石碑中0019-1 日本近代医学発祥の地
なお、この地は山脇東洋が刑死者の屍体を解剖したところといわれ、昭和51年(1976年)京都府医師会によって顕彰碑が建てられた。
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山脇東洋觀臓之地 1754・宝暦4年閏2月7日
近代医学のあけぼの 観臓の記念に
1754年・宝暦4年閏2月7日に山脇東洋(名は尚徳 1705~1762)は所司代の官許をえて この地で日本最初の人体解屍観臓をおこなった 江戸の杉田玄白らの観臓に先立つこと17年前であった。この記録は5年後に「蔵志」としてまとめられた これが実証的な化学精神を医学にとり入れた成果のはじめで 日本の近代医学がこれからめばえるきっかけとなった東洋のこの偉業をたたえるとともに観臓された屈嘉の霊をなぐさめるためここに碑をたてて記念とする
1976年3月7日
日本医師会 日本医史学会 日本解剖学会 京都府医師会
石碑中0019-2 平野國臣外数十名終焉の地(六角獄舎跡)
ここは江戸時代 六角獄舎と呼ばれたところ 宝永5年(1708年)以降、明治維新に至る160年間江戸幕府直轄の獄舎のあったところ 未決囚を収容する施設であって処刑場ではなかった。正しくは「三条新地牢屋敷」と称した。六角通りに面していたから一般には「六角獄舎」と呼ばれた。東西69m、南北53m 3,640㎡゛といわれ罪科の軽重によって構造が異なり、上り屋、本牢、キリシタン牢、女牢などからなっていた。六角獄舎が有名なのは幕末、平野國臣らが無残にも処刑されたことにある。
坂本龍馬の妻になったお龍の父もここに囚われ、龍馬とお龍が六角獄舎の隣の武信稲荷神社の木に登り獄舎の様子を伺ったと話によく出てきます
獄舎は明治維新後 監獄署と改め二条城の西北地に移り、昭和の御大典にあたって山科に三転した。元の地は京都感化保護院となり、昔の遺物はなにもない。
入口に「殉難勤王志士忠霊塔」の石碑と志士たちの首を洗ったという井戸があるにすぎない。
平野国臣殉難の地
幕末尊王攘夷派の指導者平野國臣が処刑された所である。このもと
六角獄舎」があったところで安政の大獄以後は多くの政治犯が収容されたので会所ともいった。国臣はもと福岡藩士で、尊王攘夷運動に参加して脱藩し、生野の乱に挙兵して捕えられ元治元年(1864)1月17日ここに収容された。ところが同年7月19日長州藩兵の入京に端を発した禁門の変(蛤御門の変)によって、京都市中の大半が兵火に見舞われ、その翌日火勢が「六角獄舎」に迫るや、幕吏は獄中の尊王攘夷派の志士たちを斬った。この時斬られた一人が国臣である。この難にあったものは、国臣のほか古高俊太郎、長尾郁三郎、水郡善之祐ら三十数名にのぼった。なお、当地は、宝暦4年(1754)に医師山脇東洋が我が国で初めて死体解剖を行った所とも言われ、付近には記念碑も建っている。京都市
山脇東洋のゆかりの地 ➡ 人物007 山脇東洋
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