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まち歩き滋賀0262  逢坂の関  車石 と 常夜燈

2016年11月21日 18時36分16秒 | まち歩き

 

 

逢坂の関の初出は、平安京遷都の翌年延暦14年(795)に逢坂の関の前進が廃止されたという『日本紀略』の記述です。

その後、逢坂の関は京の都を守る重要な関所である三関(鈴鹿関・不破関・逢坂関)のひとつとして、弘仁元年(810)以降、重要な役割を果たしていましたが、平安後期からは徐々に形骸かされその形を失ってきました。

逢坂の関の位置については現在の関蝉丸神社(上社)から関寺(現在の長安寺のある辺り)の周辺にあったともいわれますが、いまだにその位置は明らかになっていません。

 

 

車石

 

 

逢坂常夜燈   

 

   寛政6年 甲寅 11月(1794) 建立   

4人の名が記されています  

願主 大津/米屋中

北国屋仁兵衛 他3名

車石 ⇒ まとめ005 車石 のあるところ

同じ常夜燈  ➡  祠滋賀020 

まち歩き 前回の記事➡  まち歩き滋賀0261 歌碑 逢坂の関、逢坂山を歌った 蝉丸・清少納言・三條右大臣

 

川柳

徳のほか地位カネ名誉みんな持ち    /小野寺逆

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まち歩き滋賀0261  歌碑  逢坂の関、逢坂山を歌った 蝉丸・清少納言・三條右大臣

2016年11月21日 08時14分25秒 | まち歩き

 

 

左から  蝉丸  三条右大臣   清少納言

 

右端は清少納言の歌碑

「夜をこめて鳥の空音ははかるとも 世に逢坂の関はゆるさじ」

『後拾遺集』夜がまだ明けないうちに、鶏の泣き真似をして人をだまそうとしても、函谷関ならともかく、この逢坂の関は決して許しませんよ(あなたには絶対逢ってあげませんよ)

中央は三条右大臣の歌碑

「名にしおはば逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな」

『後撰集』恋しい人に逢える「逢坂山」、一緒にひと夜を過ごせる「小寝葛(さねかずら)」、その名前にそむかないならば、逢坂山のさねかずらをたぐり寄せるように、誰にも知られずあなたを連れ出す方法があればいいのに・・

 

左は蝉丸の歌碑

「是れやこの行くもかへるも別れては知るもしらぬも逢坂の関」

『後撰集』これがあの、京から出て行く人も帰る人も、知り合いも知らない他人も、皆ここで別れ、そしてここで出会うという有名な逢坂の関。

 

まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き滋賀0260  大谷町  駐車場にも車石がありました

 

川柳

ちょっとボケくらいの写真がいいと母    /青木

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石碑滋賀0079  大津絵販売の地  大谷町

2016年11月21日 07時25分08秒 | 石碑

此の附近(逢坂関跡) 大津絵販売之地

浜大津ハン六 二代目六兵衛(絵)

 平成25年(巳歳)正月建立

 

逢坂の関では走井餅や算盤と並んで大津絵が旅人の間に人気があった。大津絵とは江戸時代初期東海道53次の大津の宿場(大津の追分、大谷)で軒を並べ、街道を行き交う旅人に縁起物として神仏画を描き売ったのがその始まりである。

浜大津の印鑑店「ハン六」の二代目松室六兵衛が明治時代にこの地で大津絵を刷って売りさばいていたことを示しています。  

大津絵 関連記事  ➡  まち歩き滋賀0207  浜大津駅 と 大津絵

石碑 前回の記事  ➡  石碑山0078  大津算盤の始祖・片岡庄兵衛

 

川柳

 

こんなにも脂肪があってなぜ寒い   /甲子園

 

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まち歩き滋賀0260  大谷町  駐車場にも車石がありました

2016年11月21日 06時45分17秒 | まち歩き

 

 

 

車石 ⇒ まとめ005 車石 のあるところ

まち歩き 前回の記事 ➡  まち歩き滋賀0259  看板の絵 東海道53次  大津宿 走井茶店

 

川柳

両隣引っ越し室温2度下がり     /まこっちゃん

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