華頂山と号する浄土宗西山禅林寺派の寺。念仏堂または上之堂とも称し、
昔は粟田口村の惣堂として親しまれた。
永禄7年(1564)青蓮院の承仕渡辺某が西谷上人に帰依して宅地を寄進し、
さらに西谷の弟子浄清によって一寺を建立したのが当寺の起こりと伝わる。
はじめ天台宗青蓮院に属した。
本堂には本尊阿弥陀如来像を安置する。
華頂山 良恩寺 導引地蔵 と書かれている
導引地蔵は境内の地蔵堂に安置されている。木彫、高さ1m余の立像、円満相好の顔つきで鎌倉時代の作風をしのばせている。もと常在光院の遺仏といわれ、足利尊氏の守本尊と伝わる。
導引地蔵と呼ばれるのは、もと当寺の背後の華頂山中に火葬場があって、葬列がこの前を通るときに引導を受けたからによる。この火葬場は三条通の北、東岩倉山下にあって、慶長元年(1596)酒井忠次夫人を火葬したのにはじまる。寛永元年(1624)金地院に東照宮が勧請されるにおよんで、火葬の臭気を嫌われ、華頂山に移転した。それより良恩寺にて管理にあたったが、享保年間(1716~36)に廃止されたとのこと
手取釜
当寺の什宝。昔粟田口のあたりに名を善輔と称する隠士が住んでいた。どこの人がわからない。清貧のなかで常に1個の釜を愛し、貴賤を問わず、往来の人に一服の茶をあたえて話を聞くのが楽しみとしていた。あるとき、この釜が名器であることを伝え聞いた秀吉は、千利休を譲ってもらうよう頼んだが、善輔はあえてこれを拒絶し、惜しげもなく石に投げつけて壊してしまった。利休は短期の秀吉がこのことを聞けば、きっと立腹するだろうと思い煩ったが、ついにありのままを恐る恐る復命したところ、秀吉はおおいに感嘆し、「これこそまことの道人である。かれが秘蔵のものを所望したのは、自分の間違いだった」と言って、早速2個の手取釜をつくり、1個は自分用に、1個は善輔に与えて償いとしたという。この手取釜は口径3寸2分、高さ5寸5分、底の広さ7寸、茄子型をした燗鍋の一種
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真宗仏光寺の別院、東山別院または東山廟所ともいう。
元禄8年(1695)仏光寺第20世随如上人がこの地にあった角倉屋敷を購入し、仏光寺境内にあった祖廟を移して堂宇を営んだのにはじまると伝わる。現在の本堂は安永4年(1775)の建築で、堂内には本尊阿弥陀如来像を安置、内陣の天井には石田守善筆「四季百花百草の図」、襖には狩野永常筆「松・孔雀・芭蕉・麒麟図」を描く。また、廟堂には親鸞上人の遺骨および肉付歯を奉安した舎利塔を安置している。
小川治兵衛墓
境内の西南隅にある。小川治兵衛は乙訓郡西神足村字宇馬場(現長岡京市)の出身
万延元年(1860)山本弥兵衛の二男として生まれ、幼名を源之助という。18歳で庭師小川家の養子となり、七代目を名乗った。遠州流を学び、天才的な器用さが認められた。山県有朋、西園寺公望ら明治の政財界人の後援を得、無鄰菴や平安神宮・円山公園・野村別邸等、造園史に名を残す幾多の庭園をつくった。昭和8年(1933)12月2日、74歳で亡くなった。
石田守善は京都の画家、栄次郎。遊汀と号す。幽汀の二男。寛政内裏造営のとき、御用画を拝命。寛政5年(1793)9月3日亡くなる。墓は中京区錦小路大宮西入、休務寺。
狩野永常は狩野永隆の子、山隆と号す。通称縫殿助。京都の画家、天明7年(1787)2月10日亡くなる。57歳
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