地名 蹴上について
蹴上とよばれるに至ったについては、次のような伝説があ。
安元3年(1177)の秋、牛若丸は金売吉次にともなわれ、奥州へくだる途中、またまたここを通りかかった平家の武士関原与市重治の馬が、水溜りの水を牛若丸に蹴りかけた。牛若丸はその無礼をとがめて争いになり、与市を斬り捨てたという。それよりこのところを蹴上と呼ぶに至ったという。
このとき斬られた与市主従9人の菩提を弔うために、石仏9体を安置したところが九体町で、このうち3体は今も国道筋北側に安置されている。
石仏9体とは粟田口刑場にて処刑された人々の菩提を弔うために安置されたものであり、牛若丸とは関係がないとのこと。
ここにある地蔵堂の石仏はこのうちの1体とのこと。
三条通に面して二間四方の地蔵堂があります。高さ2m。
右手に鉄製の錫杖、左手に宝珠を持つ通常の姿の地蔵を丸彫りしたもの。この表情は「張りのない肉付けと、重い衣文には生彩のない江戸末期の作風を示す」とのこと。
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史跡山017 粟田口刑場跡
この地は、東国から都への交通の要衝であり、粟田口に位置しています。ここは、東海道の最後の難所日岡峠につづく高みで、粟田口峠と呼ばれていました。そのために、幾度となく掘り下げが行われてきました。
元文元年(1736)には、五条坂安祥院住持の木食正禅により粟田口峠南の木橋が石橋に架け替えられると共に、切り下げられました。文化年間には、車道(くるまみち)に車石舗装がされ、人馬道には灯籠が建てられました。幕府最後の慶応3年(1867)には、急峻な日岡峠を避け、その北に新道を付け替えました。その結果、この粟田口峠が日岡峠道の最高所となったため、明治以降は粟田口峠が日岡峠と呼ばれています。
当町内にある修路碑は、その歴史を物語るものです。
また古来、都と郊外の境界に位置するこの地には、公開処刑場が設けられていました。江戸時代には、粟田口(日岡)刑場として、この地で磔、獄門、火刑が行われました。刑場を望む山裾には、刑死者の霊を弔い慰め、供養するために宗教者によって何基もの供養塔が建てられました。明治5年(1872)には、この刑場跡地の後ろ山中腹に粟田口解剖所が設けられ、短期間ではありましたが、近代医学の発展に寄与した場所でもあります。
しかし、明治初期の廃仏毀釈や現代にいたる開発によって、供養塔や経王塔などが破壊され、道路側溝の蓋石や石垣石などにされてしまいました。さらに、明治8~10年にかけての日岡峠切り下げ工事と、昭和6~8年にかけての京津国道改良工事などによって、景観も一変しました。そのような中で、日岡擁壁には、旧舗石車石や経王塔がはめ込まれて残され、また当町の南、日ノ岡朝田町には出土した供養塔の断片が名号碑や題目碑として復元されており、当地の歴史を知るよすがとなっています。
九条山峠町町内会 京都市
電柱の右に堂がある
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史跡 前回の記事 ➡ 史跡滋賀016 大津城
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