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石碑山0070  京津国道改良工事 紀念碑 ・大迫力 全部 車石で出来ている

2016年11月08日 10時41分33秒 | 石碑

 

紀念 京津国道改良工事 昭和八年三月竣工

高270×幅50×奥行50cm(除く車石基壇)

京都市の蹴上と大津市の札の辻を結ぶ京津国道は,昭和6(1931)年から昭和8年にかけて,内務省大阪土木出張所京津国道改良事務所により拡幅舗装が施工された。この碑は工事竣工を記念して建てられたもので,3段の基壇には三条街道車石の廃材が使われている。また碑本体には竪に溝が走っていて,車の通行で溝ができた橋材を再利用したものと考えられている。

 

 

大阪朝日新聞(昭和8年5月28日)には「京津新国道竣工きのふ晴れの開通式」「その昔の難所も今は夢の夢」と出ています。新国道は延長7.63km、総工費230万円、京津間の難所とされた日ノ岡、逢坂山両峠を削って勾配を緩やかにし、幅員も11mに拡大、平坦部では16m以上とし、歩・車道の区別をつけ、完全な舗装化によって京都大津間を自動車で僅か17、8分になり、従来よりも12、3分短縮されたと伝えています。

 

 

 


車石 ⇒ まとめ005 車石 のあるところ

石碑 前回の記事 ➡  石碑山0069  供養塔・題目塔 周囲に車石が多数使われています 

今回の川柳

紙とペン 探してる間に 句を忘れ   / 山本

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石碑山0069  供養塔・題目塔 周囲に車石が多数使われています

2016年11月08日 09時28分53秒 | 石碑

 

「日ノ岡宝塔様縁起」には

「桓武天皇奈良より京都へ遷都以来明治に亘る千有余年の間極刑場(粟田口処刑場)が現在の九条山附近にありました。この刑場で処刑されてはかなく消えた罪人の数は約1万5千人にのぼったといわれ千人に一基ずつの供養塔が十五基各仏教諸宗の手で建てられたと伝えられています。明治の初めこの刑場が廃止されたのち廃仏毀釈の難にあい、供養塔は取り壊され石垣や道路などいろいろな工事に転用されてその断片が処々に残っていました。昭和14年法華倶楽部小島愛之助翁(法華倶楽部創設者)が処刑者の霊の冥福を祈るために石塔断片を基石としてここに供養塔を建立し毎年春秋の二季に亡霊供養の法要を行い立正平和と交通安全も併せて祈っています。日蓮宗京都府宗務所」とある。

 

 

紀元2600年  京都 東京  法華倶楽部

 

鎮魂を目的とする供養塔。高さ280cm(基礎を含む)背面の碑文には、京津国道改修中、街道傍らに建てられていた碑の1つと思われる法華塔断片が発見されたので、これを基壇として、昭和15(1940)12小島愛之助・法華倶楽部創設者および有志により造塔供養を行ったと記す

 

 

基壇の周囲はすべて 車石が配されていました

 

 

 

 

 

車石 ⇒ まとめ005 車石 のあるところ

石碑 前回の記事 ➡  石碑山0068  粟田口の大名号碑  木食上人遺蹟

 

今回の川柳

まだ何の失敗のない朝が好き  /いのすけ

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石碑山0068  粟田口の大名号碑  木食上人遺蹟

2016年11月08日 08時43分11秒 | 石碑

 

 

木喰遺蹟 粟田口の大名号碑

木食正禅養阿上人(1687~1763)は、江戸中期の木食上人のひとりである(出身は丹波保津村)。木食とは、草根木皮の生食のみで生きる、難行中の難行を云う。

当時の京都には、11ケ所の無常所(6墓五三昧)があり、いずれも刑場に近いので、僧俗一般に敬遠されがちであった。しかし、上人は敢えて寒夜を選んで、念佛回向にまわり、享保2年(1717)7月、永代供養のため、各所に名号碑を建立した。なかでも、粟田口は京都最大の刑場なので、一丈三尺(約4m)の特大にしたと旧記にある。現在、下半分が補修されているが、更に復元すれは、「南無阿弥陀佛木食正禅 粟田口寒念佛墓廻り回向 享保二丁酉七月十五日」となるべきであろう。もと九条山周辺にあったが、明治の排仏思想の折、人為的に切断されて道路の溝蓋などに流用されたのである。その時の痛ましい傷痕は、今も石肌に判然と遺っている。

(解説・京都石佛会)  陵ケ岡自治町内連合会

 

 南無阿弥陀仏

安祥院開基木食養阿(?~1763)は,享保2(1717)年に京都の葬送地や刑場(六墓五三昧)に慰霊のため「南無阿弥陀仏」の名号碑を建立した。この碑はその一で,粟田口の刑場に立てたものであるが,のち遺棄され,昭和8(1933)年の国道改修工事の際に折れた上半部のみが出土し現在地に据え置かれた。昭和40(1965)年に下半部を補い復元されている。

  「木食養阿上人絵伝」(安祥院蔵)には「三条粟田口御仕置所は別而重罪超過の所なればとて,石塔も亦余所に過れて大サ壱丈三尺余」と記す。なお,北面下半部に西光院中興西隠の建碑と記すことは不詳。

 

 

此名号石者京都市上京区仁

 和寺街道御前通東入浄土宗

 西光院中興開山西隠法師所

 建立也法師憐於粟田口東刑

 場刑死人々幽魂享保二年建

 立于刑場側矣昭和八年際京

 津国道改修被移于此地然下

 半部缺損上半部亦三縦断老

 衲深憂之発願其復元得有志

 恊力茲工成修開眼法要以顕

 彰西隠法師遺徳矣

    維時昭和四十年孟春之日

    浄土宗総本山知恩院第八

    十三世量誉信宏撰書

 

 享保二丁酉七月

 

粟田口名号碑 碑文の大意

 この碑は京都市上京区仁和寺街道御前東入の浄土宗西光院中興開山西隠法師が建立したものである。法師は粟田口刑場で処刑された罪人の鎮魂のため,享保2年刑場のそばに碑を建てた。

  昭和8年,京都大津間国道改修工事に際し,粟田口から移されて現在地に移された。ところが,下半分がなくなって,しかも上半分も縦に三分されていた。わたし(筆者量誉信宏)はこれを残念に思い,復元を発願した。有志の協力を得てここに竣工し,開眼供養を修し西隠法師の遺徳を顕彰するものである

 

 

京津国道ニ於ケル犠牲者ノ為ニ                 昭和八年三月

正面の「弥」中央から下は、新しい石で補修されている。

 

六墓とは、南無地蔵、大谷、西ノ土手、粟田口、最勝河原(西院)、元三昧の6ケ所。

五三昧は、狐塚(南区唐橋井園町)、阿弥陀ケ峰、中山(黒谷)、千本、七条金光寺の五ケ所をさす。

(六所五三昧の場所は諸説あり、いくつかは特定されていない)

 

なかでも、粟田口は京都最大の刑場で、江戸時代だけで約6000人(15000人とも)が処刑されたという。処刑は毎年12月20日に市中引きまわしの上行われた。まとめて行われたから、京の町衆は「果てのはつか(20日)」と呼んで恐れたという。

 

「木食養阿上人絵伝」(安祥院蔵)には、正禅が「三条粟田口御仕置所は別而重罪超過のところなればとて、石塔も亦余所に過れて大サ壱丈三尺余(約4m)」の大板碑を建立したと記す。

 

もとの下半部が欠矢しているから比較資料による筆跡鑑定が決め手になる。

西大路三条東入、教宣寺前庭に正禅の名号塔がある。

花崗岩製、高さ139×幅42.5cm。正面に「南無阿弥陀仏木食正禅」、その両脇に「寒念仏墓回り廻向」側面には「享保二丁酉七月元さんまい(元三昧)」と刻まれている。

粟田口の上半分と比べると同じ字体である。

明治元年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、正禅の建てた名号碑は横に二分、さらに縦に三分割され、道路の溝蓋などに流用されたという。その後、現在地に移され復元補修された。

  

 

すぐ北側の小川沿いにあった 石柱

文字が刻まれています

 

 

何か書かれているような 判別できません

 養阿上人  関連  ➡  松明殿稲荷神社  養阿上人の井戸あり、この辺り朝市・夜店で賑わったのだろう

                     木食上人 碑

                 安祥院  まだ行けてない

                 教宣寺

石碑 前回の記事  ➡   石碑山0067  日本最初の鉄筋コンクリート橋

 

今回の川柳

 

もう寝たら終わってしまううれしい日   /秀丸

 

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まち歩き山0241  琵琶湖疏水 第3トンネル東口 

2016年11月08日 07時56分36秒 | まち歩き

 

 

第3トンネル東口

扁額

過雨看松色(かうしょうしょくをみる)

松方正義(まつかた まさよし)

意味 時雨が過ぎると、いちだんと鮮やかな松の緑をみることができる

琵琶湖疏水は、明治維新で東京に都が移り、活気を失っていた京都の復興を目指して、明治18年(1885)に建設を始め、明治23年(1890)に第1疎水が完成しました。

眼前の第3トンネル入口付近には、明治36年(1903)7月、日本初の鉄筋コンクリートといわれる第11号橋が試造されました。この橋の鉄筋は専用の材料がなかったため、疏水工事で使ったトロッコのレールが代用されています。鉄筋コンクリートの技術は、のちに第2疎水などの土木工事に生かされていました。

橋の東には、かつて日ノ岡船溜まりが広がり、疎水を行き交う船が泊まっていました。

現在は埋め立てられ、新山科浄水場の取水地として利用されています。

 

まち歩き

疏水  前回の記事  ➡  まち歩き山0240  琵琶湖疏水 日本初コンクリート橋

 

今回の川柳

 

雨の日1人暮らしは電話魔に  /多田

 

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石碑山0067  日本最初の鉄筋コンクリート橋

2016年11月08日 06時09分12秒 | 石碑

 

 

日本最初の鉄筋コンクリート橋

  

昭和五十二年八月   京都洛東ライオンズクラブ寄贈

 

日本初コンクリート橋

 大津市三保ヶ崎の琵琶湖取水口から山科・蹴上を経て京都市内に至る琵琶湖第一疏水のうち,第三墜道の東口に架けられた,日本最初の西洋式鉄筋コンクリートで造られた橋。明治36(1903)年7月に竣工した。この石標はその橋を示すものである。

 

本邦最初鉄筋混凝土橋

 

明治三十六年七月   竣工

 米蘭式鉄筋混凝土橋桁

 工学博士田辺朔郎書之

 琵琶湖第1疎水のうち第3トンネル東口に、100年も前に造られた日本最古の鉄筋コンクリート橋(疎水11号橋)がある。現在も利用されている。橋を渡った左側にこの碑が建つ。(高さ216cm、幅85cm、奥行き14cm)

碑文正面に「本邦最初鉄筋混凝土橋」

 

背面は「明治36年(1903)7月竣工 米蘭式鉄筋混凝土橋桁 工学博士田邉朔朗書之」

橋の長さは7.3m 幅は1.5mのアーチ型。コンクリートの厚さは約30㎝ 当初柵はなかったが、現在は左右に転落防止のため設置されている。

工部大学(東京大学)を卒業したばかりの青年技師・田邉朔朗は、セメントと鉄筋は輸入しながらも、他の建設資材は現地に煉瓦工場を造るなど工夫を重ね、国内から調達した。「琵琶湖疏水煉瓦工場跡」碑が地下鉄東西線御陵駅入り口に建っている。

碑文にある「米蘭式」とは「メラン式」というコンクリート工法の一種で、田邉朔朗が日本に紹介した。ただ、この橋が日本最初のアーチ式鉄筋コンクリート橋かどうかは議論があり、ほぼ同時期に、神戸市にある「若狭橋」も建設されている。若狭橋がこの橋より1ケ月早く完成している。ただ、若狭橋はフランスのスラブ型である。スラブ型というのは鉄筋コンクリート板を並べる方式なので、コンクリートの中に山形鉄を配置したドイツ型のメラン型より古い様式といわれる。「メラン型日本最初の鉄筋コンクリート橋」である。

若狭橋は「スラブ型日本最初の鉄筋コンクリート橋」である。

 

 関連記事  ➡  まち歩き山0240  琵琶湖疏水 日本初コンクリート橋

 石碑 前回の記事  ➡ 石碑山0066  日時計碑  

 

今回の川柳

 

喜べば喜ばれると気がついた    /戸矢

 

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