辰巳稲荷
使われなくなった 灯篭 ?
名物 さくら餅 今はない
小唄 石碑
この歌をとなえて お参りください と書いてある
富岡鉄斎 筆塚 2000本納められている
大国主神社
奉納された
舞 石碑
関連記事 ➡ 関連0014 富岡鉄斎
近辺地域寺社記事 ➡ 寺社検索05 太秦・嵯峨野
神社前回記事 ➡ 神社右0012-5 車折神社 表参道より入る
神社次回記事 ➡ 神社左0013 須賀神社・交通神社
辰巳稲荷
使われなくなった 灯篭 ?
名物 さくら餅 今はない
小唄 石碑
この歌をとなえて お参りください と書いてある
富岡鉄斎 筆塚 2000本納められている
大国主神社
奉納された
舞 石碑
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表参道より 境内に入る 右の 社柱は 平成20年建立 以前はここに第2鳥居があった
愛宕神社 ありました 愛宕灯籠 慶應年間の建立
水神社
車折大明神 享和2年(1802年)
奉納された石
近辺地域寺社記事 ➡ 寺社検索05 太秦・嵯峨野
神社前回記事 ➡ 神社右0012-4 車折神社 本殿
次回車折神社記事 ➡ 神社右0012-6 車折神社 表参道 第3鳥居まで
2つとも 昭和4年 三宅安兵衛 建立・・とある
道標右0008-1
左 細谷 直指庵 菖蒲谷池 角倉氏隧道
右 高雄道 長刀坂 後宇多帝陵
道標右0008-2
北 直指庵 隠元禅師 最初の寺
勤王老女村岡乃墓
近辺地域寺社記事 ➡ 寺社検索05 太秦・嵯峨野
関連記事 ➡ 三宅安兵衛の道標
道標前回記事 ➡ 道標右0007-123 嵯峨野の野に道標(みちしるべ) 3つ
次回道標記事 ➡ 道標右0009 子安地蔵 西一丁
遍照寺を創建した僧の寛朝(かんじょう)が亡くなると、それを悲しんだ寛朝に仕えていた待童が悲しみのあまり池に身を投げたので、その霊を祀ったと伝わる
児神社の由来
児神社は創立年月不詳、祭神は寛朝大僧正の侍児である。寛朝大僧正は、成田山新勝寺を開創、後にこの嵯峨広沢の地に遍照寺を建立、名僧上として徳は一世に及ぶものなしと言われた。長徳4(998)年6月12日、大僧正示寂、伝聞にはその時、遍照寺山腹の老松から龍となり、静かに昇天してゆくのが見えたという。残された児は、悲嘆・悲泣し、後を追い、山腹下の広がる広沢の池に身を沈めた。近在の人々、この児を哀れと思い、その霊を慰めんものとこの社を創建、以来児神社と称されるようになった。
この社については、弘化4年春、嵯峨青護山人の述べるところ、略記すれば、次のごとくである。
女人懐妊すれば、必ずこの神殿に詣で安産を願い且つ生まるる子の智恵愛敬を祈るなり。最も霊験いちじるく昔よりこのところに五体健全、長命の人多きはまったく此神徳による処なり仰ぐべし尊ぶべし。
なお、寛朝大僧正がこの広沢の池畔で座禅の折、傍らでいつも児が腰を掛けていたという石椅子が、境内地に移し置かれいつしか神前で一心に祈願し、この石に座れば、必ず長命・安産・縁結びが叶うと伝えられるようになった。まったく不思議なことである。
ちごの宮ちごは安けく生ひたちて 神の恵みのふかきをそ知る
永休
児神社宮司 野々村良惠 敬白
その当時 童が腰かけていたという 石
本殿
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前回神社記事 ➡ 神社右0019 角倉稲荷神社 ・・この地域にふさわしい名だ 角倉
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嵯峨野の野に道しるべ 3つの道標 後ろの山は広沢の池にある 遍照寺山
右から
道標右0007-1
広沢池 御室街道に出づ 此辺一帯 嵯峨天皇仙洞址
昭和4年 三宅安兵衛 遺志 建立
真ん中
道標右0007-2
右 遍照寺山 寛朝僧正 左 高雄道 後宇多帝
昭和4年 京都 三宅安兵衛 遺志 建立
左
道標右0007-3
文徳帝陵 東南25町 後宇多帝陵 北3町
昭和3年 皇陵巡拝会
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