応を大変よろこばれて
    
       "因以割吉備国。封其子等也”

 「因りて吉備の国を割きて、その子等に封(ことよさ)したまふ」です。

 まず、御友別の子
  長子 「稲速別<イナハヤワケ>」―川島県<カワシマアガタ>
  中つ子「仲彦<ナカツヒコ>」  ―上道県<カミツミチ>
  末つ子「弟彦<オトヒコ>」   ―三野県<ミノノアガタ>
 次に、
  兄  「浦凝別<ウラゴリワケ>」―苑県<ソノノアガタ>
  弟  「鴨別<カモワケ>    ―波区芸県<ハクケノアガタ>
  妹  「兄媛」         —織部県<ハトリノアガタ>

 なお、川島縣は高梁川の河口に近い現在の船穂付近を、上道縣は備前の赤磐市付近、三野縣は岡山市の御野付近、苑縣は倉敷市真備町川辺付近、織部縣は総社市服部付近です。でも「波区芸縣」は笠岡付近だ、いや美作地方だなどと所説ぷんぷんですが、まだその場所は特定されてはいません。しかし、書紀に書かれているように
     "因以割吉備国”
 ですから、備後か美作のある地ではないかと私は考えております。ひょっとすると、備後の鞆付近ではないかとも????

吉備国と応神天皇の関係は・・・

2020-05-22 10:19:07 | 日記
 色々な饗によるもてなしを受けた応神天皇は

  「御友別が謹惶(かしこま)りて侍奉(つかまつ)れる状(さま)を看(み)そなわして、悦びたまふ情(こころ)あり。」

 御友別を始め兄媛の兄弟たち総てで大歓迎されたのを大変うれしく思われ、吉備の国を分けてそれぞれの人に分け与えたのです。ということは、それまでのように独立した大王国となっていた吉備の国を、戦争も何もなしに言向け和して、天皇の直属地にしてしまったということです。
 どうして、そのようにいとも簡単に大王国から天皇の直属地になったかという理由について藤井俊先生はその著「吉備津神社」の中で吉備について

 孝霊天皇の時、大吉備津彦命と若日子建吉備津日子命とは二柱相副はして、吉備国を言向け和したまひき。(古事記)

 更に
 若日子吉備津彦命の子に御鉏友耳建日子命がある。その子に吉備武彦命があった。景行天皇即位の四年、 日本武尊の東征に従って 副官となった。その吉備武彦命の子に、意加部彦命・建功狭日命・吉備穴戸媛・御友別命・鴨別命・兄媛がある。・・・

 続いて

 この若日子吉備津日子命に一男二女があった。長女を播磨稲目大郎媛といい、二女を播磨稲目稚郎媛という。 ともに景行天皇の 宮に入った。姉の稲目大郎媛は、天皇即位二年、皇后に立ち櫛角別王・大碓命・ 小碓命の皇子を生んだ。

 と説明があります。

 これらの記事から応神天皇と吉備との関係は、今更言わなくても、相当古い時代から、深くつながっていたことがわかります。吉備王国といっても天皇家と親戚筋にあたる関係があたのです。すると、この御友別の
                   "饗(みあへ)奉(つかまつ)らしめたまひき”
 も理解できます。


炙り物

2020-05-21 09:41:39 | 日記
「炙り物<アブリモノ>」ですが、これには野菜の料理としてはこれといって取り上げられるようなものは見つかりません。普通なら「魚」や「肉」などが考えられます。
 葉田の葦守宮ですから、まず考えられるのは「ハマグリ」「カキ」などの貝類です。その他に「タイ」「アジ」などの海からとれた魚や高梁川の「アユ」「ウナギ」も当然あったのでは・・・更に、「イノシシ」や「シカ」「ウサギ」など獣の肉も、「ツル」や「カモ」など鳥の肉も・・・

 このように見てくると、それまで一度たりともオウジンの口にしたこともないような瀬戸内の珍味が毎食の食膳を賑わしたのではと考えられます。この他、現在、私たちの口にもしたことのないような瀬戸内の珍味がオウジンの前に出されたのではないかと思うのですが・・・
 またまた私の自慢話になるのですが、その食べ物についての本を持っています。完成十一年に出た

             "日本山海名産図会 巻之五”

です。その最初に「備前水母<ビゼンクラゲ>」の説明があります。その絵を・・・

          

 その説明には次のように書かれています・・
 「形は蓮の葉を覆ひたるが如く其辺(ふち)に足の如き物あり色も紅紫(あうむらさき)にて眼も口もなく腹の下に糸のごとく絮のごとく長曳く物あり・・・その味淡くセウガスなどに和して食す・・・」

 このクラゲもオウジンの食善に上って、きっと好評を博したのではないでしょうかね???          どうでしょうかね