アートプラス京めぐり

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京都市外も始めました 先ずは京都南部から

陵墓右004  禮子内親王 陵墓

2015年03月25日 18時06分24秒 | 陵墓

 後鳥羽天皇皇女 禮子(れいし)内親王 陵墓  

後鳥羽天皇は平家の滅んだときの安徳天皇の次の天皇だ 

その第3皇女が禮子内親王(1200年~1273年) 

嘉陽門院賀茂斎院

 

承久3年(1221年)の承久の乱で父の後鳥羽上皇、

異母兄の土御門、順徳の3上皇が流刑、

その時出家した嘉陽門院は京に滞まった。

後鳥羽上皇は都へ帰ることはなかった。隠岐で亡くなる

 

 

ここから賀茂斎院までの経路図

陵墓 ⇒ まとめ042  陵墓

陵墓前回記事  ➡   陵墓右003  後宇多天皇髪塔  

次回陵墓記事  ➡  陵墓上005 後花園天皇火葬塚   

 

 


陵墓右003  後宇多天皇髪塔

2015年03月25日 18時04分19秒 | 陵墓

後醍醐天皇の父になる

 

中の様子はわからない

 

 陵墓 ⇒ まとめ042  陵墓

 陵墓前回記事  ➡  陵墓右002 花園西陵 鳥羽天皇皇后 璋子 

陵墓次回記事  ➡  陵墓右004  禮子内親王 陵墓   

 

 


まち歩き中0002 礎石が出てきた

2015年03月25日 17時26分58秒 | まち歩き

礎石が出てきた 明治時代に御池通り拡幅の時掘り起こされたとあります 平安時代の邸宅の礎石ではないかということですはたして・・・・

御池通黒門にある不思議な礎石

平安時代中期、藤原道長の六男長家(ながいえ)が醍醐天皇の皇子 左大臣源兼明の邸を受け継いだ邸の礎石ではないか。また、道長が法成寺建立の折、諸大臣や神泉苑の門、近隣の坊門などの礎石を曳き出せた時の忘れ礎石ではないかといわれている

明治時代に御池通り拡幅の折り掘り起こされ以来この場所に鎮座します。

まち歩き前回記事  ➡  まち歩き中0001 今はなき橋の銘 綾小路  

次回まち歩き記事  ➡   まち歩き右0003 双ヶ丘山頂から仁和寺を眺める 

 

 


老舗上001 唐板煎餅・・創業は538年前

2015年03月25日 17時25分23秒 | 伝統産業

 創業が文明9年(1477年) 538年前 よくも代々続いたもんだなあ。小麦粉を水にこねて薄く延ばし長方形に切って鉄板で焼いた 香ばしくて風味がある。 疫病除けの煎餅として愛好され 皇室では維新前皇子の誕生があるたびに御霊神社に参詣され土産にこの煎餅を買われたという。元は境内にあったが今は神社の向かいに店を構えている

 

 

 

 

 

 


道標上0023  幸神社  歩道の真ん中に建つ

2015年03月25日 17時24分22秒 | 道標

幸神社の読みは (さい の かみ の やしろ) です  寺町今出川を上がるにあります

ご覧の通り 歩道の 真ん中に どっかりと  受け入れられて 道標優先ですね

 

  幸さい かみ 社やしろ   西へ  半町  (にしへおよそ 50メートル)

 

危除 縁結

 

昭和10年1月  建立     坂田清次郎   橋本音吉

 

近辺地域寺社記事  ➡  寺町頭  

道標前回記事  ➡  道標右0022 花園駅北にあり  

 

 


石碑中0019-12 日本近代医学発祥の地 かつ 平野國臣外数十名終焉の地(六角獄舎跡)

2015年03月25日 08時09分19秒 | 幕末・明治維新前後

石碑中0019-1  日本近代医学発祥の地

なお、この地は山脇東洋が刑死者の屍体を解剖したところといわれ、昭和51年(1976年)京都府医師会によって顕彰碑が建てられた。

関連記事➡山脇東洋解剖碑所在墓地

 

山脇東洋觀臓之地   1754・宝暦4年閏2月7日

近代医学のあけぼの 観臓の記念に

1754年・宝暦4年閏2月7日に山脇東洋(名は尚徳 1705~1762)は所司代の官許をえて この地で日本最初の人体解屍観臓をおこなった 江戸の杉田玄白らの観臓に先立つこと17年前であった。この記録は5年後に「蔵志」としてまとめられた これが実証的な化学精神を医学にとり入れた成果のはじめで 日本の近代医学がこれからめばえるきっかけとなった東洋のこの偉業をたたえるとともに観臓された屈嘉の霊をなぐさめるためここに碑をたてて記念とする

1976年3月7日

日本医師会  日本医史学会  日本解剖学会  京都府医師会

 

石碑中0019-2  平野國臣外数十名終焉の地(六角獄舎跡)

 

 

ここは江戸時代 六角獄舎と呼ばれたところ 宝永5年(1708年)以降、明治維新に至る160年間江戸幕府直轄の獄舎のあったところ 未決囚を収容する施設であって処刑場ではなかった。正しくは「三条新地牢屋敷」と称した。六角通りに面していたから一般には「六角獄舎」と呼ばれた。東西69m、南北53m 3,640㎡゛といわれ罪科の軽重によって構造が異なり、上り屋、本牢、キリシタン牢、女牢などからなっていた。六角獄舎が有名なのは幕末、平野國臣らが無残にも処刑されたことにある。

 坂本龍馬の妻になったお龍の父もここに囚われ、龍馬とお龍が六角獄舎の隣の武信稲荷神社の木に登り獄舎の様子を伺ったと話によく出てきます

獄舎は明治維新後 監獄署と改め二条城の西北地に移り、昭和の御大典にあたって山科に三転した。元の地は京都感化保護院となり、昔の遺物はなにもない。

入口に「殉難勤王志士忠霊塔」の石碑と志士たちの首を洗ったという井戸があるにすぎない。

 

平野国臣殉難の地

幕末尊王攘夷派の指導者平野國臣が処刑された所である。このもと

六角獄舎」があったところで安政の大獄以後は多くの政治犯が収容されたので会所ともいった。国臣はもと福岡藩士で、尊王攘夷運動に参加して脱藩し、生野の乱に挙兵して捕えられ元治元年(1864)1月17日ここに収容された。ところが同年7月19日長州藩兵の入京に端を発した禁門の変(蛤御門の変)によって、京都市中の大半が兵火に見舞われ、その翌日火勢が「六角獄舎」に迫るや、幕吏は獄中の尊王攘夷派の志士たちを斬った。この時斬られた一人が国臣である。この難にあったものは、国臣のほか古高俊太郎、長尾郁三郎、水郡善之祐ら三十数名にのぼった。なお、当地は、宝暦4年(1754)に医師山脇東洋が我が国で初めて死体解剖を行った所とも言われ、付近には記念碑も建っている。京都市

山脇東洋のゆかりの地 ➡  人物007  山脇東洋

関連記事  ➡  37名の墓所 竹林寺

近辺地域寺社記事  ➡  中京界隈 堀川西・二条城

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