私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

「菘」・・・「この字何の字気になる字」ではないのですが???

2020-05-20 09:50:27 | 日記
 日本書紀にある兄媛ですが、古事記の中にはこの名はありませんが、それに代わってあるのが吉備の国の「黒媛」です。この媛を訪ねて仁徳天皇がやはり吉備へ行幸しております。その時、天皇に大吉備の大王で名前はわかりませんが吉備の海部の直も御飯<オホミケ>を奉りますが、それについて古事記に

       “於是煮大御羹。採其地之菘菜時<ココニ オホミアツモノトシテ ソコノアオナヲツメルトキニ>”

 と書いてあります。
 吉備の海部の直が天皇に差し出す料理の中の羹<アツモノ>は「蒸し物」「茹で物」「炙り物」「吸い物」のことを言います。また、次にある「菘菜<アオナ>」ですが、宣長は、今一般に言われているような「ナッパ」、「葉物」だとしております。広辞苑には「スズナ」だとも・・・
 これらから推理すると、御友別が葉田の葦守宮でオウジンに出した"饗<ミアヘ>”にも、ニントクの時に出した「蒸し物」「茹で物」「吸い物」があったと考えられます。蒸し物としては大根、茹で物としては大根、蕪、芋などが、また「菘菜<アオナ>」の入った「吸い物」などもあったのではないでしょうか??
 畑からとれた野菜類が食膳をにぎわしたのではないでしょうか。なお、「羹」ではないのですが、当然、タイコンなどの「膾<ナマス>」も出たのではとも???

  このほかの「炙り物」については明日に・・・

御友別が出した食事には・・

2020-05-19 07:25:33 | 日記
  季節は秋九月です。どのような食事を御友別がオウジンに饗したのかは定かではありませんが、ここ「葉田の葦守」は、吉備の穴海にあった当時の高梁川が流れ込んでいた、現在の岡山市北区高松付近にあった港町「吉備津」付近のはずです。海・川・山から採れる豊富な食料品が並べられたはずです。お酒も当然あったはずです。お酒については「万葉集」にも

     "古(いに)しへの 人の食(め)させる 吉備の酒
                           病(の)めば術無し 貫簀(ぬきす)賜(たば)らむ”

 という歌に詠まれているほど吉備は昔から、弥生の時代からお酒の有名な産地だったのです。
 そのお酒と一緒に並んだ料理についてですが、当時の料理にはどのようなものかあったか、その内容がわかるのは古事記にある、先に、オウジンが近江の国へ旅した時、矢河枝比売に出合って、その家で饗応してもらうのですが、その時の料理に
     ・蟹
     ・椎や菱の実
 などが食膳にあったことが伺うことができます。また同じく古事記に、オウジンが日向から来た「髪長比売<カミナガヒメ>」を自分の妃にした時に出した料理に見える
     ・野蒜
     ・花橘
     ・栗
     ・蒪(じゅんさい>
 もあります。またそのほかに牛肉なども食したということも書かれております。
 なお、お酒ですが、古事記にも「醸す酒」とあり、縄文から存在したことが書かれておりますが、現在のように米から醸造されたお酒は弥生からか???
そのお酒が現在のような製法で造りだされるようになったのは、オウジンの時の例の新羅の「ススコリ」のお酒からですが、でも、応神の母が少年オウジンに飲ませたお酒は???また、矢河枝比売がオウジンに
                "令取大御酒盞而献<オホミサカズキヲ トラシメテ タテマツリキ>”
したお酒は、人の口で咬み砕いた物から造りだしたお酒だそうですが、そお理解すればいいのでしょうかね???

 でもまあ、人々を何か饗応する場合は必ずお酒がつきものでした。この時代のお酒は人の口の中で噛み砕かれ、唾液に含まれている酵素によってデンプンがお酒に変化するのですから、その時代に今流行りの「コロナ」がなくてよかったねとうらやましくも思れるかなです。


また応神天皇に・・・・

2020-05-18 16:14:05 | 日記
 誉田天皇<ホムダノスメラミコト>が正式な応神天皇の名前です(古事記に品陀和気命<ホムダワケノミコオ>)。そのオウジンが父母に逢いたいと故郷の吉備に帰った兄媛の後を追いかけるようにして、吉備の葉田にあるに葦守宮に行幸します。その折に兄媛の兄弟たちが天皇の

                     "膳手<カシハデ>”

 となって、而奉饗焉<ミアヘ ツカヘマツル>。
 その中心人物が
                     "御友別<ミトモワケ>”
 です。吉備の国の大王だといわれ、あの日本で4位に位置する「造山古墳」に祀られた人物かも??といわれている人です。

 なお、この「膳夫」ですが天皇のために料理(饗<ミアエ>)を奉る人を呼んだのですが、この場合は「天皇に恭順の意を示すこと」を意味しています。「御友別」など吉備一族が、この時以来、こぞって天皇の臣下になったということです。

 さて、この時、御友別は、果たして、どんな食事をオウジンに差し出したのでしょうかね。時は秋9月です。お酒は勿論、松茸も肴としてその食前には並べられたとは思いますが、この他何種類かの料理が考えられます。葦守宮のあった所は、いまだそこは明確には確定してはいないのですが、瀬戸の海のすぐ傍であったことは確かです。すると、新鮮な内海の魚介類も当然並べられたはずです。ではどのような料理が??それについて私見ですが明日に書きますので見てくださいね。
 そんなものが???と思われるものも出たのではないかと・・・明日をお楽しみに??????

「犬飼松窓」とは???

2020-05-17 10:03:18 | 日記
 今朝もまた問い合わせがありました。

 「おいおい、犬飼松窓、三余塾とは一体ナンゾヤ???」

 昨日、犬養毅の「5・15事件」で、彼に関して、その師匠の「犬飼松窓」とか「三餘塾」とかをちょこっとですが書いたのですが、それについての問いあわせがありました。
 「それってな何だ??」
といわれるのです。
 この人は、この吉備津の人たちであっても、おそらく岡山の人でも、もうとっくに忘れ去られてしまっている江戸後期の倉敷市庄にいた漢学者です。この人が開いていた塾が「三余塾」です。この塾に近くに住んでいた(4kmほどの隣の町庭瀬の川入)少年時代の犬養毅も、この塾の塾生として通っていて、その後の人生に大変大きな影響を与えたといわれております
 
 そは松窓の書を持っていますので、今日はその師弟2人の書をみてください。

         

 なお、「犬飼松窓」の本は県立図書館にもありますので、興味あるお人はご覧ください。

老子の言葉ではありませんでした・・

2020-05-16 08:13:31 | 日記
   昨日の木堂の書   
       ”志正則衆邪不生・・・”
 を老子の言葉だと書いたのですが、
       「そりゃあまちげえておるぞ」
 と早速のお叱りをこうむりました。
 この言葉は中国の漢時代の思想家
        「王符(85~162)」
 の言葉だと・・・
 この言葉をどこから木堂が知ったのかわわかりませんが、木堂の若き日に三余塾で、師の「犬飼松窓」あたりから学んだものではないかとも・・・・

  まあ、そんなことよりも、今日は、心癒される5月の吉備津の絶景を・・・
               
  
 
  

       こんな景色を「直接貴方の目に」と思いながら!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!