アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

道標左0073  長谷川玉峰翁墓道

2016年11月12日 19時12分29秒 | 道標

 どんな人なんでしょう

谷川玉峰(はせがわ・ぎょくほう)文政5年京都に生れる。父は画家の長谷川玄門。松村景文に師事して四条派を学んで人物画や花鳥画を得意として京の画壇で活躍した。また同門に横山清暉 八木奇峰らがおり、その技倆は同門随一と称された。明治12年没。

享年 58才。

 

 

道標 前回の記事  ➡  道標山0072  毘沙門堂へ  安朱橋の道標

 

今回の川柳

家柄が良くて人柄悪い人   /竹風

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まち歩き左0247  溝に勢いよく流れ出る水  南禅寺境内

2016年11月12日 05時48分26秒 | まち歩き

 どこへ行くともなしに歩いていると 

南禅寺境内に入ってしまった 

 溝に勢いよく流れる水を見た

まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き左0246  琵琶湖疏水 公園一帯 

今回の川柳

孤独死と言うが死ぬときゃ皆独り  /忠公

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石碑左0074  殉職者之碑  京都市電気局

2016年11月12日 05時40分33秒 | 石碑

 

この碑は、琵琶湖疏水の建設工事中に事故や病気により殉職された方を弔う為、昭和16年11月、琵琶湖疏水事業を所管していた京都市電気局の職員により建立されました。

明治23年に竣工した琵琶湖疏水は、我が国最初の事業用水力発電所や運河、灌漑用水等に利用され、東京遷都により産業が衰退した京都のまちの復興を果たしてきました。現在も京都市民の命を支える水道や発電、防火用水等に広く利用されています。この琵琶湖疏水の建設工事は、主任技術者である田邉朔郎を中心に外国人技術者の手を借りることなく実施し、当時の日本人の学び得た技術を最大限実地に応用した画期的かつ大規模なものでした。題字は当時のの京都市長

 加賀谷朝蔵によるものです。

京都華頂ライオンズクラブ 結成40周年記念事業

 

琵琶湖疏水工事 殉職者之碑 京都市電気局

 

琵琶湖疏水工事殉職者の慰霊碑。電気局により建立されたのは,

昭和16年当時琵琶湖疏水を管掌していたのが同局ということによる。

高196×幅145×奥行28cm

昭和十六年十一月建之

       京都市電気局電気課職員一同

             京都市長   加賀谷朝蔵

関連記事  慰霊碑 戦没碑 ➡    慰霊碑  戦没碑

石碑 前回の記事 ➡  石碑左0073  田辺朔郎紀功碑

 

今回の川柳

ミスショットするとクラブをにらむクセ   /岸

 

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石碑左0073  田辺朔郎紀功碑

2016年11月12日 05時31分01秒 | 石碑

 

 

田辺朔郎(18611944)は琵琶湖疏水工事を推進し,その後も京都市・京都府の土木事業にたずさわった。この碑は田辺の還暦を記念しその功績をたたえるために建てられたものである。最初の建立地は賀茂川と高野川の合流地点の出町剣先であったが,昭和16年に現地に移された。京都市電気局編『琵琶湖疏水及水力事業』(1940年 同局刊)によれば大正12年7月19日除幕。碑文は山本竟山書。礎石の中に石の唐櫃を設け,疏水工事その他の資料を銅管内に封入して収めた。この碑の北隣には昭和57年に田辺朔郎の銅像が建立された

田辺朔朗は文久元年(1861)江戸に生まれる。明治15年(1882)工部大学校学生であった田辺は 京都の衰微を回復するため琵琶湖疏水の実現に奔走する京都府知事北垣国道に会い請われて翌年 京都府に着任し 財政と技術を案ずる反対派の説得に知事を助け、明治18年(1885)起工後は設計、施工の総責任者となる。当時はほとんど機械 資材とてなく、いわば人力のみに頼る長さ2436mの長等山トンネルの工事は困難を極めたが 卓抜な技術と強い信念 不屈の精神力によりこれを克服した。また優れた先見性により世界で2番目の水力発電をこの蹴上の地に実現し、産業動力源とするとともに わが国初の路面電車を京都に走らせた 明治23年(1890)4月 晴れの通水式を迎えた田邉朔朗は28歳であった。

わが国土木技術の黎明期を開拓した偉大な先覚者であると同時に 近代都市京都の基礎をつくった恩人田辺朔朗の像を建て ここに顕彰する  京都市

 

工学博士田辺朔郎君紀功碑

 

 

 

従三位勲二等工学博士田辺朔郎君紀功碑ノ記

 琵琶湖ノ水ヲ引キテ水利ヲ京都ニ興サントスルハ百餘年来屡識者ノ唱へシ所ナレドモ能ク起チテ之ニ当ル者ナカリキ明治二年   車駕東幸シ一千年   帝都ノ地日ニ衰弊セントス事   天聴ニ達シ畏クモ   内帑ノ金ヲ賜ヒテ産業振興ノ資ヲ佐ケラル京都府知事北

 垣国道君   聖旨ニ感激シ琵琶湖疏水工事ヲ断行シ府民ヲシテ永ク   皇沢ニ浴セシメント欲ス時ニ田辺朔郎君工部大学生タリ夙ニ

 琵琶湖疏水ノ京都ニ利アルヲ念ヒ其ノ地ヲ踏査シテ審ニ之ヲ論ゼリ大学校長大鳥圭介君素ヨリ君ガ才ノ用フベキヲ知リ之ヲ知事

 ニ薦ム知事君ノ設計ヲ聴キテ大ニ喜ビ十六年君ガ二十三歳ニシテ大学ヲ卒業スルニ及ビ此ノ大工事ヲ挙ゲテ君ニ嘱セリ当時我ガ

 国土木ノ術未進マズ工事ノ稍大ナル者ハ概之ヲ外人ニ託スルヲ常トセシカバ君ノ才ヲ知ラズシテ其ノ前途ヲ危ミ此ノ挙ヲ難ズル

 者尠カラズサレド知事ハ群議ヲ却ケ君ヲ信ジテ疑ハズ君亦慨然トシテ之ニ任ゼリ乃チ水路ヲ幹枝二線ニ分チ湖口三保崎ヨリ藤尾

 山科蹴上ヲ経テ夷川ニ至リ堀川ニ合スル者ヲ幹線トシ専之ヲ舟運ニ便シ蹴上ヨリ若王子白川ヲ経テ堀川ニ合スル者ヲ枝線トシ之

 ヲ潅漑及工業二供スル計画ヲ定ム斯クテ十八年六月三日ヲ以テ工ヲ起スヤ君日夜心血ヲ傾注シテ之二当リ要スル所ノ材料及機械

 ノ類或ハ遠ク外国二求メ或ハ自考案製作シ又部下ヲ教習指導シテ其ノ技ニ熟セシムル等百方画策孜孜トシテ倦マズ工程愈進ミテ

 苦慮益加ル就中長等山隧道ハ長サ一千三百四十間国中ニ比ナク蹴上ヨリ南禅寺前ニ至ル傾斜鉄道ハ長サ三百二十間世界未曽有ト

 ス又南禅寺前ヨリ鴨川ニ至ル間ニハ閘門ヲ設ケ落差ヲ調節シテ舟運ニ便セリ此ノ工未半ナラザルニ米国ニ於テ始メテ水力発電所」

 ヲ設ケタルヲ聞キ二十一年君米国ニ赴キテ之ヲ調査シ帰リテ発電所ヲ蹴上ニ創設ス是我ガ国ニ於ケル水力発電装置ノ嚆矢ニシテ

 世界最大ト称セラル経営ノ苦心思フベシ二十三年四月功竣ル起工以来実ニ一千七百七十二日ヲ閲セリ之ヲ第一疏水トス同月九日

 竣功式ヲ挙行ス      天皇   皇后親臨シ   優詔ヲ賜ヒテ偉功ヲ褒セラル其ノ後君ハ帝国大学教授ニ任ゼラレテ東京ニ赴キ工学博士

 ヲ授ケラレ次イデ北海道庁鉄道部長ヨリ京都帝国大学教授ニ転ジ現ニ其ノ任ニ在リ夷川ヨリ深草ヲ経テ伏見ニ至ル運河ハ第一疏

 水ノ延長工事ニシテ君ガ其ノ設計及監督ノ大綱ニ参与シタルハ東京在任中ノ事ニ属ス四十一年京都市再君ニ嘱シテ第二疏水及上

 水道街路改修ノ三大工事ヲ行フ乃チ第一疏水ニ沿ヒテ隧道ヲ設ケ水ヲ蹴上ニ会セシメ之ニ依リテ発電力ヲ増大シ改修街路上ニ電

 車ヲ運転シ上水道ノ設備ヲ完成シ且蹴上以下ノ既設水路ヲ拡張シ大ニ舟運ノ便ヲ加フルニ至レリ顧フニ琵琶湖疏水ハ我ガ国空前

 ノ大工事ニシテ其ノ施設ハ東西諸国ニ率先セリ学識該博徳望衆ヲ率ヰ至誠堅忍経営宜シキヲ得ルコト君ガ如クナルニ非ザルヨリ

 ハ焉ゾ此ノ功ヲ収メン英米諸国之ヲ聞キ君ニ功牌ヲ贈リテ其ノ功ヲ称セリ君ガ京都府ニ於ケル功績ハ之ニ止ラズ京都ヨリ宮津ニ

至ル道路ヲ改修シ京都舞鶴間ノ鉄道線路ヲ選定セルガ如キ皆其ノ宜シキヲ得ザルハナシ嗚呼偉ナルカナ今ヤ京都ノ殷盛ハ昔日ニ

 陵駕シ疏水ノ偉績ハ永ク万人ノ頼ル所タリ疏水ノ鴨川ニ注グ処橋ヲ架シテ田邊橋ト曰フハ未君ノ名ヲ著スニ足ラズ大正十年君寿

 還暦ニ当ル乃チ碑ヲ建テ事ヲ記シテ其ノ功ヲ百世ニ伝フ実ニ我ガ府民ノ志ナリ

 大正十二年二月                           京都府知事正四位勲三等池松時和

 

                                                                            京都芳村茂右衛門刻

 

 昭和十六年八月正三位勲一等工学博士

 田辺朔郎君ノ紀功碑ヲ下鴨ヨリ蹴上ニ移築ス

 

石碑 前回の記事 ➡  石碑左0072  弔魂碑  琵琶湖疏水・責任者・田辺朔郎が建立

 

今回の川柳

よけてく子とびこむ子いる水たまり   /ねむたい

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