アートプラス京めぐり

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京都市外も始めました 先ずは京都南部から

史跡下007  道元が亡くなった所

2015年03月26日 21時17分41秒 | 史跡・旧跡

高辻通西洞院を西へ

道元禅師示寂の地

この地は、曹洞宗の開祖道元禅師が生涯を閉じたところである。道元禅師は、正治2年(1200)に京都で生まれ、比叡山で出家の後、貞応2年(1223)に入宋した。帰国後、建仁寺に足をとどめたが、その後、深草に興聖寺(後に宇治に移る)を建て、教化活動を続けた。晩年にいたって、権勢を逃れ、越前(福井県)に地に永平寺を創建し、釈迦正伝の仏法である座禅の厳格な宋風を樹立した。

 建長5年(1253)病の療養のために弟子懐弉を伴って上洛し、この地(下京区高辻通西洞院西入る)にあった俗弟子寛念の屋敷に滞在し同年8月に54歳の生涯を閉じた。京都市

 

1200 貴族の子として生まれる

1212 比叡山にのぼる

1213 僧になる

1217 建仁寺に入る

1223 中国(宋)にわたる

1225 曹洞宗の禅を学ぶ

1227 帰国し建仁寺へ

1230 京都深草へ移る 興聖宝林寺(こうしょうほうりんじ)を建てて禅を広める

1246 永平寺を開く

1247 執権 北条時頼の招きで鎌倉に行く

1253 療養のため京都に入ったが亡くなる

 

石碑の裏は


関連記事 ⇒  まとめ017 道元禅師

史跡前回記事 ➡  史跡中006-12 石碑中0020 長崎殉教の26聖人発祥の地  

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神社下0022  繁昌社

2015年03月26日 08時11分17秒 | 神社

 

 

本殿と社務所のある小社だ。だが歴史はある

もとは斑女(はんにょ)ノ社とか半女ノ社と云っていた。

これが転訛して斑女になったのだと伝わる

 一説には、宇治拾遺物語にある 

 長門前司の娘を葬った斑女塚が起こりとも云われる

 この塚はこの繁昌社より西北に100mほどのところにある

此の娘は縁遠く未婚のまま死んだが遺体は

他所に埋葬されることを嫌って動かず、やむなく邸内に葬った。

その後、奇怪なうわさがあって家はつぶれ、塚だけが残ったという。

ここが、繁昌社の旧座らしい 社名も斑女➡繁昌と改名したらしい

豊臣秀吉は東山の八幡社にそばに移そうとしたが

祟りがあるということで元へ戻した。

江戸時代は真言宗の僧によって管理されていたが、

明治の神仏分離によって神社だけが残った

昔は縁談事で当社の前を通ると、必ず破談になるといわれ、

嫁入り婿入りの行列もこの社の前を避けていた。

これは、未婚のまま死んだ斑女を敬遠したからであろう。

が今日ではこれを逆手に取り商売繁盛、縁結びの神として信仰されている

ここは 繁昌社 とある

 

繁昌社

 

繁昌社の祭神は宗像三女神、田心姫命、市杵島姫命、湍津姫命である。三女神は、海上交通の神で、商品流通の守護から「市の神」として信仰されている。江戸時代には、功徳院と号し、真言宗の僧によって管理されていたが、明治の神仏分離により神社だけが残った。当社はもと「班女ノ社」とも、「半女ノ社」とも称し、牛頭天王の后針才女を祀り、それが転訛し班女になったと伝える。また、「宇治拾遺物語」巻三の中に「長門前司の娘が亡くなった後、遺骸を運び出そうとしたが動かず、塚になった」と記す。この塚が、社の北西方向(仏光寺通の抜ける小路の中ほど)に現在も残っている「班女塚」だと伝える。

後世の書物に、「班女と繁昌は同音の為、男女参拝し子孫繁栄を祈願する」と書かれ、縁結びの神として詣でられる他、市杵島姫命は仏教の「弁財天」と解されることから、商売繁盛・諸芸上達の利益があるという。京都市

 

 

ここは 繁昌宮 とある

 

ここは 繁昌神社 とある

 

関連記事 ➡ 班女塚

 神社前回記事  ➡  神社右0021  猿田彦神社  三条天神川  

神社次回記事  ➡  神社下0023 菅大臣神社  

 


史跡中006-12 石碑中0020 長崎殉教の26聖人発祥の地

2015年03月26日 06時44分17秒 | 史跡・旧跡

 史跡中006-1   長崎殉教の26聖人発祥の地

ここは 四条堀川下がるの 病院の壁

 

SUS  OBRAS  HABLAN 

26聖人発祥の地 

ここから西100m妙満寺町に1594年フランシスコ会のベトロ・バプティスタ神父により聖マリア教会病院学校スペイン使節館が建てられた 

1597年2月5日に長崎で殉教した26聖人は同神父をはじめ5名のフランシスコ会士と3名の日本人イエズス会士および17名の日本人信者で殆んどここで活動した人であった 

ここに建設された聖アンナおよび聖ヨセフ病院は京都最初の西洋式のもので貧しい人が多数収容された 

ここに26聖人を顕彰するとともに救貧救病の社会事業が行われたことを記念して銘板を掲げる 

1979年 駐日スペイン大使館 カトリック京都司教区 

 

そこに行ってみると

史跡中006-2  妙満寺跡 26聖人発祥の地

石碑中0020  妙満寺跡 26聖人発祥の地

確か長崎までは歩いて行ったんだ 当然だな

法華宗総本山妙満寺は,永徳3(1383)年室町六条坊門に建立されたが,

応仁の乱や天文法華の乱などで移転した。

天文7(1538)年この地に落ち着いたが,天正11(1583)年,

豊臣秀吉(1536~98)の命で寺町二条へ移った。

 
 文禄2(1593)年秀吉の招きで来日した

 フランシスコ会ペトロ・バプチスタ神父(?~1596)は,妙満寺跡地を与えられ,

 ここを拠点に布教活動を行った。

 慶長元(1596)年,キリシタン追放政策に転じた秀吉は,

 京都・大坂の日本人信者らとともに神父を捕え,長崎に送り処刑した。

 のちに彼ら26名は聖人に列せられた。

 この石標は,妙満寺跡と二十六聖人の遺跡を示すものである。

 妙満寺は現在、左京区岩倉にあります

 

この石碑とは直接関わりはないですが

このころの キリシタン墓碑は何か所かで掘り出されています

石碑前回記事  ➡  石碑中0019-12 日本近代医学発祥の地 かつ 平野國臣外数十名終焉の地(六角獄舎跡) 

史跡前回記事  ➡ 史跡右005  車僧影堂 

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関連記事  ➡  一条戻橋の26聖人