989年 創建 古い
応仁の乱の後 すたれた、赤不動尊が難を逃れ また、広沢の池の観音島に
祀られていた11面観音像も安置している どちらも 重要文化財
遍照寺
廣澤山と号する真言宗御室派の準別格本山である。当寺は、永祚元年(989)宇多天皇の孫にあたる寛朝僧正が円融上皇の御願により広沢池北方の遍照寺山麓に創建したものである。醍醐寺を中心とする小野流では庶民出身僧侶の活躍が目立ったが、仁和寺を中心とする広沢流は名門貴族出身者が多く、当時はその 本道場として名声を集めた。
かつては広大な寺域と伽藍を有したと伝えられるが、14世紀の後宇多天皇の頃からしだいに荒廃した。寛永10年(1633)仁和寺門跡の内意により、本尊及び寛朝画像等を池裏の草堂に移して遍照寺の名称を伝えた。本尊の木像11面観音立像及び木造不動明王坐像は、いずれも、一木調成の創建時の遺像で、重要文化財に指定されている。京都市
11面観音像はもとは広沢池の観音島に祀られていたものを移した。
源氏物語・遍照寺境内
永祚元年(989)花山天皇(一説に円融天皇)の御願により寛朝僧正の開基で、仁和寺の法流を広め真言宗広沢派の発祥の地となった。旧寺地は池の北西に位置し遍照寺山の麓にあって広沢の池に臨む景勝の地で観月の名勝として知られたが、応仁・文明の乱で廃墟となり江戸期に池南方の現在地に移された。本尊11面観音立像と赤不動明王坐像は、遍照寺創建時の作で重要文化財に指定されている。
紫式部が20歳の頃、遍照寺に具平親王と大顔がお忍びでお月見に出かけたが、月見を楽しんでいる最中、大顔が消え入るように急死した。このことで紫式部の父と伯父は、残された子どものためにも奔走することとなった。村上天皇皇子の具平親王は博学多才で有名だか、大顔は親王家に仕える雑役の女性だった。この身分違いの恋や、遍照寺の事件などは「源氏物語」 「夕顔」の土台になったといわれ、光源氏と身分違いの恋をしていた夕顔は、大顔がモデルとされる
扁額
本堂
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