長等神社は、天智天皇の頃に、日吉社より素戔嗚命・大山咋命の二神を勧請したことに始まりますが、この二神は初め長等山の山頂に勧請されました。のち天喜2年(1054)に至り、現在の社地にうつり、これにより神出の地名が起こったと伝えられています。
参道の 石鳥居
楼門は明治38年(1905)の竣工
神社 前回の記事 ➡ 神社伏0076-1 御香宮神社1
今日の川柳
気心の知れた同士のはしご酒 /芦田
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長等神社は、天智天皇の頃に、日吉社より素戔嗚命・大山咋命の二神を勧請したことに始まりますが、この二神は初め長等山の山頂に勧請されました。のち天喜2年(1054)に至り、現在の社地にうつり、これにより神出の地名が起こったと伝えられています。
参道の 石鳥居
楼門は明治38年(1905)の竣工
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気心の知れた同士のはしご酒 /芦田
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第1立坑への分かれ道
左へ進みます
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き滋賀0216 小関峠 の セミ、蜘蛛、花
今日の川柳
お忍びで娘のバイト先に行く /前中
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末社
金礼宮 那智 熊野社 新宮 天満天宮 春日大社
伊勢宮
豊国社
大正7年1月
末社
住吉 八幡 八坂
御香水 碑
絵馬舎
絵馬は百数十を数え、元禄・享保以前のものも少なくない。
中でも、正保3年(1646)奉納の猿曳きの絵馬は、その彫刻優秀にして種々の伝説を生み、左甚五郎の作とまでいわれた。
また、和算の大家、西岡天極斎奉納の算額は、わが国算学史上、貴重な資料とされている。
御大典記念の額
御香宮神社 前回の記事 ➡ 神社伏0076-6 御香宮神社6 北参道入口 ・ 末社など
御香宮の記事 今回で終了
神社 前回の記事 ➡ 神社山0075 蝉丸神社
今日の川柳
頑張れる今が幸せ缶ビール /根来
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琵琶湖疏水は、明治維新で東京に都が移り、活気を失っていた京都の復興を目指してつくられたもので、明治18年(1885)に、第1疎水の工事がはじまりました。第1疎水の第1トンネルは、大津の三井寺下と藤尾の両側から掘りすすめられました。同時に、藤尾側から約740m(第1トンネル全長の3分の1の地点)のところに第1竪抗を掘り下げ、その底から大津の三井寺下・藤尾の東西両側の出入口に向けて掘り進め、東西のトンネルが貫通しました。このようにして明治23年(1890)に完成した第1トンネルは、当時日本で1番長いトンネル(全長2436m)となりました。
竪抗とは、地表から垂直に掘り下げた坑道で、工事の促進・換気・採光のためにつくられました。竪抗の深さは約50mあります。また、地上から5.5mまでの抗口上部は、直径5.5mの円形、それ以下の部分は3.2m×2.7mの楕円形になっています。琵琶湖疏水工事の責任者であった田邉朔朗は、昭和14年(1939)疏水工事を振り返って、「一番苦しんだのは竪抗ですけれども、それと同時に工事上で安心を与えてくれたのがあの竪抗です」とかたっています。
なお、平成8年(1996)6月には、第1疎水のトンネル(第1、第2、第3)の各出入口、第1竪抗、第2竪抗、第11号橋(本邦最初鐵筋混凝土橋)、山ノ谷橋、蹴上インクラインか、南禅寺水路閣の12箇所が国の史跡に指定されました。
田邉朔朗 1861年(文久元)~1944年(昭和19)
明治10年(1877)工部大学校(現在の東京大学工学部)に入学し、同16年、卒業しました。卒業論文が琵琶湖疏水にかかわるもので、右手を怪我しながらも、左手で製図し、論文を書いたという有名なエピソードがあります。卒業してすぐに琵琶湖疏水工事のために京都府に採用され、同20年琵琶湖疏水工事全ての責任者となりました。
琵琶湖疏水 前回の記事 ➡ まち歩き滋賀0214 琵琶湖疏水 鹿関橋
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き滋賀0215 小関越 滋賀~峠~藤尾
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終わりまで留めて余ったボタン穴 /古崎
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