嵯峨野の風景
北方面を見る ここから左前方は 嵐山
愛宕灯籠 いったいどのくらい あるのだろうか
3 斎宮神社の境内にありました
慶應年間 (1865年~1868年)の建立だ 明治維新前だ
2 梅津大神宮内 「愛宕山大権現」 とある 年代 不明
1 大映通り 東入り口 傘の部分は 下に置かれている
車折神社 表参道第2鳥居を入ってすぐ
愛宕神社 ありました 愛宕灯籠 慶應年間(1865年~1868年)の建立
車折神社 すべてを紹介するには 写真の量が多いので何回に分けて します 今回は 南参道と入り口
明治28年 建立 京都染呉服商大正6年 建立
後嵯峨天皇(1242年~1246年) 富岡鉄斎が宮司を務めた 5月の三船祭 白河天皇(1072年~1086年)
車折神社
平安時代末期の儒学者、清原頼業公(1122~1189)を祀る。
社伝によれば、後嵯峨天皇が、牛車に乗ってこの社前を通ろうとした時、突然牛が動かなくなり、車の轅(引棒)が折れたことから、車折神社と呼ばれるようになったといわれている。昔から学問の向上、商売繁昌、売掛金回収に御利益があるといわれ、社務所で授与された小石に祈願を込め、家に持ち帰り、願いが成就したらお礼の石を1個添えて神前に返納するという慣わしがある。
境内には、芸能道の祖神といわれる天宇受売命を祀った「芸能神社」があり、古来、芸能上達を祈願する人に厚い崇敬を受けている。また、当社の宮司でもあった富岡鉄斎の「筆塚」がある。毎年5月の第3日曜日に行われる「三船祭」では、新緑の嵐山大堰川に、御座船をはじめ、龍頭船、鷁首船、扇流し船などの多くの船を浮かべて、平安時代の優雅な風情を再建する。三船の名称は、白河天皇が、漢詩・和歌・奏楽に長けたものを三隻の船に分乗させたことによる。
京都市
大正6年 建立 大阪堂島・樋口勇吉 とある
本殿を 望む
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富岡鉄斎 富岡鉄斎旧宅 関連0014 富岡鉄斎
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齋宮 とは 伊勢神宮に仕える未婚の皇女または女王の称であり、
齋王ともいう この神社は 有栖川禊(みそぎ)の旧跡
社柱は大正9年 建立
斎宮神社
天照大神を祀る「斎宮」とは、伊勢神宮に使える未婚の皇女または女王の称であり、斎王ともいう。7世紀後半の天武天皇の頃に制度化され、天皇の即位に際し選ばれるのが例であり、後醍醐朝以後に廃絶するまで続いた。選ばれた皇女・女王は、まず宮城内の初斎院で潔斎し、次いで宮城外の浄地を朴して斎所となる野宮を設け、潔斎所をここに移し、川で禊・祓の儀が行われたと伝えられるが、この神社は、こうした野営の1つ、有栖川禊の旧跡である。
また、斎宮が野宮で3年の間潔斎したのち、伊勢に下向することは郡行と呼ばれた。なお、境内にある椋の神木は樹齢数百年で、板根は2メートル近い。また、下嵯峨街道(三条通)にも同じく椋の大木が2本あって、社地の広さを物語っていたが、交通量の激増により昭和35年に伐採された。 京都市
さざれ石 と 白龍大神
ここに、愛宕灯篭が 慶應年間 (1865~1868)の建立
拝殿
石碑 明治26年 建立
手水舎
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3 ここは、三条通り バス停 「生田口(おいたぐち)」 に近い所
以前に 真ん中あたりで 割れている 建立年 不明
梅宮参詣道 南八丁
千代の古道
発起人 河村清三郎
橋本秀麿
北村利一郎
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三条通りに 正定院の標柱(大正6年 建立) がありました 正定院は ここ
近辺寺社記事 ➡ 寺社検索05 太秦・嵯峨野
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