アートプラス京めぐり

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京都市外も始めました 先ずは京都南部から

まち歩き左0244  琵琶湖疏水  インクライン・運輸船

2016年11月10日 21時00分41秒 | まち歩き

 

この木造船は、明治23年に竣工した琵琶湖疏水で使用されていた

運輸船を復元したものです。

当時は、船ごとインクライン(傾斜鉄道)の台車に載せて、この坂を昇降させていました。

★印 蹴上インクラインは、平成8年に国の史跡に指定されています。 

京都市上下水道局

この木造船(三十石船)は、京都滋賀県人会創立50周年を記念して、

平成22年3月に寄贈されました。

 

 

 

このインラインは、第3トンネルを掘削した土砂を埋め立てて作られました。この蹴上船溜(ダム)から南禅寺船溜までの延長は約582mです。落差が約36mあるため、この間はどうしても陸送になりました。インクラインはレールを4本敷設した複線の傾斜鉄道です。両船溜に到着した船が、旅客や貨物をのせ替えることなく運行できるように考えられたのがこのインクラインです。

建設当初は、水車動力でドラム(巻上機)を回転して、ワイヤーロープを巻き上げて台車を上下させる設計でしたが、蹴上水力発電所の完成により電力使用に設計変更されました。

ドラムは、最初は蹴上船溜の上にありましたが、後に南禅寺船溜北側の建物に移転し改造されました。台車を上下させる仕組みは、図のように直径3.6mのドラムを35馬力(25kW)の直流電動機で回転させて、直径3cmのワイヤーロープを巻き上げて運転していました。蹴上船溜の水中部には、直径3.2mの水中滑車(展示品)を水平に設置していました。また、レールは当初イギリスから輸入され、軌道中心には直径約60cmの縄受車を約9m間隔に設置し、ワイヤーロープが地面にすれるのを防ぎ、円滑に巻き取れるようにしてありました。ちょうどケーブルカー(鋼索鉄道)のような仕組みで、2段変速できるようになっていて、孝道の所要時間としては10~15分かかりました。琵琶湖疏水記念会館にインクラインの模型(1/50)を展示しています。

平成15年3月1日  京都市水道局

 

まち歩き

疏水   前回の記事  ➡ まち歩き山0243  琵琶湖疏水  大日向橋  第3トンネル西口  他の疏水あり複雑

 

今回の川柳

三時間 待って病名 「加齢です」    /大原

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まち歩き山0243  琵琶湖疏水  大日向橋  第3トンネル西口  他の疏水あり複雑

2016年11月10日 06時09分47秒 | まち歩き

 

 

 

 

 

 

上流を見ると第3トンネルの西口が見えます

 

 蹴上浄水場の東,日向大神宮参道に面しています。ここで第一と第二疏水の水が合流し,水は浄水用と発電用に分けられ,一部は閘門(こうもん)によって分線に流されています。最初は疏水運河を上下する船を留め,水運調整を計った所でした。京都市によって復元整備され,一帯は公園になっています。

 

 

第3トンネル西口

扁額

美哉山河(うるわしきかなさんが)

三條實美(さんじょうさねとみ)

意味 なんと美しい山河であろう

 

扁額の上部には S TANABE M E DR  ENG  ENGINEER-IN-VHIEF  WORK  COMMENCED  AUGUST 1885 COMPLETED  APRIL 1890

(主任技師の田邉朔朗工学科博士によって、 1885年8月~1890年4月の工事で完成したものである)の文字が刻まれています。

 

琵琶湖疏水は、明治維新で東京に都が移り、活気を失っていた京都の復興を目指して、明治18年(1885)に建設を始め、明治23年(1890)に第1疎水が完成しました。

疎水の水は、水車動力、舟運、灌漑、防火などに使われ、さらに日本初の事業用水力発電に用いられました。生み出された電力によって、工業が発達し、日本初の電気鉄道が走るなど、京都はにぎやかさを取り戻していきました。琵琶湖の豊かな水を引いたことは、京都の発展をもたらしたのです。

多くの恵みを京都にもたらした琵琶湖疏水は、今も水道や発電などの水として、市民の生活を支える源となっています。

 

 

 橋の上からみえる  取水口  この水はどこへいくのか 不明

 

下流をみると  船が展示してありました

水の流れはありません

 

青サギがいました

 

上流側に トンネルの入口が見えます

どこへ行くのでしょうか

一段低くなっています

 

 

探索はまだまだ 続きます

まち歩き

疏水    前回の記事  ➡  まち歩き山0242  蹴上浄水場   花  歌碑

 

今回の川柳

景色よりトイレを選び通路側    /かおる

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石鳥居241基  日向大神宮  社号標 と 安養寺 寺号標  仲良く同居ですね

2016年11月10日 06時05分59秒 | 石鳥居

 

  左に 清龍山  安養寺 の寺号標

  右に 式内 日向大神宮 の社号標

  奥に  石鳥居    神社 と 寺 仲良く同居ですね 

 

昭和6年12月 建立  住職 村上辨議

 

大正2年6月建立

稲荷山宮司従五位 大貫眞浦敬書

 

 

鳥居 敷石 寄付者  23名の名が記されています

大正4年10月 再建

 

昭和5年9月

神田稲荷神社改築記念建立  願主

 

関連記事  ➡  安養寺

           日向大神宮

石鳥居 前回の記事  ➡  石鳥居240基  明治26年建立  灯籠に 天満宮とありました  滋賀

 

今回の川柳

耳かきのあと数ミリの冒険心  /竹山

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まち歩き山0242  蹴上浄水場   花  歌碑

2016年11月10日 06時02分09秒 | まち歩き

 

 

明治45年(1912)3月に竣工した我国初の急速ろ過式の浄水場。疎水の水を上水に清浄し、一般家庭や工場に配水する京都市営の浄水場の1つである。

創業当初の給水能力は1日68000㎥、当時の給水人口4万人に比べて約2倍であったが、その後、発展する人口の増加によって、昭和37年(1962)1月には拡張工事を行ない、新旧あわせて1日約200000㎥の給水能力を有する近代的な浄水場として生まれかわった。

 

  

九条山浄水場

 

蹴上浄水場   198,000立方メートル

 日本最初の急速ろ過式の浄水場として明治45年3月に竣工し,京都市ではじめて給水を開始し,平成24年8月には,浄水施設の全面リニューアルが完成しました。 また,場内約7,600本のつつじ・さつきは,浄水場一般公開で市民の皆様に親しまれています。

新山科浄水場  362,000立方メートル

 昭和45年11月にしゅん工しました。
 この浄水場は本市最大の浄水場で,琵琶湖から取水しているほか,宇治川からも一部取水をすることができます。

松ヶ崎浄水場  211,000立方メートル

 昭和2年6月,緩速ろ過式の浄水場としてしゅん工し,その後水需要の増大に対応するために効率のよい急速ろ過式に改造しました。
 大文字五山送り火の1つ“妙法”の「妙」の上部に最高区配水池があります。

 

山ノ内浄水場   現在、敷地は 大学になっています

 山ノ内浄水場は昭和41年に完成し,安全・安心な水道水を京都市内西部地域(右京区・西京区・南区の一部)に供給していました。当時の最大給水能力は一日当たり24万立方メートルです。

 水道水の原水が琵琶湖から琵琶湖疏水を流れ,蹴上の取水池から導水管(長さ8km,直径1m65cm)によって自然流下で山ノ内浄水場まで運ばれ水道水をつくり,浄水場から 浄水場からポンプによる直送方式(低区給水区域)と高雄配水池からの自然流下方式(高区給水区域)で給水されていました。

 しかし,近年の水需要の減少に伴い浄水場施設規模の適正化を図るため,京都市全体の給水区域の見直し及び高雄高区排水池送水用の山ノ内ポンプ場整備などを経て,平成25年3月に山ノ内浄水場は廃止されました。

 

 

 

 場内には「つつじ」や「さつき」が植えられ、一般公開もされている。また、場内に与謝野晶子の歌碑がある。これは、この地が与謝野晶子の曽遊の地、旅舎辻野の跡に因んで建立されている。

 

関連記事 ➡ ポスター0006  蹴上のつつじ  4600本が咲き誇る

 

与謝野 晶子 関連 ➡ 右書き看板  司子菓御   創業以来95年 二條若狭屋 

                               人物022 与謝野 晶子

                寺院左0474 歌碑 与謝野晶子・寛

 

まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き山0241  琵琶湖疏水 第3トンネル東口 

 

今回の川柳

キス以降 彼の態度が厚かまし  /ダッちゃん 

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