木喰遺蹟 粟田口の大名号碑
木食正禅養阿上人(1687~1763)は、江戸中期の木食上人のひとりである(出身は丹波保津村)。木食とは、草根木皮の生食のみで生きる、難行中の難行を云う。
当時の京都には、11ケ所の無常所(6墓五三昧)があり、いずれも刑場に近いので、僧俗一般に敬遠されがちであった。しかし、上人は敢えて寒夜を選んで、念佛回向にまわり、享保2年(1717)7月、永代供養のため、各所に名号碑を建立した。なかでも、粟田口は京都最大の刑場なので、一丈三尺(約4m)の特大にしたと旧記にある。現在、下半分が補修されているが、更に復元すれは、「南無阿弥陀佛木食正禅 粟田口寒念佛墓廻り回向 享保二丁酉七月十五日」となるべきであろう。もと九条山周辺にあったが、明治の排仏思想の折、人為的に切断されて道路の溝蓋などに流用されたのである。その時の痛ましい傷痕は、今も石肌に判然と遺っている。
(解説・京都石佛会) 陵ケ岡自治町内連合会
南無阿弥陀仏
安祥院開基木食養阿(?~1763)は,享保2(1717)年に京都の葬送地や刑場(六墓五三昧)に慰霊のため「南無阿弥陀仏」の名号碑を建立した。この碑はその一で,粟田口の刑場に立てたものであるが,のち遺棄され,昭和8(1933)年の国道改修工事の際に折れた上半部のみが出土し現在地に据え置かれた。昭和40(1965)年に下半部を補い復元されている。
「木食養阿上人絵伝」(安祥院蔵)には「三条粟田口御仕置所は別而重罪超過の所なればとて,石塔も亦余所に過れて大サ壱丈三尺余」と記す。なお,北面下半部に西光院中興西隠の建碑と記すことは不詳。
此名号石者京都市上京区仁
和寺街道御前通東入浄土宗
西光院中興開山西隠法師所
建立也法師憐於粟田口東刑
場刑死人々幽魂享保二年建
立于刑場側矣昭和八年際京
津国道改修被移于此地然下
半部缺損上半部亦三縦断老
衲深憂之発願其復元得有志
恊力茲工成修開眼法要以顕
彰西隠法師遺徳矣
維時昭和四十年孟春之日
浄土宗総本山知恩院第八
十三世量誉信宏撰書
享保二丁酉七月
粟田口名号碑 碑文の大意
この碑は京都市上京区仁和寺街道御前東入の浄土宗西光院中興開山西隠法師が建立したものである。法師は粟田口刑場で処刑された罪人の鎮魂のため,享保2年刑場のそばに碑を建てた。
昭和8年,京都大津間国道改修工事に際し,粟田口から移されて現在地に移された。ところが,下半分がなくなって,しかも上半分も縦に三分されていた。わたし(筆者量誉信宏)はこれを残念に思い,復元を発願した。有志の協力を得てここに竣工し,開眼供養を修し西隠法師の遺徳を顕彰するものである
京津国道ニ於ケル犠牲者ノ為ニ 昭和八年三月
正面の「弥」中央から下は、新しい石で補修されている。
六墓とは、南無地蔵、大谷、西ノ土手、粟田口、最勝河原(西院)、元三昧の6ケ所。
五三昧は、狐塚(南区唐橋井園町)、阿弥陀ケ峰、中山(黒谷)、千本、七条金光寺の五ケ所をさす。
(六所五三昧の場所は諸説あり、いくつかは特定されていない)
なかでも、粟田口は京都最大の刑場で、江戸時代だけで約6000人(15000人とも)が処刑されたという。処刑は毎年12月20日に市中引きまわしの上行われた。まとめて行われたから、京の町衆は「果てのはつか(20日)」と呼んで恐れたという。
「木食養阿上人絵伝」(安祥院蔵)には、正禅が「三条粟田口御仕置所は別而重罪超過のところなればとて、石塔も亦余所に過れて大サ壱丈三尺余(約4m)」の大板碑を建立したと記す。
もとの下半部が欠矢しているから比較資料による筆跡鑑定が決め手になる。
西大路三条東入、教宣寺前庭に正禅の名号塔がある。
花崗岩製、高さ139×幅42.5cm。正面に「南無阿弥陀仏木食正禅」、その両脇に「寒念仏墓回り廻向」側面には「享保二丁酉七月元さんまい(元三昧)」と刻まれている。
粟田口の上半分と比べると同じ字体である。
明治元年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、正禅の建てた名号碑は横に二分、さらに縦に三分割され、道路の溝蓋などに流用されたという。その後、現在地に移され復元補修された。
すぐ北側の小川沿いにあった 石柱
文字が刻まれています
何か書かれているような 判別できません
養阿上人 関連 ➡ 松明殿稲荷神社 養阿上人の井戸あり、この辺り朝市・夜店で賑わったのだろう
木食上人 碑
安祥院 まだ行けてない
教宣寺
石碑 前回の記事 ➡ 石碑山0067 日本最初の鉄筋コンクリート橋
今回の川柳
もう寝たら終わってしまううれしい日 /秀丸
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