安養寺町中 明治31年12月
門は閉ざされていた
洛西で一番大きい木造お地蔵さん
毎月1日・23日 本尊御開帳
秘仏・重要文化財・藤原時代
叶地蔵大菩薩法要 他に珍しい衣紋様入り 六体・立像
六道地蔵大菩薩 身等大
並に閻魔大王・弘法大師 安置
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車僧影堂 聞いたことがないような 何なんだろう
畑の中に小さな堂がぽつんと建っていました
室町時代 初期だ
車僧影堂
堂内に、元禄のころ廃寺となった海生寺の開祖深山禅師の像と位牌が安置されている。室町初期の肖像彫刻の特色をもっているが、江戸時代の「都名所図会」には
この僧いずれの姓の人かしれず、常に破れ車に乗り都大路を往来す、よって世の人、車僧と呼ぶ。7百歳とも称すーと書かれているる。謡曲「車僧」は、愛宕山の天狗太郎坊が、深山禅師を魔道に誘惑せんとして成功しなかった話だが、禅師を戯曲に仕立てたものである。堂は往年の海生寺の跡地に当たる。 謡曲史跡保存会
海生寺遺跡 開山堂
・・・・14年12月建立
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昔は道端にあったのかも
無観世音菩薩 あたごへ 二里半
ふしミへ 三里半
今は神社内に設置されている
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璋子(あきこ しょうし たまこ) 1101年~1145年 は
崇徳天皇、後白河天皇の母
激動の時代に生きた人です
一番年下の息子(覚性入道親王 本仁親王 1129年~1169年)は
仁和寺の総法務を務めている 関連があるのかな
灯籠に 待賢門院 の文字が
陵墓 ⇒ まとめ042 陵墓
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➡ 娘の御陵
陵墓前回記事 ➡ 陵墓右001 長慶天皇陵
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車も通れないようなところにある
「長存寺殿明窓玄智大禅定門」と石碑に刻まれている (明治36年 市川団蔵 建立)
光秀は天正10年(1582年)6月 山崎の合戦で敗れ、江州坂本城を目指して遁れる途中 伏見の小栗栖で襲撃を受け最後を遂げた。
首は粟田の刑場でさらされたのち、付近の西小物座町の人家の後ろに埋められた その後光秀の子孫にあたる明田某が梅宮町の自宅に移し光秀の菩提を弔った
ここは、首より上の病気に悩むものはこの塚に祈れば霊験があるという
関連記事 ➡ 明智光秀公報恩塔
史跡前回記事 ➡ 史跡右003 淳和院跡
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